ASEAN10

1.ASEAN10とは、どういうものですか?

 東南アジアの国々は、一度も他国の支配を受けなかったタイを唯一の例外として、ほとんどの場合、第二次世界大戦後に欧米諸国の植民地から独立を達成した、比較的新しい国家群です。国別で見ていきますと、まず第二次世界大戦直後の1946年にはアメリカからフィリピンが、48年にはイギリスからビルマ(ミャンマー)が、49年にはインドネシアがオランダから、それぞれ独立。60年代には、まず63年にマレーシアが独立し、65年にはシンガポールがマレーシア連邦から分離して独立します。この時点でまわりを見渡すと、独立国はタイ、フィリピン、ビルマ、インドネシア、マレーシア、シンガポールの6カ国で、ブルネイ・ダルサラーム国は未だにイギリスの保護国、インドシナ半島では、ベトナムとラオス、そしてカンボジアでは内戦真っ最中という状態でした。

 さて、ASEAN(東南アジア諸国連合)構想が、どういう背景で出てきたのかという点ですが、まず、63年のマレーシア独立に際して、インドネシアとの政治問題およびフィリピンとの領土問題が、一応の決着を見たということがあります。マレーシアは57年、マラヤ連邦としてイギリスから完全に独立しますが、初代首相に就任したラーマン首相は、マラヤ連邦と、シンガポール、そしてボルネオ北部のイギリス領であるサラワク、サバ、ブルネイを統合してマレーシア連邦を形成するという構想を持っていましたから、ボルネオ北部サバ地方の領有権を主張するフィリピンとは領土問題で対立関係にありました。さらに、政治的にはマラヤ連邦のラーマン首相が、西側先進国との関係強化に向かったのに対し、インドネシアのスカルノ大統領は西側とも東側とも組まない非同盟・中立主義を掲げて、西寄りのマラヤ連邦を批判したため、インドネシアとマラヤ連邦は、スカルノ大統領が失脚するまで対立関係にありました。マラヤ連邦の拡大志向をめぐるインドネシア、フィリピンとの対立は、俗に「マレーシア紛争」と呼ばれ、50年代末期の東南アジアにおける不安定材料の一つだったのです。

 ところがマラヤ連邦のラーマン首相は、63年のマレーシア連邦成立までに、北ボルネオの領土問題で譲歩してフィリピンとの関係を修復。また65年、インドネシアでスカルノ大統領が失脚してスハルト大統領政権が発足すると、その外交政策も西側との協調路線に方向転換したため、マラヤ連邦との関係は瞬く間に好転します。

 よって、マレーシア連邦が成立し、かつ域内の対立関係が修復された65年以降、独立を達成した東南アジア諸国6カ国が協力して、互いに地域の安定に努力していきましょうという動きが出てきたのです。結局、62年のネ・ウィン軍事政権成立以降、「ビルマ型社会主義」と呼ばれる半鎖国政策を取っていたビルマは参加を見合わせることになりましたが、その他の東南アジア5カ国(インドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイ)で67年に出発したのがASEAN東南アジア諸国連合)です。84年に完全独立を達成したブルネイ・ダルサラームも、同年ASEANの参加し、以後95年まで、ASEAN加盟国は6カ国体制となります。

 さて、経済協力と地域安定を目標に発足したASEANは、以後、地域内のさまざまな対立関係や紛争により、最近まで当初の目的を達成できずにいました。しかしながら、ソ連崩壊後の国際情勢の変化により、ベトナムやカンボジアで和平の動きが高まると、再び東南アジア全体で政治的、経済的安定を進めていこうという雰囲気が盛りあがってきます。また、東南アジア地域の安定と経済協力という目標を達成するためには、東南アジア10カ国がすべて参加しなければならないという考えのもと、90年代には、東南アジア10カ国が参加するASEAN、つまりASEAN10の早期実現が大きな目標となっていったのです。

 残りの4カ国のうち、最初にASEAN加盟にこぎつけたのがベトナムでした。ベトナムは76年に南北統一を達成したものの、78年には隣国カンボジアの内戦に介入。79年には中国の侵攻(中越戦争)を受けるなど、80年代末に至るまで、政治的には非常に不安定な状態が続きました。しかしながら、82年に始まったカンボジア撤退が89年に終結し、91年には中国との国交が回復。以後、アメリカと日本に対して積極外交を進め、特にアメリカとの間で懸案事項となっていたMIA問題(ベトナム戦争中に行方不明になったり、死亡した兵士の身柄、遺骨・遺品の引き渡しの問題)が解決し、94年にはアメリカの経済制裁が全面的に解除されます。翌95年7月にはアメリカとの国交が全面回復し、同月ASEAN加盟となりました。

 残りのラオス、ミャンマー、カンボジア3カ国に関して、ASEAN首脳は、97年7月をめどに3国同時加盟を推進してきましたが、ASEAN10の実現を1カ月後に控えた97年6月、カンボジアで、フン・セン第二首相と、ラナリット第一首相との反目から内乱が勃発。ASEAN首脳の必死の調停努力も水の泡と消え、結局、7月時点での加盟はカンボジア抜きの2カ国(ミャンマー、ラオス)となってしまいました。

 しかしながら、カンボジアの加盟は、すでに加盟各国の間で了承済みの事項でしたから、要は時間の問題でした。カンボジアでは98年に、諸外国の監視の下で自由で公正な総選挙が行なわれましたが、選挙で負けたラナリット氏やサム・ランシー氏が、選挙結果を不服として抗議したため、カンボジアの正式加盟は99年に持ち越されましたが、結局4月30日、ベトナムで行なわれたASEAN首脳会議でカンボジアの正式加盟が承認され、待ちに待ったASEAN10が起動する運びとなりました。

 さて、これらASEAN加盟国が、東アジアの地域経済圏と、どのように結びついていくのかは不透明な部分が多かったのですが、域内の関税を段階的に5%以下に抑え、最終的には関税をゼロにする自由貿易地域「ASEAN自由貿易地域(AFTA)」を実現することなどが懸案事項として持ち上がり、そのうちの物品貿易に関する輸入関税減免協定(ATIGA)は2010年に発効しています。また、2020年までにASEAN内で単一通貨をつくるという計画も出されていますが、計画の現実性はともかく、なによりも、ASEAN10によって東南アジア地域の安定が促進されれば、これにこしたことはありません。

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