核軍縮の歴史と現状

cc U.S. Department of Energy

1.核軍縮の歴史を教えてください。

 世界で初めて核兵器を持った国は、もちろんアメリカでしたが、そのアメリカが1945年に広島と長崎に原子爆弾を投下して以来現在まで、核兵器が実際に用いられたケースはありません。特に49年にソ連が核兵器を完成してからは、核兵器は実戦に用いられない「脅し」の道具として活用されてきたわけです。

 1950年代から60年代にかけては、まさにアメリカとソ連による核軍拡競争の時代でした。まず、アメリカは54年、「大量報復戦略」という構想を打ち上げました。「ソ連が西ヨーロッパに軍事侵攻したら、アメリカは核兵器でソ連に報復するぞ」という脅しです。これに対して、ソ連は57年、人工衛星スプートニク号の打ち上げに成功。人工衛星を地球の軌道に乗せる技術を持ったということは、地球の裏側までミサイルを飛ばせる技術を持ったということです。つまり、ソ連は大陸間弾道ミサイルICBM)の開発で、アメリカより一歩前進したということになります。「アメリカがその気なら、こっちも核爆弾をアメリカ本土に打ち込むことができるぞ」という、強烈な脅しです。

 その後、ICBMの開発に追いついたアメリカとソ連との間で、熾烈な核戦力の増強が続けられたわけですが、ここで一つの問題が浮上します。つまり、もし本当にソ連軍が西ヨーロッパに侵攻してしまった場合、アメリカ側は、即時に核兵器の使用を開始しなければならず、それは同時にソ連の核による報復を意味する。つまり、ソ連が西ヨーロッパに侵攻したときは、アメリカも破滅の道を歩まなくてはならないといった、かなり深刻な問題です。となれば、ソ連に核兵器の使用を思いとどまらせる戦略を考えよう、ということで出てきたのが「戦略核の三本柱TRIAD)」でした。これは、ソ連の核攻撃を受けた後、生き残った核兵器でソ連の人口の3割、産業の7割を確実に破壊するという戦略です。具体的には、大陸間弾道ミサイル(ICBM)、潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)と、戦略爆撃機という三つの攻撃方法が用意され、ソ連の核攻撃に備えるというものです。見つけるのが難しい潜水艦や戦略爆撃機に核兵器を積んでおけば、ソ連からの核攻撃で生き残る核兵器の数が増えるだろうというわけです。このTRIAD戦略は、以来現在まで、アメリカの核戦略の基本となっています。

 しかし、敵もさるもの。そのようなアメリカの戦略に対して、ソ連側も同様な核の生き残り戦略を確立し、結局核戦争になれば、アメリカもソ連も助からないという状況になってきました。そこで出てきたのが核軍縮と呼ばれる一連の動きでした。

2.SALTとSTARTというのはどんな取り決めですか?

 まず、アメリカとソ連は1972年、SALT-1と呼ばれる戦略核の暫定協定に調印します。つまり、米ソ両国は、すでに地球を何回も破壊できるだけの核兵器を保有しているので、これ以上の核兵器生産競争はやめにしましょうということです。この協定で、アメリカとソ連の戦略核兵器は、ほぼ同じ水準で凍結されました。さらに、79年にはSALT-2が締結され潜水艦発射弾道ミサイルや、戦略爆撃機、また、新技術の多弾頭弾道ミサイルや巡航ミサイルなど、SALT-1では議論の対象外となった兵器も含めた、包括的な軍備管理体制ができました。70年代、すでに核兵器は「脅し」の道具から、「管理」しなければならない厄介な道具へと、変貌をとげていたのです。

 しかしながら、SALT-1も、SALT-2も、実際には何の実効性もない条約でした。なぜならSALT-1締結以後も、ソ連の核兵器増強は続き、SALT-2は、そのようなソ連の態度に反発したアメリカ議会に認められず、結局批准されないままに宙に浮いてしまったからです。

 アメリカは80年代、レーガン政権のもとで新しい核管理政策を模索します。またソ連も85年、国内経済の建て直しを最優先課題に掲げるゴルバチョフ氏が大統領に就任してからは、核兵器削減に対する立場が柔軟になってきました。

 ソ連は、1970年代後半に、SS20という中距離ミサイルをヨーロッパ戦線に配備します。このミサイルは命中度が高い上に通常の3倍の破壊力を持ち、また発射台が移動式であるために、西側からはその全貌が見えにくいなどという特徴があり、西ヨーロッパにとっては新たな脅威となりました。これに対してアメリカは、自国の中距離ミサイルの撤退を交渉材料として、87年、最終的にヨーロッパにおける中距離ミサイルの配備を撤廃。ソ連アジア部への配備を100弾頭とするINF条約が締結されました。

