EUと通貨統合
リスボン条約の締結(2009年発効)GFDL Archiwum Kancelarii Prezydenta
落ち目の欧州諸国の、起死回生の切り札として登場したEU(欧州連合)は、93年に加盟国15カ国の単一市場として発足、99年には通貨統合を達成しました。しかし、最近ではイギリスが国民投票を経て、2020年1月にEUから脱退するなど、その行き先が危ぶまれます。以下では、EUの成立過程と通貨統合について見ていきましょう。
1.ヨーロッパ統合の歴史を教えてください。
欧州統合の思想は、実は第一次世界大戦後に芽生えました。クーデンホーフ・カレルギーが提唱したパン・ヨーロッパ主義がそれです。日本人の母とオーストリア人の父の間に生まれた彼は、第一次世界大戦後のヨーロッパの荒廃と世界的指導力の崩壊を嘆き、ヨーロッパを救う唯一の手段はヨーロッパ諸国の統合のみであるという思想をまとめた「パン・ヨーロッパ綱領」を1923年に発表。当時のヨーロッパで絶大な反響を呼びました。
この思想は第二次世界大戦後復活。ドイツのナチズムのような偏執的なナショナリズムの再発を防ぎ、欧州の平和を目指すには、国境を取り払うことが一番だという呼び声が、ヨーロッパ各地から巻き起こります。つまり、第二次世界大戦後のヨーロッパでは、欧州統合を進める、思想的な背景があったというわけです。以後、欧州では、複数国家が共同で戦後の復興と平和的共存を目指す道が模索されました。
まず1952年には、欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)が創設されました。これはただ単に産業面での協力体制を目指したものではなく、ドイツとフランスの長年にわたる対立を解消するためにとられた政策でした。これによって、両国は石炭と鉄鋼資源を共同で保有することに合意したのです。ECSCには西ドイツとフランスのほかに、イタリア、ルクセンブルグ、ベルギー、オランダの合計6カ国が参加しました。これが後にEC原加盟国6カ国に発展します。58年にはヨーロッパにおける原子力の共同開発を目指した欧州原子力共同体(EURATOM)が、また同年欧州経済共同体(EEC)が創設されました。
EECは、加盟国(上記6カ国)内の商品、サービス、ヒト、資本の移動を自由にする経済領域として発足しましたが、実際その後の域内貿易は活性化して、経済が飛躍的に発展しました。EECの成功に勢いづいた上記6カ国は、67年、存在する三つの共同体(ECSC、EURATOM、EEC)を包括して欧州共同体(EC)を結成。これが、現在のEU(欧州連合)の核になります。
2.EFTA(欧州自由貿易連合)というのは、どんな組織ですか?
ところで、60年代後半から70年代にかけて、ヨーロッパ主要国の経済は伸び盛りでした。大抵そういう時には、他人と共同で何かをやろうという気は起こらないものですし、実際、結成当初「国境のない連邦制」を目指していたECの権限も非常に限定されたものでした。さらに、大陸主導の経済統合に危機感を覚えたイギリスは、1960年EECに対抗して欧州自由貿易連合(EFTA)を設立。これにはイギリスのほか、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、オーストリア、スイス、ポルトガルの計7カ国が参加しました。要するに、西ドイツ・フランスという大陸主導の経済圏に対抗して、イギリス中心の経済圏をつくったということです。しかしながら、加盟国が地理的に分断されていたこともあって、EFTA域内の貿易はまったく進展しませんでした。
