東ティモール民主共和国

出典:外務省HP 

1.東ティモール独立までの歴史を教えてください。

 東ティモールは、1702年にポルトガル領になった土地ですが、200年間にわたるオランダとの土地争奪戦の末、1904年に、ティモール島の西部をオランダ領、東部をポルトガル領とすることで決着がつきました。西部のオランダ領ティモールは、インドネシア独立の際にインドネシア領になりましたが、東ティモールはポルトガル領として残ります。

 さて、1974年にポルトガルで政変が起きたのをきっかけに、東ティモールでは独立運動が開花します。東ティモール独立革命戦線(フレティリン)中心に展開された独立運動は、75年、ポルトガル総督の帰国を合図に、東ティモール人民民主共和国の独立を宣言しますが、インドネシアの息のかかったティモール民主同盟(UDT)はそれに反抗。12月にインドネシア軍の侵攻が始まり、東ティモールは、76年、第27番目の州としてインドネシアに併合されてしまいました。

 その後もフレティリンを中心に、東ティモールの独立を目指す運動が繰り広げられましたが、スハルト政権は武力でそれを徹底的に弾圧します。80年代にインドネシア占領下で命を失った東ティモール住民は20万人に上るとされ、東ティモールの独立運動が世界的にも注目されるようになりました。中でも「全東ティモール人包括対話」を主導したベロ司教と、フレティリンの指導者のホルタ氏には1996年にノーベル平和賞が授与されています。

 一方、1998年に退陣したスハルト大統領の後継者となったハビビ大統領は、東ティモール問題の解決に前向きでした。ハビビ大統領は98年6月、東ティモールに「特別州の地位を与える」用意があることに言及。さらに、7月には軍事、外交、財政の3分野を除く幅広い自治権を東ティモールに与えるという独自案を国連に提出。国連の仲介を受けて旧宗主国ポルトガルとの交渉に入りました。かつて1万2000人いた軍隊も、98年7月末から撤退をはじめました。

 そして、1999年、インドネシア、ポルトガルおよび国連が、独立に関する東ティモールの住民投票で合意。投票率98.6%という住民投票の結果、独立が決定。住民投票後の軍の暴走で破壊活動が頻発した東ティモールの治安維持のため、国連はインドネシア政府の承諾を得て国連平和維持軍(東ティモール国連軍)を派遣。10月には国連東ティモール暫定行政機構(UNTAET)が設立されて、独立までの道筋を歩み始めました。2002年の憲法制定議会選挙ではグスマン大統領が選出され、2002年5月20日には念願の独立式典を挙行するに至りました。

2.独立後の東ティモールは?

 国連は、この21世紀初の独立国に対して国連東ティモール支援団(UNMISET)を設立して国造りの支援にあたったのですが、国の形が定まるまでにはまたひと悶着ありました。まず、独立によって生活が向上することを期待していた住民が、どうやらそうでもないことに気づき始めたのが2006年です。特に、東ティモール西部出身の国軍兵士が、給料の支払いや昇進の件で東部出身の兵士と比べて差別待遇を受けていると不満の声を上げ、ストライキに発展したのがきっかけでした。まずいことに、政府がストライキに参加した兵士全員を解雇処分としたことで対立は一気に拡大。警察をも巻き込む戦闘に発展します。

 この暴動は、政府の要請を受けたオーストラリア軍などの合同軍によって鎮圧されましたが、政府の経済政策に不満を持つ住民の反政府デモは続けられ、アルカティリ首相は辞任に追い込まれました。国連はこの暴動の収拾にあたって、国連東ティモール統合ミッション(UNMIT)を展開して治安の維持にあたりましたが、2008年にはラモス=オルタ大統領やグスマン首相が反政府武装グループに襲撃される事件が起こるなどして、国内が安定するまでにはかなりの時間がかかりました。

 2009年、国内の暴動も沈静化され、政情も安定してきた東ティモールでは、それにあわせて国連東ティモール統合ミッション(UNMIT)から国家警察への権限移譲が始まり、2010年には独立以降初めての経済政策となる「戦略開発計画」を発表。2011年には2007以来反政府勢力となっていたフレティリンの軍事部門が解除を宣言するなど、和解への道が開けました。

 2012年には大統領選挙が実施され、ルアク大統領が当選。グスマン首相が続投することが決まりました。国連東ティモール統合ミッション(UNMIT)も同年末に任務を終了して、東ティモールはやっと国家としての体裁を整えることができました。2017年にはオロ大統領が選出され、2018年からはルアク首相が第八次立憲内閣を維持しています。

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