 さらに91年、STARTI条約が締結され、これにより、アメリカとソ連は、それぞれの戦略核の総数を7年かけて25~30%削減することで初めて合意。また、93年に締結された第二次削減条約(START)では、2003年までに戦略核兵器の弾頭数を、現有の約3分の1ないし、3、500 発に削減する取り決めを行ないました。

 しかし96年1月にSTARTを批准した米国に対し、不安定な政局が続いたロシアでは、同条約の批准がなかなか進まず、結局97年9月にはSTARTⅡ履行を延期する議定書に両国が合意。戦略核兵器削減の期限は2007年末になりました。これに同意したロシア側は、やっとこさ2000年4月に同条約を批准しましたが、今度はアメリカ議会が批准を行わずに頓挫。

 一方、アメリカは97年末、16年ぶりとなる核戦略の見直しを独自に発表。これは核戦略の規模を、米国及び同盟国に対する核攻撃の抑止に限定するなど、相当数の核弾頭削減を意図したものです。この削減計画でアメリカは核弾頭の数を、2001年末までに11、027発から10、448発へ、2007年末にはさらに4、592発まで削減することを発表しました。

 また、97年の米露首脳会談では、戦略核弾頭を2007年末までに2000発~2500発程度にまで削減することなどを内容とする第3次戦略兵器削減条約(STARTⅢ)交渉を、STARTⅡの発効後、直ちに開始することが合意されましたが、結局STARTⅡが批准されなかったためにこれも頓挫しました。

 アメリカとロシア間の核兵器削減交渉は2002年のモスクワ条約に引き継がれ、2010年に新STARTとして再出発したかに見えましたが、アメリカの欧州ミサイル防衛計画に対抗してロシア側が新ミサイルシステムの配備を警告。軍縮どころか緊張を高める結果となりました。2020年、両国は新戦略兵器削減条約に関する交渉を再開することで合意しましたが、今後実質的な話し合いが可能かどうか、見通しが立っていません。

 その一方で、冷戦後の核は、すでに、アメリカとロシアという軍事大国間の問題ではなくなってきているのです。

3.世界の核開発の現状は?

 現在、世界で公然と核兵器を保有している国は、アメリカ、ロシア、中国、イギリス、フランスの5カ国です。「公然」と言ったのは、1967年の核兵器不拡散条約NPT)締結以来、上記5カ国の核兵器保有が認められているからです。それ以外の国は新たに核兵器を持たないよう、国際原子力機関IAEA)の査察を受け、原子力が軍事利用されていないか、定期的なチェックを受ける義務があります。95年には、このNPTの適用が無期限に延長され、核兵器の拡散に対するチェック機能の強化が改めて確認されました。しかし、NPTは典型的なザル法で、NPT加盟国以外に対しては、核兵器の製造を禁止することも、IAEAの査察を強要することもできないのです。

 実際、NPTの締結を拒んできたイスラエルは、すでに核兵器保有が確実視されていますし、インド、パキスタンも核兵器開発の最終段階といわれる核実験を98年に強行し、核保有宣言まで行った「立派な」核保有国です。また、後に核兵器の破棄を宣言したとはいえ核兵器保有の直前の段階と見られていた南アフリカも、2016年に核保有を宣言した北朝鮮も、さらには、かなり早い時期から核兵器開発を噂されてきたブラジル、アルゼンチンやリビアなども、長い間NPT加盟を拒み続けた国です。

 さて、現在、NPTに加盟していない国は、インド、パキスタン、南スーダンの3か国のみとなっていますが(北朝鮮は、2003年に一方的に脱退を宣言して核開発に進みましたが、国際条約上はまだ脱退を正式に認定されていません)、その気になれば崩壊後の旧ソ連邦地域や中国など、世界には核開発技術提供国が多数存在していることも見落としてはなりません。例えば中国はイランに対し、研究用の小型原子炉と、ウラン濃縮に必要なカルトロン(電磁分離器)を供与しており、またパキスタンの核開発には中国が徹頭徹尾関わってきていたことがわかっています。また北朝鮮の核開発に対しては、旧ソ連時代からロシアが関わって来ましたし、旧ソ連邦崩壊後は職を失った核関連の技術者200人以上が北朝鮮にスカウトされたとされています。

 中東ではイラクのサダム・フセインが核開発に着手していたとされ、核開発の疑惑がもたれていたリビアでは、イラク戦争直後に核開発を全面的に廃棄すると宣言しました。ということは開発していたのですね。

 つまり、NPT体制があろうとなかろうと、第三世界の核保有指向を衰えさせる要因には必ずしもならないということ、そして、核を保有する意志さえあれば、それを実現することは必ずしも難しい問題ではなくなってきているという事実を我々は肝に銘じるべきでしょう。

4.包括的核実験禁止条約(CTBT)とは、どういう条約ですか?

