大韓民国

出典:外務省HP 

日韓の友好モードが一番高まったのが1998年の金大中新韓国大統領の訪日時でした。日韓共同宣言に、日本からのお詫びの言葉が明記され、それに対して韓国側からも、20世紀に起こったことは21世紀には持ち越さないというお互いのエールの交換があったからです。それ以来、日韓関係は冷え込みが続き、文在寅政権では日韓軍事情報包括保護協定(GSOMIA)を破棄したり日本不買運動が起こったりするなど、日韓関係は史上最悪の状態にまで進んでしまいました。以下では、文在寅政権に至るまでの韓国の内政の動きを中心に見ていきましょう。

1.韓国の戦後の歴史を教えてください

 1945年8月15日、日本は敗戦によって朝鮮半島を放棄します。これで35年間に渡る日本の朝鮮半島統治が終了するわけですが、解放直後の朝鮮半島では、民族主義者同志が対立して、政局は混沌としていました。その中で資本主義を掲げる一派が韓国民主党(以後韓民党)を設立。他方、社会主義を掲げる一派は、朝鮮人民共和国の独立を宣言します。

 その一方で、主にアメリカに亡命していた韓国の民族主義者が、続々と本土に帰国します。もちろん彼らはアメリカ資本主義の影響を受けた人たちですから、すぐに韓民党に接近。その中から、アメリカで博士号をとって帰国した期待の星、李承晩(イ・スン・マン)が頭角をあらわしてきます。

 さて、終戦後の朝鮮半島の管理をめぐって、米ソ英の外相はモスクワで会議を開き、解放後の朝鮮半島を5年の間、米ソ英中の4カ国で信託統治することに決めました。しかし、35年間の日本の支配からやっと解放されたと思っていた矢先のこの決定に朝鮮半島の民族主義者は猛反対。特に李承晩率いる韓民党は、即時独立をかたくなに要求しました。一方、金日成を中心とする共産党系の指導者は、ソ連の信託統治を受け入れる姿勢に一転。このときから半島の共産勢力と資本主義勢力との亀裂が深くなっていくわけです。

 このとき、あくまでも朝鮮半島を一括して共同統治することを主張したアメリカは、ソ連との交渉を繰り返しますが、結局対ソ交渉は破綻。結果、朝鮮半島北部では、金日成率いる共産勢力がソ連の信託統治を受け入れ、朝鮮半島南部の李承晩側はあくまでも朝鮮人による独立を主張するという、ばらばらな歩みを始めます。

 李承晩側は、北のソ連信託統治地域が南部との統合に反対するなら、その統合は後回しにして、取りあえず北緯38度線以南の朝鮮半島で選挙をして独立を宣言してしまおうということになりました。このことで朝鮮の分断を恐れた一部の民族主義者は、北の金日成と協議をして、なんとか南北の統一を図ろうとしますが失敗。結局48年5月に、朝鮮半島南部だけで選挙が行なわれ、大韓民国が誕生。李承晩政権が発足します。

 このように、朝鮮半島分断は、もちろん米ソの冷戦構造の産物という一面がある一方で、朝鮮内部の抗争、特に、早期独立をかたくなに主張した李承晩のあせりも、その要因の一つだということができましょう。

 朝鮮半島の共同信託統治体制が崩壊した朝鮮半島南部では、アメリカ軍が存在意義を無くして、朝鮮半島からの撤退を余儀なくされます。結果として共産主義圏に対するアメリカの防衛ラインは、日本とフィリピンを結ぶラインにまで後退してしまいました。それを見たソ連は、今こそ朝鮮半島全体の共産化を進める絶好機であると、1950年6月25日、韓国に奇襲攻撃を行ない、韓国政府を釜山に追い詰めます。これを見たアメリカは、国連の安全保障理事会を召集して、ソ連の侵略行為を非難。マッカーサーを最高司令官とする国連主導の多国籍軍を組織して反撃に転じます。いわゆる朝鮮戦争の勃発です。

