旧宗主国による分類

旧フランス領、旧イギリス領、旧ポルトガル領、その他

Q.西アフリカはどこからどこまで?

 西アフリカは、モロッコ以南の大西洋沿岸諸国と、ナイジェリアまでのギニア湾北部沿岸諸国、内陸部ではブルキナファソ、ニジェールとマリを含む16カ国の総称です。このうち、8カ国は旧フランス植民地、4カ国が旧イギリス植民地、二カ国が旧ポルトガル植民地、残りはリベリアがアメリカの植民地、そしてトーゴがドイツの植民地とフランスの植民地を経た独立国となっています。以下では、16カ国を、旧宗主国のグループに分けて見ていくことにします。

【フランス・グループ】

 アフリカ西部の大西洋沿岸地帯からギニア湾の北部沿岸地域およびその内陸部では、10世紀、モーリタニアから現在のマリを支配下におさめたガーナ帝国が栄え、13世紀から16世紀にかけてはマリ帝国が栄えますが、15世紀に始まった大航海時代にはポルトガル、スペインを始めフランス、イギリスその他の西欧列強が、資源と市場を求めてアフリカに殺到します。

 フランスのアフリカ進出は17世紀、宰相リシュリューによって行われた重商政策の一環として始められ、ルイ14世によって受け継がれますが、18世紀には奴隷貿易が広く行われ、年間10万人とも言われる奴隷が労働者として新大陸のフランス領に送り込まれたということです。1848年にフランスが奴隷貿易を禁止した後は、綿花、パーム油などの栽培と貿易がすすめられ、1854年にはルイ・フェイデルブがセネガルのダカールに、植民地の第一歩となる拠点を築き上げました。

 1850年代から積極的に内陸部への進出を開始したイギリスと対照的に、フランスはまずセネガルに腰をすえて植民地経営に乗り出したため、内陸部進出は1880年代から始まることになります。1893年には、マリ帝国有数の都市トンブクトゥを占領。1898年にはギニア、マリ、コートジボアールに勢力をもつ大部族、マンディンゴ族の首長を捕らえて追放するなどして、次第に内陸部を武力制圧していきます。1895年、フランスはセネガル、ギニア、フランス領スーダン(現在のマリ)、コートジボアールの4つの植民地をまとめて統治する植民地総督府を設置。1899年には、さらなる内部侵攻作戦によって得られたダホメー(現在のベナン)(注1)が加わりました。1904年には、これら5つの植民地とモーリタニアの一部がまとめられ、「フランス領西アフリカ(AOF)」が発足。第一次世界大戦後の1919年にはオートボルタ(現在のブルキナファソ)が、22年にはニジェールが、33年にはモーリタニア全土が、正式にフランス領西アフリカに編入され、フランス領西アフリカは、最終的に8つの植民地で構成されることになりました。

 さて、第二次世界大戦後にアフリカで巻き起こった民族運動は、多くの植民地を独立に向かわせますが、ほとんどの宗主国はこれらの独立運動を弾圧することなしに、できるだけ植民地の権益を残したまま、平和裏に権限を委譲する政策を選択します。フランス政府も、これら西アフリカにおける海外領(TOM)の扱いについて1956年に植民地基本法を制定。各植民地を分離独立させる方針を発表します。さらに、独立後のフランスとの関係について、フランス共和国憲法を受け入れるか否かの住民投票を、58年に各植民地で実施。結果、ギニアを除く7つの植民地がフランス共和国憲法を受け入れ、フランス共同体を構成する自治国となりました。ギニアはフランスとの関係を断って、同年ギニア共和国として独立することになりますが、60年には他の自治国7カ国もフランス共同体内の独立国として承認されることになり、ここにフランス領西アフリカは終焉を迎えます。

 さて、独立達成後の旧植民地のうち、58年にフランス共同体を離脱して独立したギニア共和国とマリ共和国、およびモーリタニア・イスラム共和国をのぞく5カ国は、ごく最近まで西アフリカ通貨同盟を形成して、植民地時代のCFAフラン(アフリカ金融共同体フラン)を通貨として使い続けてきました。俗に「フラン圏」と呼ばれるこの通貨同盟は、西アフリカ諸国ではセネガル、コートジボアール、トーゴ、ベニン、ブルキナファソ、ニジェールと、84年に復帰したマリ、97年に新規加盟したギニア・ビサウの8か国が、中部アフリカではカメルーン、中央アフリカ、コンゴ共和国、ガボン、チャドと、85年に新規加盟した赤道ギニアの6か国が加盟しています。