さて、70年代後半から80年代にはいると、ヨーロッパ各国は日米との経済競争に取り残されたという危機感から「強いヨーロッパ」の復興に真剣に取り組むようになります。こうなったら仲間内でいがみ合っている場合ではありません。当初EC加盟を拒否していたEFTA加盟国も、1973年のイギリス、デンマークを皮切りに、1986年にはポルトガルがECに参加。その一方で、1970年にはアイスランド、1986年にはフィンランドが逆にEFTAに加盟する等の動きがありました。1992年には、EC加盟国とスイスを除くEFTA加盟国を結び付ける欧州経済領域(EEA)が発足しました。
これが、EU(欧州連合)発足以前のヨーロッパの状況です。次にEU発足の過程と、通貨統合についてみていきましょう。
3.EU(欧州連合)成立の過程を簡単に説明して下さい。
ヨーロッパにとって80年代は、屈辱と忍耐の年でした。GATTのウルグアイ・ラウンドでは、農業問題でアメリカに主導権を握られ、日本はバブルの絶頂期。かたや同時期のヨーロッパ経済は停滞に次ぐ停滞で、日米二大経済大国の進入を阻止するのがやっとという状態でした。ECの市場統合も、国ごとの非関税障害が足かせとなって、とても単一市場とは呼べない状態でした。
このままでは統合が空中分解してしまうという危機感を持ったドロール委員長率いる欧州委員会は、85年、統合に至るまでの具体策を提示。これが、EU(欧州連合)への第一歩となったのです。そこでは、EUの成立を阻む三つの非関税障害が明示され、それぞれの分野で加盟国が撤廃すべき282の規制項目が示されました。92年末には、知的所有権の問題や付加価値税、企業課税など、妥協の難しい22項目を除いて、ほとんどの規制項目の撤廃が完了。ヨーロッパの市場統合に向けて、大きく前進しました。
4.マーストリヒト条約とは、どのような取り決めですか?
92年末までに加盟国相互の非関税障害の大部分が取り払われたわけですが、それは「統合ヨーロッパ」という目標を達成する一つの段階にすぎませんでした。最終目標は、いわば「ヨーロッパ合衆国」をつくることですから、市場の統合に加えて、安全保障、外交、司法、議会、市民権および通貨もすべて統一しなければなりません。それらの統合範囲を明確にしたのが93年11月に発効した欧州連合条約、いわゆるマーストリヒト条約で、それにより発足したのがEU(欧州連合)というわけです。その後、マーストリヒト条約には修正が加えられ、2009年には予算を含む様々な権限を欧州議会に与えるリスボン条約が発効しています。
93年に発足したEUでは、加盟国内の人、モノ、サービス、資本が自由に行き来できる単一市場がスタート。95年1月には、スウェーデン、フィンランド、オーストリア3カ国が正式加盟。その後EFTA(欧州自由貿易連合)加盟国西欧4カ国と、「準加盟国」扱いになっていた東欧6カ国などが加わり、2013年にクロアチアが加盟。その一方で2020年にイギリスが初の離脱国となり、現在加盟国は27か国となっています。
5.EUROはいつから市場に出まわったのですか?