2.朝鮮戦争と李承晩政権

 さて、初期の戦いで釜山までの撤退を余儀なくされた韓国側は、アメリカ主導の国連多国籍軍の参加により勢力を盛り返し、北緯38度線以南の失地回復という当初の目的を通り越して、さらに北へと深く攻め込んでいきますが、ここで、思わぬ敵が参戦します。1949年に成立した共産主義国、中華人民共和国が膨大な数の人民志願軍を朝鮮半島に派遣したのです。結果、アメリカを中心とする国連多国籍軍は甚大な被害を蒙り、51年にはソウルからの撤退を余儀なくされました。その後、38度線をめぐって一進一退の攻防が続きましたが、北に対する核兵器の使用を主張したマッカーサー最高司令官をトルーマン大統領が解任。アメリカ側も、53年にスターリンが死去したソ連側も、その頃から停戦に向かって交渉を始めます。そして、53年7月27日、ついに38度線を休戦ラインとする、現在の朝鮮半島分裂が決定したというわけです。

 さて、これでアメリカの力を借りて朝鮮半島の統一を成し遂げるという李承晩の野望は挫折したわけですが、この時期、日本と韓国は4回にわたる会談を行なって関係の修復を目指しました。しかしながら、結局、李承晩大統領の反日的性格もあり、両国の関係は修復しないばかりか、「韓国の海岸から平均60マイル以内の水域における主権」を主張する、いわゆる「李承晩ライン」を一方的に宣言。その水域に入った日本漁船を次々に拿捕するといった強行路線を始めます。また、この李承晩ラインの中に、日本が主権を主張する竹島が入っていたことで、対立は領土問題にも発展して、現在まで尾を引いているというわけです。

 朝鮮戦争後の李承晩氏は、周囲の反対を押し切って大統領制を導入したり、政敵をあからさまに排除したりして、次第に独裁的な体制固めをするようになり、支持母体の韓民党も、反李承晩闘争を展開するまでになります。こうした反政府政党が団結して民主党を新たに結成しますが、これも内部の力関係で分裂状態が続きうまく機能しませんでした。1956年には、進歩党という急進的な野党が結成されますが、その指導者も、限りなくこじつけに近いスパイ容疑をかけられて死刑を宣告されてしまいます。

 このように、李承晩政権を糾弾する政党の動きが活発化すると、すぐにつぶされるという状況のもとで、李承晩政権に対抗できる政党は、ほとんどありませんでした。この李承晩政権を退陣に追いやったのが「学生革命」と呼ばれる紛争でした。李承晩退陣を求める学生のデモは1960年にピークに達し、政治生命を断たれた李大統領は4月に退陣を表明。12年間にわたる独裁的韓国統治にピリオドを打ちます。

3.李承晩政権から朴正熙政権へ

 李体制崩壊後、大統領の権限を弱め、議院内閣制を強化する憲法改正が行なわれましたが、与党の民主党内ですぐに指導者争いが発生し、政治的に不安定な時期が続きました。結局、民主党主導の臨時政府は1年足らずで崩壊してしまうことになります。

 臨時政府を崩壊させたのは「軍事革命」と呼ばれるクーデターでした。クーデターの主導者であった朴正熙(パク・チョン・ヒ)は、1962年、再び大統領制を盛り込んだ新憲法を国民投票にゆだね、これを可決。63年に軍政の返上を宣言して、総選挙によって自らが大統領候補となります。選挙の結果、僅差で当選した朴正熙氏は、以後、第5代大統領として79年までの長期政権を担うことになりました。

 朴大統領のもとで、韓国は急速な経済発展をします。その裏には、日韓関係の改善がありました。62年、朴大統領と池田首相の働きかけにより、戦後の総決算と位置付けられた合意がまとめられ、日本が韓国に対して3億ドルの無償経済協力を行なうこと、さらに円借款として2億ドルを供与すること、また民間の経済協力として1億ドルの借款を供与することで両者が合意。また韓国側からは、李大統領が一方的に引いた「李承晩ライン」の放棄と、竹島問題の棚上げが確認されました。こうして65年には日韓基本条約が締結され、両国間の国交が正常化することになったのです。