 1945年から95年までの50年間で、2033回に及ぶ核実験がおこなわれてきたそうです。核保有国は、核弾頭の性能向上や、安全性の確認、さらには古くなった核弾頭の性能の確認などのために、核実験を定期的におこなってきたわけですが、やはり「死の灰」をまき散らす核実験は、お互い自粛したほうが良いだろうということで、63年、アメリカ、イギリス、ソ連の3カ国によって、部分的核実験禁止条約PTBT)が結ばれました。これによって、大気圏内外と海中での核実験は禁止され、以後の実験は地下に移されることになったわけです。当初この条約に参加しなかった中国とフランスの核実験も、徐々に地下実験に変更されるようになりました。

 しかしながら、いくら地下で実験をやったとしても、核実験は核実験。周りの環境に影響を及ぼさないはずはありません。実際、80年には、核実験が15万人の死を速めたとする国連報告が提出され、核実験そのものに対する不満が、非核保有国を中心に募ってきます。同時に、コンピューターの進化によって、核実験を実際おこなわなくても核開発を可能にするシステムがアメリカその他で開発され、その結果92年の核実験を最後に、アメリカ、イギリス、旧ソ連の3カ国では核実験がおこなわれなくなりました。そこで、いっそのこと、核実験を全面的に禁止しましょうという動きが93年、アメリカの主導で始まったわけです。アメリカにしてみれば、これ以上他国での核実験を容認して、質的にアメリカの持つ核兵器と同等か、それ以上のものをつくられたら大変だというわけです。

 以後、核爆発を伴う実験を全面的に禁止する包括的核実験禁止条約CTBT)を進める非核保有国及び「核兵器先進国」と、それを阻止しようとする、中国やフランスなどの「核兵器後進国」との間で、かなりの確執があったわけですが、結局95年、核兵器不拡散条約(NPT)の延長が問題になったとき、NPTを無期限延長する代わりにCTBTを承認するということになりました。つまり、「米・英・仏・ロシア・中国の5カ国が核兵器を保有することは認めましょう。でも、今後の核実験は全面的に禁止してください」ということです。

 こうして、96年、ジュネーブ軍縮委員会でCTBTの締結に向けた調整が進んでいたわけですが、土壇場で、核開発疑惑国のインドが決議案を拒否したのです。インドといえば、初代首相のネール氏が、「核なき世界の実現」を世界に先駆けて主張した国です。しかしながら、すでに「合法的」に核を保有する中国と、中国の協力で核開発を進めるパキスタンを仮想敵国とするインドは、自らも核武装を目指すことで、軍事的な均衡を計ろうとしていたわけです。そのためには、どうしても核実験の継続が必要でした。96年の選挙で、西欧追随型の国民会議派政権が、核保有主義のインド人民党(現バジパイ政権)に敗れたことも、インドのかたくなまでのCTBT採択拒否の行動に拍車をかけました。

 ジュネーブ軍縮委員会では、全会一致方式で運営されているため、インドが拒否権を発動したCTBT決議は、結局不採択となってしまいました。しかし、「これでは、せっかくの苦労が水の泡」と、オーストラリアを中心とする有志が、「敗者復活」をかけて国連総会に議案を提出。結局CTBT決議案は、賛成158票、反対3票、棄権5票の圧倒的多数で採択されたわけです。

 しかし、せっかく可決された決議案も、核開発可能な44カ国すべてが調印しないと発効しません。そのうち41か国までは批准を済ませているのですが、残る3か国のうち、99年夏までにCTBT署名を済ますことを表明していたパキスタン、インド両国も、カシミール地方における両国の緊張再発、パキスタンにおけるクーデターなどで、批准の道は遠のいてしまいましたし、北朝鮮はそもそも条約に参加すらしていません。現在CTBTの署名国184か国。未署名国12か国。CTBT発効への道は前途多難といったところです。

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