このように、結果的に非常に速いペースで進められた欧州統合でしたが、常識的に考えて、税率も通貨政策も外交政策も、国民感情もそれぞれ違う国々で、一つの法律、通貨、議会を導入するということは至難の技です。EUも、その発足当初からさまざまな問題点を抱え込んでいました。特に通貨統合は、EU加盟国が最後まで頭を悩ませた問題でした。その第一関門であったEURO(ユーロ)導入は、99年1月1日に達成されましたが、その時点では、国際商取引の決済通貨として、帳簿上で使用されているだけで、実際にEUROでモノを買うことは出来ませんでした。マルクやフランなどの既存の通貨が徐々にEUROに置き換えられ、2002年3月までに、EU加盟国27カ国のうち19か国が実際にEUROで買い物をするようになりました。
6.通貨統合までの歴史を教えてください。
通貨統合への準備は、実は70年から始まっていたのです。欧州委員会は、70年に三段階からなる経済通貨同盟(EMU)8カ年計画を提出。10年後の1980年までに共通通貨を導入する通貨機構を設立することなどが提案されました。しかしながら、1971年には、アメリカの新経済政策で金本位制が停止され(ニクソンショック)、73年には固定相場制が変動相場(フロー)制に移行し、さらに第一次オイルショックによる経済の混乱など、とても落ち着いて通貨統合を論じる雰囲気ではありませんでした。結局74年、EC首脳は80年までに通貨同盟をつくることを断念してしまったのです。
しかし通貨統合の夢は消えず、79年には再び欧州通貨制度(EMS)構想が採択されます。この構想では、EC加盟各国の通貨の為替レートを固定するために協調して市場に介入することと、ECの共通通貨として欧州通貨単位(ECU)を創出することが懸案としてあがりましたが、イギリスが為替レート協定に反対するなど、はじめから苦難の船出でした。しかし、粘り強い交渉の結果、81年に欧州通貨単位(ECU)がECの公式表示単位として採用され、加盟各国の準備資産、決済手段としてはもちろん、民間の金融市場でも用いられるようになってきました。
88年、EC首脳は通貨統合達成の具体化に向けて、通貨専門委員会(ドロール委員会)を設置。(1)94年までに域内の資本移動の完全自由化を達成し、加盟国すべてが為替レート協定に参加すること、(2)94年以降に欧州中央銀行創設に向けた具体的な準備を開始し、(3)96年に最終的な固定レートを決定した上で(4)加盟国の過半数の参加により、とりあえず参加国のみで99年1月1日に共通通貨EUROの発行を行なうことで合意しました。
ところが、92年秋に始まる通貨危機でイギリスとイタリアが欧州通貨制度(EMS)を脱退。イタリアは、苦しい台所事情のなかで96年に復帰への努力を宣言しましたが、通貨統合には、EU加盟国すべてが、物価、財政、為替、税制の面で一定の水準にあることが必要ですし、また、各国の財政赤字は、国内総生産(GDP)の3%以下に抑えるという至上命令がありますから、統一通貨の発行と為替の固定化は、かなりの難題として各国の経済に重くのしかかったのです。
さらに、97年には、欧州通貨制度の牽引役となっていたドイツの国内からも、通貨統合の延期を希望する声が出てきました。旧東ドイツの復興に、予想以上にお金がかかった(統合から97年までで、国家予算2年分)わりには、復興が遅れ、ドイツ全体として、欧州通貨制度加盟への条件となる基準を達成できない恐れが出てきたからです。さらに、ドイツと並んで通貨統合の主役となってきたフランスも、不況のため財政赤字の削減がうまくいかず、法人税率を引き上げたりして無理やり基準の達成を目指しました。
このように、何度も挫折してきた通貨統合構想は、98年になってやっと目鼻がつき、98年5月には欧州中央銀行の総裁も決まって、とりあえずEU原加盟国12カ国のうち、2002年からの参加を表明したイギリスを除く11カ国で、99年1月1日に通貨統合を始めることが決定したわけです。また、経済の状況が好ましくないという理由で99年の通貨統合を見合わせたギリシャと、92年の国民投票で通貨統合を否決したデンマークは、98年9月、新欧州通貨制度(ERMⅡ)への加入を決定。ユーロとギリシャの通貨(ドラクマ)、及びデンマーク通貨(クローネ)の間に中心相場を決め、それぞれ2.25%、15%の範囲を超えた場合に市場介入して目標範囲内に引き戻すということになりました。
簡単に言うと、EUの通貨となるユーロと、ギリシャ、デンマーク2か国の通貨を緩やかに固定したということですが、当時のユーロ安がたたってユーロに魅力を感じない国も少なくなく、2000年9月に行われたデンマークの国民投票では再びユーロ加盟にNOが付きつけられました。また、スウェーデンとイギリスも、最終的にユーロ加盟を国民投票で否決。現在EUROを法定通貨として導入している国はEU加盟国27か国中19か国にとどまっています。一方、EUの加盟していない国でEUROを法定通貨として導入している国も6か国存在します。