マカオでは中国に反対する勢力が少ないのはどうして?
実は、マカオがポルトガル領になったきっかけづくりをしたのが、日本だったといったら驚きますでしょうか。
16世紀初頭、ヨーロッパ諸国の中で東アジアに真っ先に入ってきたポルトガルは、1513年に中国(明朝)に到達。以後、極東とヨーロッパを結ぶ貿易とキリスト教布教の目的で頻繁に出入りをするようになりますが、貿易の頻度が増すにつれ、どうしても中国に拠点をつくる必要が出てきました。そこで考えたのが「用心棒」作戦でした。
当時、中国沿岸部では「倭寇」(わこう)と呼ばれる日本の海賊が出没し、貿易が著しく侵害されていたことに目をつけたポルトガルは、中国の倭寇討伐軍に協力して成果をあげ、その見返りとして1557年にマカオの居住権を得るのです。以後、マカオは東アジアとヨーロッパを結ぶ貿易の拠点として、また、キリスト教の東方伝導の拠点としての地位を確立していきます。
しかし、当時マカオは厳密な意味での植民地ではありませんでした。マカオにいる外国人は中国の法のもとから解放されましたが、人口のほとんどを占める中国人の管轄権は中国にありましたし、ポルトガル人は毎年中国に対して税金を払う義務があったのです。簡単に言うと、ポルトガルが中国の所有する賃貸住宅に住み始めたのが16世紀中ごろということです。
しかし、マカオが本当の意味での植民地になったのは、何といってもイギリスの影響が大きかったわけです。1842年の南京条約で香港島を、60年の北京条約では九竜半島先端部を自国の領土とし、98年には新界とランタオ島が「99年間」手に入るという、いってみれば「濡れ手に粟」のイギリスを、中国に関しては欧州一番乗りのポルトガルが黙って見ているわけはありませんでした。イギリスの悪乗りを見た彼らも、1849年にはマカオを自由港とすることを一方的に宣言して、中国に対する租税の支払いも停止。そして1887年には、力の弱まった清朝に対し、マカオをポルトガル植民地とすることを正式に認めさせることになったのです。
このようにマカオの植民地化は、イギリスによる香港植民地化の強い影響を受けたわけでしたが、その返還もまた香港返還にならって行なわれました。特に、マカオは戦争によらず、平和裏に植民地化された経緯を持っているので、その返還交渉もかなりスムーズに行なわれました。何よりも、20世紀にはポルトガルの国力そのものが衰退し、地球を半分まわった極東の小島を統治し続けるほど強くはなくなったところが、香港と違うところです。
第二次世界大戦後、中国は香港と共にマカオに対する主権を主張します。当初、ポルトガル政府は聞く耳を持たず、マカオを海外州の一部として統治していましたが、実際問題としてマカオの人口の9割強を占める中国人を、地球の裏側から統治するのは至難の技です。実際1966年に起こった、「マカオ暴動」と呼ばれる内乱に対して、ポルトガル政府は何の手段も講じることができませんでした。結果、内乱を鎮圧した中国政府が、以後マカオの実権を握るようになっていったのです。
1979年、ポルトガルと中国は国交を樹立することになりましたが、そのとき、マカオに関しては何ともおかしな取り決めが行なわれました。つまり、「マカオの統治権はポルトガルにあるが、その主権は中国にある」というのがそれです。これは「マカオ方式」と呼ばれる、世にも珍しい統治方式ですが、簡単に言うと、「これ、ぼくの部屋だけど、使っていいよ」というような具合でしょう。つまり、ポルトガルは一軒家の所有をあきらめて、今後は中国の所有する「マカオ賃貸住宅」に戻りますという契約が「マカオ方式」ということです。
つまり、イギリスと中国が香港の返還交渉を始める1982年の時点で、実質的にマカオの主権は中国に返上されていたわけです。1984年にイギリスが香港全域の返還を正式に決定すると、ポルトガルもそれにならって87年にマカオの返還を正式に決定。1999年の12月20日に、マカオを中国に返還することで決着がついたというわけです。
香港返還が正式に決まった際、イギリスと中国との間には「一国二制度」という取り決めが交わされました。つまり、中国は返還される香港を「特別行政区」に指定して、軍事・外交の項目以外の憲法、法体系、及び選挙制度の継続を含む「高度の自治権」と現有する私有財産を認めること、さらに「香港の資本主義体制と生活様式を50年間変更しない」ことなどを約束したのです。
マカオの返還に際しても、これとほとんど同じ内容の取り決めが交わされました。つまり、マカオは返還後に香港と同じく「特別行政区」に指定され、高度の自治権を持つことになります。93年には「マカオ特別行政区基本法」が制定され、99年末の返還に備えました。
ただし、前にも触れたとおり、マカオの主権は、すでに中国のものとなって久しいので、実際に返還される前と後とでは、さほど住民の心理に大きな変化はなかったというのが実情のようです。ギャンブルに関しても、当分の間はマカオ特別行政区が実行して良いということになっていましたから、2002年にはカジノ経営権の国際入札が行われ、多くの外資を呼び込むことに成功。2003年には中国本土との経済連携を緊密化する法律もできて貿易も活性化。2004年以来の高い経済成長率に支えられて、一人当たりの国内総生産は2016年以降4年連続で世界第三位の地位を誇っています。日本では新型コロナウイルスの影響で10万円の定額給付金が支給されましたが、マカオでは2008年以来毎年一人当たり約12万円の給付が定着しています。香港ではあんなに問題になった国家安全条例もマカオでは2009年にすんなりと法制化され、反対運動も政党活動も一切ないという、中国とのかかわりにおいて、香港とは全く違った道を歩んでいるのがマカオです。