GATTとWTO

自由貿易体制の変遷

cc WTO

 ブレトンウッズ体制の中の「国際貿易」の部分を、ごく最近まで担当していたがGATTです。GATTに関しては、最初から一悶着ありました。ブレトンウッズで行われた会議では、当初、国際貿易を監視するために、国際貿易機構(ITO)という国際機関を設立して自由貿易を推進しようとしたのですが、結局アメリカの議会の反対に会い、実現しなかったのです。そこで、その中身の部分が、より拘束力の少ない一般協定として残ることになりました。これがGATT(関税及び貿易に関する一般協定=General Agreement on Tariffs and Trade)です。言ってみれば、GATTは、正式な契約書(ITO)を交わさない、口約束(一般協定)といったところです。以下ではGATT体制の変遷と、WTO設立までの経緯を簡単に見ていきましょう。

1.GATTとは?

1948年に発効したGATTは、拘束力のほとんどない「一般協定」でしたから、さまざまな通商上の問題は、当事者同志による話し合いで決着しなければなりませんでした。交渉は、それぞれ問題の起こった国同士が話し合う二国間協議と、複数の国が問題に絡んでいる場合に持たれる、多国間協議がありますが、戦後の国際貿易の拡大に伴って、多国間協議の必要性が次第に高まってきました。そこでGATTが提供したのが「ラウンド」という多国間の話し合いの場です。GATTで行なわれた多国間貿易交渉は全体で8回行われましたが、その中には、ケネディー米大統領の名を借りたケネディー・ラウンドと、開催地の名付けた東京ラウンド及びウルグアイ・ラウンドその他があります。

 さて、戦後しばらくの間は、国際貿易における問題と言えば、単純に関税の問題でした。第二次世界大戦前、各国は高関税政策をとり、自国産業を保護しました。つまり、外国から入ってくる品物に、意図的に高い関税をかけて、自国の産品に有利になるようなシステムにしていたわけです。これがケンカの原因になったという認識から、戦後はブレトンウッズ体制で、世界経済をより自由で開放的なシステムに変革していこうと考えていましたから、当然、各国の関税率を下げていくことが、当面の目標になったわけです。

 ということで、64年から67年にかけて行なわれたケネディー・ラウンドでは、主に関税障害についての協議が行なわれ、結果として平均35%の関税率引き下げが実現したわけです。東京ラウンド(73~79年)でも引き続き関税の問題が協議され、そこでも平均33%の関税率引き下げが実現しました。

 しかしながら、関税の問題は、貿易にまつわるさまざまな問題のほんの一部にすぎません。特に70年代後半には世界貿易の拡大に伴って、関税以外のさまざまな障害(非関税障害)が出てきました。70年代に行われた東京ラウンドの最終局面では、その非関税障害が議論を呼び、その軽減のための追加的ルールが「東京ラウンド・コール」として採択されました。

 80年代の国際貿易の飛躍的伸びは、非関税障害の問題を一層際立たせることになりました。GATTは、それらの問題に具体的に取り組む必要から86年、ウルグアイ・ラウンドを開催。農業、サービス、投資、知的所有権などの新分野を含む15分野で具体的な交渉を開始しました。

 ウルグアイ・ラウンドのハイライトは、何といっても農業問題でした。73年に始まった東京ラウンドでは「政治的困難がある」として、意図的に話し合われなかった農業分野の諸問題が、ウルグアイ・ラウンドで初めて正式な議題として取り上げられたのです。農業問題には、日米のコメ問題といった小さなものもありましたが、何といっても自由化と関税化*に対するEC(当時)の反発が強く、最終合意は、期限を3年半過ぎた94年4月までずれ込んでしまいました。

 ウルグアイ・ラウンド合意の最大の特徴は、世界貿易機関(WTO)の設立が盛り込まれたことです。1948年にITO構想がつぶれて以来の懸案であった「世界貿易を監視する機関」が、これでようやく成立する運びとなったわけです。そもそもGATTは、拘束力のほとんどない「一般協定」でしたから、二国間で決定した事項も、国際ルールと言うよりは、その場限りのものという傾向がありました。これでは今後ますます複雑化する世界各国の貿易問題全般に対応していくのは困難なため、国際貿易全体のルール作りを一括して行う機関を設立しようという声が高まってきていたのです。GATTの後を引き継いで1995年1月に発足した世界貿易機関(WTO)は、以後、世界貿易における紛争解決の柱として機能しています(GATTは、95年末に自然消滅)。

2.WTOはどういった役割を持っているのですか?

 WTOとGATTの決定的な違いは、WTOの多国間交渉で決定された事項は、加盟国全体が守らなくてはならない事項となることです。GATT体制のもとでは、自国に都合の良い協定だけを締結して、都合の悪いものは無視するという悪しき慣習が広がっていましたが、WTO体制のもとで決定した事柄に対してはそれが通用しません。ただ、WTOによる紛争解決は、それがあまりにも法的拘束力の大きなものになるため、逆に法的拘束力の伴わない二国間交渉は、従来通り盛んに行われていくでしょうし、WTO内でも全体に影響を与えない複数間の交渉で成立した事項は、それ以外の国の政策を拘束しないことになっています。

 第二に、WTOの守備範囲は、GATTのそれよりも広いという特徴があります。WTO協定には、GATTで決められたさまざまな協定の他、GATT関連の物品貿易に関する諸協定、サービス貿易一般協定、貿易関連知的所有権協定なども一括して入っており、要するに、今までに決定された貿易に関する諸協定を総なめにして、一括して監視するという役割を担っているわけですから、さしずめ貿易の六法全書をそろえた機関ということが出来るでしょう。

 第三に、GATTと比べてWTOの紛争解決手続きは非常に簡略化されていて、何か問題が起こると、自動的かつ迅速に紛争解決のパネルを設置することが出来るようになりました。また、ある国がWTOの協定に違反する行為を行なって、WTOでクロと認められた場合、その国が素直に改善すれば良いのですが、そうでなかった場合は対抗措置を発動すること、すなわちお仕置きがやりやすくなった点です。また、WTOを通さない、一方的な制裁措置も違反となりますから、アメリカがかつて行ってきたスーパー301条などの一方的制裁措置は、今後とりにくくなるということです。

3.WTOの現状は?

 さて、世界貿易の問題点を網羅して、世界共通のルールを作って、それを強制力を持って執行するという高い理想をもって船出したWTOでしたが、発足早々挫折します。当初1999年のシアトル会議から新しい多角的貿易交渉を始めようとしたWTOでしたが、反グローバリズムを掲げる市民団体の反対に会い、実際に新しい多角的貿易交渉が始まったのは2002年、カタールのドーハで行われた会議からでした。しかしドーハ・ラウンドと名付けられたこの貿易交渉も、先進国とBRICs**に代表される新興国との間で対立が表面化して、9年にわたった交渉が最終的にまとまらずに終了。

 2013年には貿易円滑化、農業、開発の3分野からなる「バリ合意」が成立しますが、これもなかなかまとまらずに、協定の発効には2017年まで待たなければなりませんでした。世界単一の貿易ルールを作るのは、やはり並大抵にことではないようです。

*関税化

数量割り当て、輸入課徴金、最低輸入価格、自主輸入規制など、さまざまな非関税措置を全廃し、関税一本に置き換える制度。ウルグアイ・ラウンドの農業貿易交渉で最終合意に至った。

**BRICs:ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ5か国の新興国を指す言葉

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