 しかし1973年、当時朴大統領の対立候補だった金大中氏が東京のホテルから拉致された事件と、74年に起こった朴大統領暗殺未遂事件で、犯人が在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)の指示で動いていたという事実が、日韓関係に亀裂を生じさせます。結局、日韓関係の修復を担当した椎名悦三郎(当時自民党副総裁)によって、日韓の亀裂は改善されますが、以後、日韓は近からず、遠からずの関係をごく最近まで続けて来たわけです。

 さて、朴大統領の独裁政治は、一方で順調な経済発展を韓国にもたらしましたが、他方国内では健全な民主化の芽を摘み取っていきました。70年代末になると、反政府の学生運動が各地で展開されましたが、それらはことごとく政府によって鎮圧されてしまいます。そんな中、79年10月、朴大統領が暗殺され、16年間続いた政権はあっけなく終焉を迎えます。

4.朴正熙政権から全斗煥・盧泰愚政権へ

 大統領暗殺後、崔圭夏(チェ・ギュ・ハ)氏が第10代の大統領となりますが、その裏で全斗煥(チョン・ドウ・ファン)氏や盧泰愚(ノ・テ・ウ)氏らの、いわゆる「新軍部」がクーデターで軍の実権を握り、80年、金大中氏を中心とする民主化デモを鎮圧します。その中でも、特に金大中氏の出身地である光州の大規模デモを徹底的に鎮圧(光州事件)した全斗煥氏は、自ら大統領就任の意志を発表。同年8月に崔圭夏を辞任に追い込んで自ら大統領に就任しました。

 全斗煥政権のもとでは、米韓関係、日韓関係は、ともに進展しました。79年に起きたソ連のアフガニスタン侵攻は、共産主義圏に対する脅威を再認識させ、80年にアメリカ大統領となったレーガン大統領は、韓国の戦略的意味を再認識します。また、日本では82年から第一次中曽根内閣が発足。安全保障面での韓国の重要性を認識した中曽根内閣は、全斗煥政権に40億ドルの「安全保障経済協力」の拠出を決定します。83年には中曽根首相が、また84年には全斗煥大統領が、それぞれ戦後初の公式訪問を行ない、完全とは言えないまでも日韓の新しい関係が始まるのです。

 さて韓国の内政に関して言えば、1987年、大統領選挙の方法をめぐって国会と大統領府が対立。結局全斗煥大統領が妥協する形で終結した結果、大統領を直接選挙とし、その任期を5年と限定し、再選は認めないとする新憲法が可決されました。その新憲法のもとで選挙が行なわれ、88年のソウル・オリンピックの年、全斗煥大統領の腹心である盧泰愚氏が、韓国の政治史上初めて平和的に第13代大統領に選出されました。

 しかしながら、ここでも民主化の勢力の攻撃は続き、全斗煥大統領の汚職の追及を始めとするさまざまな政府非難が続きました。その一方で金泳三(キム・ヨン・サム)率いる民主党が90年に与党民正党と連合。これに共和党が賛同して、民主自由党という巨大与党が結成され、後の金泳三政権成立への強い布石となりました。

 盧泰愚政権の最大の功績は、なんといってもソ連、中国との国交回復でしょう。ソ連は、朝鮮戦争以来北朝鮮の後見役として、軍事、経済その他さまざまな協力を行なってきましたが、経済が行き詰まりを見せた冷戦末期のソ連にとって、韓国の経済援助は捨てがたい魅力となりました。改革解放路線を歩む中国のほうも同様で、韓国との経済関係の樹立は経済安定化への一歩という認識がありました。以上の理由から、ソ連は90年に、また中国は92年に、それぞれ韓国との国交を正常化することを承認したのです。

 これで、朝鮮戦争以来北朝鮮の後ろ盾となっていたソ連、中国両国との関係を正常化して回りを固めた韓国は、いよいよ北朝鮮と直接の対話に乗り出していったわけです。

 韓国提唱による南北朝鮮統一の機運は、92年に選出された金泳三大統領によって受け継がれましたが、一方の北朝鮮は92年以降、生き残りをかけた最後の砦として核開発を選択。ほぼ30年間にわたって国際社会の非難をのらりくらりと交わしながら2005年についに核保有国宣言を行うまでに開発を進めました。

