冷戦構造崩壊と新冷戦
東西の安全保障体制の推移
バルト海で米駆逐艦に異常接近するロシア軍機 ©AFP/US NAVY 6th FLEET
第二次世界大戦後、アメリカを中心とする自由主義圏とソ連を中心とする共産主義圏という二極に分かれた世界は、それぞれをサポートする軍事組織としてNATOとワルシャワ条約機構を組織しました。その後、両陣営は、直接対決することなく、「冷戦」の時代を経てきたわけです。さて、91年末のソ連の崩壊に伴って、共産主義圏の軍事組織であるワルシャワ条約機構も自然消滅したわけですが、それでは、旧共産主義圏の安全保障体制は、現在、どうなっているのでしょうか?以下では、両組織の現状について見ていきましょう。
1.NATOとワルシャワ条約機構は、現在どうなっているのですか?
第二次世界大戦後の冷戦期で、自由主義圏、共産主義圏それぞれの陣営を軍事的にバックアップした機構が、NATO(北大西洋条約機構)とワルシャワ条約機構でした。NATOは、アメリカ、カナダ、及び西ヨーロッパ諸国の、対共産圏防衛組織として1949年に発足。対する共産圏は、ソ連と東欧7か国が結束してNATOに対抗する軍事組織であるワルシャワ条約機構を55年に発足させました。
しかし、ソ連の崩壊により、ソ連と東欧との政治及び経済的つながりが途絶えると、ワルシャワ条約機構も解消。現在残っているのはNATOの方だけということになりました。そこで、ソ連の崩壊で空白となった東欧諸国の安全保障を、ヨーロッパの安全保障とどう結びつけていくかという重要な問題が、NATOの当面の課題となったわけです。
2.「NATOの東方拡大」とは、どういったものですか?
ワルシャワ条約機構解消後、ヨーロッパの安全保障体制をどうするかということについては、2通りの進み方が提示されていました。一つは、旧東側諸国をNATOが取り込むことで、NATOのコントロールする地域を拡大していく道です。アメリカを始め、NATO加盟国が積極的に進めているこの政策が、俗に「NATOの東方拡大」と呼ばれているものです。
この「東方拡大政策」の一環として、NATOは94年1月、旧東側諸国との軍事面での協力を呼びかけたPFP(平和のための協調)協定を提案しましたが、半年で21カ国が調印するほどの盛況ぶり。95年夏には、中東欧11か国のNATO加盟に向けた話し合いが開始されました。
もう一つの道は、NATOを解消させ、別組織でヨーロッパの安全保障を協議していこうというものです。これは、ロシアが先頭に立って主張していたもので、アメリカ主導のNATOの影響力を退けて、ロシアの影響力の復活を何とかして試みようとする苦労の産物とも言えます。東欧諸国はもとより、旧ソ連邦のCIS(独立国家共同体)に対する影響力さえ著しく低下していた当時のロシアにとって、NATOの拡大は域内の影響力崩壊に等しいわけです。ここで出てきたのがCSCE(全欧安保協力会議)の活用という案でした。
CSCEは、1975年、東西ヨーロッパの国境を確認するために開催された、場当たり的な会合でしたが、90年に開催された第2回目の会議以降、冷戦後の欧州協力と紛争解決の柱として機能するようになりました。ロシアは、これを利用して、アメリカ主導のNATOを牽制しようとしたわけです。結局米ロは95年、同機関をOSCE(全欧安保協力機構)という常設機関に格上げすることに同意。とにかく、話し合いの場を設けて、詳しいことはそれから、といったところでした。
3.西欧同盟(WEU)って何ですか?
