南アフリカ共和国
出典:外務省HP
1.アパルトヘイトとは?
アパルトヘイトというのは、国がらみの人種隔離政策のことで、最近まで南アフリカでおこなわれてきました。と、過去形で書くことが出来るのは、実際、大変うれしいことですね。以下に、1994年まで続いたアパルトヘイトの歴史的背景と、その撤廃に至るまでの経過を、簡単に見ていきましょう。
2.南アフリカの歴史
15世紀末、バスコ・ダ・ガマによって希望岬まわりでインドに達する航路が発見されると、ケープタウンは、次第にインド貿易の中継地点としての地位を確立していく事になります。特に1652年にオランダ東インド会社が設立され、オランダ政府がケープタウンに補給基地を作ってからは、後にボーア人と呼ばれるオランダ人移民が増えていきます。これらボーア人は、次第に入植地を拡大していき、18世紀にはケープ植民地を建設します。
カルビン派のキリスト教徒だったこれらボーア人は、「選民思想」とも呼べる、独自の宗教観を持っていました。すなわち、「人は生まれながらにして、神に救われる者と、救われない者との区別があり、ボーア人こそ神に救われる者である。また黒人は我々白人に仕えるべく、この世に生まれてきた」という、ずいぶん身勝手な思想でしたが、この思想がアパルトヘイトの精神的支柱になっていたことは言うまでもありません。
さて、インド航路の補給地点としてケープタウンを重視していたのは、もちろんオランダだけではありませんでした。東インド会社を通じ、17世紀末から本格的なインド経営に乗り出したイギリスも、同様にケープタウンの獲得を狙っていたわけです。イギリスは次第にボーア人勢力を内陸部に追いやって、1814年、ケープ植民地をイギリスの支配下に置くことに成功します。一方のボーア人は1852年にトランスバール共和国を、1854年にはオレンジ自由国を建国。イギリス勢力と対立します。
そんなある日、金鉱脈がトランスバール共和国で、ダイヤモンド鉱山が、オレンジ自由国で、それぞれ発見されます。その利権目当てにイギリスが一層勢力を拡大したことは言うまでもありません。1880年と1899年の2回にわたるアングロ・ボーア戦争により、イギリスは南アフリカ全土を完全に掌握し、1910年に南アフリカ連邦を建国します。ところが、イギリスにしてみれば、南アフリカは単なる「鉱山」に過ぎなかったわけですから、金とダイヤが順調に掘り出されていくのをただ見守っているだけで満足して、内政のことには無頓着でした。一方、アングロ・ボーア戦争に敗れたボーア人の多くは、当時、難民としての生活を強いられていました。そんな中、それら難民の救済と保護を訴える政治活動が、次第に活発になってくるのです。
その様な運動を盛り上げたのがヘルツォークという人物でした。ヘルツォークは、「ボーア人によるボーア人のための南アフリカの再建」を謳い、「国民党」を結成します。と、ここまでは素敵な話しなのですが、1924年に首相となった彼は、また白人優位主義の思想を貫いた人でもあったのです。彼は「アパルトヘイトの祖」とも呼ばれ、反英主義と徹底した人種隔離を主張。ボーア人の貧困層を中心に次第に支持者を増やしていきます。1948年の総選挙では、ヘルツォーク率いる国民党がついに単独政権を樹立。以後、1994年まで続いた国民党政権のもと、アパルトヘイトが次々に合法化されていくことになるのです。
一方の黒人達も手をこまねいているわけではありませんでした。1911年に「最初の人種差別法」と言われる鉱山・労働法が制定されると、これに刺激を受けた黒人労働者たちは、翌12年にアフリカ民族会議(ANC)という黒人政治組織を結成。第二次世界大戦中には、ネルソン・マンデラ氏らが中心となって、「実質的な行動を伴う反アパルトヘイト闘争」を目指す青年同盟がANC内部で結成されました。以後ANCは、「不服従運動」を展開したり(52年)、他の人種との協調を謳った「自由憲章」を採択するなど(55年)、様々な政治活動を実行に移しましたが、結局事態の改善には至りませんでした。
59年には、ANCの生やさしい行動に業を煮やした一部急進派が分裂して、パン・アフリカニスト会議(PAC)を結成しますが、それを危惧した国民党政権は翌年、反アパルトヘイト運動を徹底的に弾圧。ANC、PAC両組織を非合法化してしまいます。ついでに翌61年、アパルトヘイト政策に批判的だったイギリス連邦からも離脱し、南アフリカ共和国の建国を宣言。以後なりふり構わぬアパルトヘイト政策を進めて行く様になります。
こうして、反アパルトヘイト運動はしばらくなりを潜めることになりますが、70年代には、学生を中心とする解放運動が再び活性化してきます。国民党政府は、弾圧につぐ弾圧で、これら黒人解放運動の芽を潰して行きますが、80年代に入ると各地で恒常的に暴動が発生するようになり、また、86年には諸外国による、対南アフリカ部分制裁が決議されるなど、国際世論の動向にも配慮せざるを得なくなってきました。
ここで登場したのが、アパルトヘイト撤廃の立役者、デクラーク大統領でした。デクラーク氏は、90年の大統領就任以来、政治生命をかけて反アパルトヘイト政策を推進。94年には、ついに全人種による選挙を実現するのです。1948年以来、白人独裁の中心組織であった国民党のメンバーでありながら、自らの首を絞める政策を推進してきたのですから、並大抵の努力でなかったでしょう。実際、南アフリカの多くの白人は、90年のアパルトヘイト法案撤廃、非合法組織であったアフリカ民族会議(ANC)の合法化、ネルソン・マンデラ議長の釈放等、肌の色を乗り越えた真の民主化への道を精力的に模索していくデクラーク大統領に対し「売国奴」、「史上最低の白人大統領」等と、最大限の罵倒を浴びせかけたものでした。
1994年の選挙でマンデラ氏に大統領の席を明け渡したデクラーク氏は、以後南アフリカ共和国副大統領として、マンデラ大統領と共に、社会面、経済面を含めた「一つの南アフリカ」への挑戦を続けていましたが、96年5月に差別法の排除を含む新憲法が成立した時点で政権を離脱。マンデラ氏も1999年の総選挙を機に政界を引退(同年6月に他界)。以後行われた4回の総選挙では、いずれもアフリカ民族会議(ANC) が圧勝して現在に至っています。