 さて、金泳三大統領の任期は、韓国経済の浮き沈みが、非常にはっきり現れた時期でした。以下では韓国経済の動向について見ていきましょう。

5.先進国に仲間入りした韓国経済

 韓国は1996年、OECD(経済協力開発機構)に加盟しました。つまり、韓国が従来の開発途上国から先進国に仲間入りしたということです。

 87年から91年までの韓国の実質経済成長率は10%。91年から95年までの成長率も8.1%という勢いを見せ、一人当たりのGDPも1万ドルを超えました。一見喜ばしいことではありますが、このOECD加盟に伴う急激な経済体質の変化と、過剰投資傾向が、韓国経済の足腰を弱めることに繋がったと主張する人もいます。

 まず先進国になってOECDに加盟すると、加盟国は労働法を国際基準に合わせるなどの法改正をしなければなりません。従来、韓国では労使関係が悪化した場合、第三者が介入したり、複数労組が禁止されていたり、労組の政治活動が禁止されていたりしていましたので、政府はそれらを国際基準に改正すべく法改正を急いだのですが、そこには、90年代全般にかけて年10%代以上の賃上げを強いられ、さらに輸出産業縮小で悩む企業側との確執がありました。結局、現在の企業活動を保護する目的で、労働法の法改正は2000年に先延ばしされましたが、怒った労働団体は一斉に反発し、長期にわたる労働争議が発生したのです。

 そんな中、97年初頭に当時資産額韓国14位だった韓寶グループが7000億円相当の不渡りを出して破綻。さらに7月には大手自動車メーカーの起亜グループが支払い不能に陥ります。10月には大手衣料メーカーの「サンバンウル」が事実上倒産。これらの連続倒産劇が悲劇のきっかけとなります。長期化する労働争議と中堅企業グループの倒産という二つの問題に追い討ちをかけたのが円安でした。96年初頭以来、日本円は対ドル安が進行し、韓国の輸出競争力にかげりが見え始めたのです。つまり、同じ質の商品を買うなら、安いほうが良く売れます。日本円は、80年代後半以来、円高に振れていましたから、韓国はその恩恵を受けて、輸出産業が順調に伸びました。つまり、韓国は同じ労働コストで、日本製品より安い商品を海外に提供できたわけです。しかし、円安が進行したことで韓国製品の国際競争力が低下して、輸出産業に危機的な状況が訪れるのです。

 韓国政府は、ドルに対してウォンを切り下げるなどして、必死に円安の影響を阻止しようとします。しかしながら、いくらウォンを切り下げても、急速な円安の速度にはついていけませんでした。結果97年1月の輸出は、前月比8.2%の減少、輸入額はウォン切り下げの影響で4.5%増加します。こうして韓国の経常収支赤字は、96年の230億ドルから97年にはさらに拡大する見通しになりました。つまり、80年代後半から続いた過剰投資の波が、円安による輸出減少によって急激にストップし、投資と回収の大きなギャップをうめるだけの豊富な外貨準備を持たない韓国では、当然のごとく金融不安が訪れることになったのです。

6.韓国の通貨危機

 韓国の通貨危機の前触れは、1997年9月突然訪れました。97年末に控えた大統領選挙で世の中が沸き立つ中、経営破綻に陥った韓寶グループと起亜グループのメインバンクである第一銀行の経営悪化が発覚。韓国有数の大手銀行である第一銀行の不良債権は、97年半ばで、公表されているだけでも1900億円とされ、関連ノンバンクも合わせるとかなりの規模の不良債権が存在する事実が露見しました。

 韓国も日本と同様、系列企業主体の企業構成になっていますから、一社がつぶれると、芋づる式に他社にも影響がまわる仕組みになっています。実際、韓国企業は大統領選挙の背後で、過去数年間10%を超える伸びで上昇した高い賃金を、ただでさえ苦しい台所の中から捻出し、円安の中で自国の製品を売りさばき、かつ倒産しかけの銀行から資金を調達しなければならないという三重苦に苦しめられていたのです。政官財のコネも、大統領が変わるため、まったく使えません。結局、11月の段階で、今まで韓国財閥をサポートしてきた大手銀行5行が外貨決済不能に陥り、ウォンの暴落が始まるのです。