(注1)ベナンの英語読みはベニン。コートジボアールの英語読みはアイボリー・コーストで、象牙海岸とも表記される場合がある。

(注2)1975年に独立したコモロ・イスラム連邦共和国も他のフラン圏とは交換レートの異なるコモロ・フランを94年に導入している。

【イギリス・グループ】

 イギリスの西アフリカ進出は19世紀中旬から始まります。イギリスの場合、いわゆるイギリス領西アフリカとして統治されたのはナイジェリア保護領、ガンビア保護領、黄金海岸植民地、アシャンティーおよび北方領土保護領、ブリティッシュ・カメルーン信託統治領と、ブリティッシュ・トーゴランド信託統治領でしたが、セネガルに本拠地を置いて、植民地を総合的に管理したフランスとは違い、実際イギリスがこれらの地域を統合して統治したのは1866年から74年までという短い期間で、ほとんどの場合、それぞれの地域に派遣された総督が別々に統治するというシステムをとっていました。1897年には西アフリカ前線軍というイギリス西アフリカ植民地共通の軍隊も組織されましたが、実際は4つの地域に配備された分隊がそれぞれの総督のもとで動いていました。

 内陸部への進出も複数の本拠地から行われ、特に1880年以降はギニア湾北部海岸地域(ニジェール川デルタ地帯、ラゴス、黄金海岸)と、大西洋沿岸のフリータウン、ガンビア河口地域への入植が進みました。

その一方で、通貨は統一され、1912年には「西アフリカ通貨委員会」が発行する西アフリカ・ポンド券が共通通貨として流通を開始しました。ただし、旧フランス領西アフリカ地域とは異なり、各国の独立後は西アフリカ・ポンドを採用する国はなくなり、最後まで西アフリカ・ポンドを流通させていたガンビアも、1971年の中央銀行発足により、西アフリカ・ポンドの流通を停止することになりました。

1957年、黄金海岸植民地、アシャンティーおよび北方領土保護領、およびブリティッシュ・トーゴランド信託統治領がガーナ共和国として独立。1960年にはナイジェリアが独立を果たし、翌年にはブリティッシュ北部カメルーンがナイジェリア連邦共和国に加盟。ブリティッシュ南部カメルーンはカメルーン共和国への編入を住民投票で決議します。同年、シエラレオネ共和国が独立、ガンビアは65年に独立を果たします。

独立後、これら4カ国はイギリス連邦体制を受け入れ、協力関係を維持。法律や教育など、共通する部分が現在まで残っています。

【ポルトガル・グループ】

 アフリカ西海岸に到達したはじめてのヨーロッパ人はポルトガル人で、1446年にはベルデ岬諸島とギニアを発見したとされています。ポルトガル人は1495年にベルデ岬諸島(カーボベルデ)を植民地化して、対岸のギニアにも進出。1687年にビサウに商館が建設されると、約3世紀にわたって奴隷貿易を手がけることになります。ビサウとベルデ岬諸島は、奴隷貿易の中心地として栄えますが、1876年に奴隷貿易が禁止されるとその地位は低下することになります。

 西アフリカに最初に到達したポルトガルでしたが、アフリカにおけるポルトガル植民地は、カーボベルデ、ギニア・ビサウの他にサントメ・プリンシペとモザンビーク2カ国だけで、意外に少ない事がわかります。これは16世紀にスペインとの抗争に破れ、制海権を奪われたことと、19世紀の西欧列強によるアフリカ分割競争の時代には、すでにヨーロッパ内での地位が低下していたことによるものだと考えられます。

【その他】

 西アフリカには、アメリカの解放奴隷を中心に国家建設がなされたリベリアとイギリスの奴隷解放運動家が作ったシエラレオネという、ふたつの「解放奴隷国家」があります。また、トーゴ共和国は、1885年のベルリン会議で、西アフリカで唯一のドイツ植民地になった過去がありますが、ドイツ領トーゴランドの歴史は短く、第一次世界大戦後の1922年には東部がフランスの、西部がイギリスの委任統治領となり、前者は後にトーゴ共和国として独立。後者は57年に独立したガーナの一部となりました。

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