 これで、果たして年が越せるのかというギリギリの状況になった97年12月、IMF、その他が救いの手を差し伸べて、韓国に対する570億ドル規模の支援を決定することはしたのですが、市場はそれに反応せず、ウォン安が続いたため、日米がイニシアチブを取って、IMF融資の前倒しと、総額590億ドルの追加支援を決定。さらに、日本側から「第二線準備」といわれる資金が韓国金融安定用に拠出されました。この「第二線準備」というのは、実際に市場にまわる支援金とは別に、第一次支援で効果があがらなかった場合に、第二次の支援金を積んでおくという方式で、いわば「見せ金」的効果があるのですが、日本はこれに100億ドル(アメリカの2倍)をつぎ込みました。

 また、98年1月には、民間債務の繰り延べが実現し、総額240億ドルの韓国の民間銀行向けの融資を、政府補償融資に切り替えることが決定しました。つまり、日米欧が、韓国の民間借金の肩代わりも保障しましょうということになったわけです。このような各国の支援のおかげで、韓国銀行(中央銀行)の外貨準備高は徐々に回復。98年4月時点では297億5000万ドル(預託金含む)と、やっと通貨危機前の水準にもどって、一息ついたというわけでした。

7.金大中政権とその後の政権

 金泳三大統領の時代に経済面で天国と地獄を見た韓国でしたが、1997年の選挙で国民の期待を背負って当選したのが金大中氏でした。金大中氏は朴政権の独裁政治を批判し、民主化を求める反政府運動を主導していた人物で、1973年に訪問先の東京のホテルから朴政権当局によって拉致され、2度も処刑されかけた人物として有名です。朴政権のもと韓国の民主化は本格化して、日本の映画が解禁されたり、ワールドカップが共同開催されたりするなどして、対日友好関係も高まりを見せました。対北朝鮮では「太陽政策」という対話路線を推し進め、2000年、戦後初めて南北首脳会談を実現させ、南北鉄道の連結や経済協力などの分野で話し合いが進みました。

 2002年の大統領選挙では金大中大統領の後継者である廬武鉉氏が当選。金大中氏の政策を引き継ぎましたが、2007年には李明博氏、2012年には朴槿恵女史という、政権右派がそれぞれ大統領に就任します。この頃から金大中氏の提唱した新しい日韓関係の構築に陰りが見え始めます。李明博大統領の竹島上陸や天皇謝罪請求、朴槿恵大統領の慰安婦問題に対する対日謝罪要求などがクローズアップされてきました。

 朴槿恵大統領が韓国史上初の弾劾訴追を受け罷免された後、2017年に選出された文在寅大統領も対日関係には否定的で、朴槿恵大統領時代に締結され、「最終的かつ不可逆的な解決を確認」したはずの慰安婦問題日韓合意も反故にされ、日韓軍事情報包括保護協定(GSOMIA)を破棄したり、徴用工訴訟問題を蒸し返したり、自衛隊の哨戒機に火器管制レーダーを照射したり、自衛艦旗の掲揚を拒否したり、日本不買運動を黙認したり、様々な場面で反日の姿勢をあらわにしています。

 国内的には新型コロナウイルスに対する迅速な対応が評価されて、2020年5月の支持率が、任期3年目としては異例の71%に急上昇。人気終盤になると「死に体」となって、支持率も低下し、汚職関連のスキャンダルが出てくるというのが韓国政界の常でしたが、文在寅政権の支持母体である革新系与党陣営が2020年4月の国会選挙でも大勝。300議席中180議席を獲得するという、過去最高の結果となりました。この高い支持率と政局の安定が続けば、大統領交代時に伝統的に起こっていた社会不安から解放される日も近いのではないでしょうか。

 仲が悪くても別れたり引っ越ししたり出来ないのが国と国との関係です。日韓の存在がお互い気にならない関係になるのはいつの日のことでしょうか。

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