95年以降、「東方拡大」を目指すNATOと、それに強硬に反対するロシアとの確執が続いていましたが、96年に入ると双方で新たな展開があり、それがきっかけで歩み寄りが始まりました。
まず96年、NATOでは、改革の目玉として、西欧同盟(WEU)の強化および、その実行部隊である共同統合任務部隊(CJTF)の創設が具体化しました。冷戦後、アメリカ政府は、ソ連が崩壊し、潜在的脅威が無くなったヨーロッパに駐留する軍の規模を削減しました。アメリカ以外のNATO加盟国は、この頃から「アメリカ抜き」の場合を想定したヨーロッパの安全保障体制を考えざるを得なくなって来たわけです。
何といっても、NATOは、完全にアメリカ主導型でした。また、冷戦期の東西対決の場で、アメリカが主導権を握るのは、至極当然の事でした。しかしながら、ソ連の崩壊で東側の脅威が無くなった当時のヨーロッパで、例えば、ボスニアやコソボ問題など、ヨーロッパ周辺で起こる紛争に対応する場合、なぜ直接利害関係のあるヨーロッパ諸国を差し置いて、アメリカの決定を待たなければならないのかという不満が募っていたのです。
そんなわけで、NATO加盟国の利害に直接絡む問題への介入において、万が一、アメリカの同意が得られなかった場合、アメリカを除くNATO加盟国が、独自で紛争介入を決定できるシステムが検討され始めたというわけです。
ここで登場したのが、西欧同盟(WEU)、つまり「アメリカとカナダ抜きのNATO諸国」による軍事調整機関で、その実行機関が共同統合任務部隊(CJTF)と呼ばれました。これを見たロシアは、「アメリカ抜きのNATO諸国」でヨーロッパ問題を論じることに異議はないと主張。以後、NATOの東方拡大に、条件付きながらも理解を示し始めたわけです。
この頃のロシアはチェチェン紛争が長引き、再三にわたって軍の投入を繰り返していましたが、そんなロシアの軍事行動に対してNATO側が一定の理解を示したことも、ロシア側の柔軟な姿勢を導く要因の一つになりました。さらに、ロシアの長年の夢だったサミット正式参加にアメリカが理解を示し、97年のデンバー・サミットからの正式加盟を認めたことも、大きな要因といえるでしょう。
そんなことで、ロシア側の「黙認」を勝ち取ったNATO側は、「東方拡大」に向けて大きく前進。97年5月には、「NATOとロシアの関係に関する基本議定書」に関係諸国が調印し、正式に「東方拡大」にむけた話し合いが可能になりました。ちなみに、当時調印式に臨んだロシアのエリツィン大統領が、「NATO諸国に向けられた核ミサイルの照準を外す」という予定外の表明を行って、お祭り騒ぎになった「事件」もありました。
さて、西欧同盟の理念は、欧州連合(EU)の権限拡大を決定づけた2009年のリスボン条約によってEUの集団的自衛条項に引き継がれ、西欧同盟自体は2011年に終了します。EUの軍事部門は欧州合同軍として再編成。また平和維持目的で編成される欧州連合部隊はボスニア・ヘルツェゴビナやコンゴ民主共和国で平和維持活動を展開しています。
その一方で、EU加盟国の多くがNATO加盟国と重なっている状況は変わらず、線引きがあいまいになっている感もありますが、現在までにEUの安全保障の機能が、平和維持目的以外で特定の紛争解決を主導した事実はなく、西欧諸国の安全保障体制の柱は、現在もNATOであることに変化はありません。ただし、EUの軍事予算が年々増額されているのに対し、NATOに対する予算は削減されるか未払いの国が出てくるに及んで、アメリカのトランプ大統領が軍事費負担の不均等な状態に不満を表明。2019年にはNATO離脱も可能性として浮上するなど、未だ流動的です。
4.NATOの新規加盟国は?
新規加盟国の受け入れは、「NATO創設50周年」となる99年。新規加盟国も、チェコ、ハンガリー、ポーランドの三カ国というところまでは決まっていましたが、この「三カ国限定加盟」案にフランスらが反対。結局新規加盟国の最終決定は、98年7月8日までずれ込みました。
フランスは、66年、米国の影響下に置かれるのを嫌ってNATO軍事機構から離脱していましたが、96年の西欧同盟(WEU)の機能強化を理由に、現在はNATOに復帰しています。この「アメリカぎらい」のフランスは、上記三カ国に加えて、自国との関係が深いルーマニアを推薦。スロベニアの加盟を推すイタリアとともに、「五カ国加盟」を標榜して米国案に反対していたのです。
しかしながら、NATO拡大に必要な費用負担の見積もりは、三カ国加盟の場合だけでも2009年までに最低270億―350億ドルとされ(米国務省)、さらなる加盟国の増加に伴う負担増をどう分配するかといった点を考えると、特に大きな負担増を強いられるアメリカにとっては頭の痛い問題でした。
結局98年7月に行われたNATO首脳会議で、99年の新規加盟国がチェコ、ハンガリー、ポーランドの三カ国に正式決定。2004年にはスロバキア、ルーマニア、ブルガリア、リトアニア、ラトビア、エストニア、スロベニアの7か国、2009年にはアルバニア、クロアチアの2か国が、2017年にはモンテネグロ、2020年には北マケドニアが、それぞれ正式加盟となりました。
5.ロシア側の安全保障体制は?
ソ連の崩壊でワルシャワ条約機構も同時に崩壊して、ロシアは孤立無援となりました。国力が弱まったロシアは、OSCEに加盟してソ連崩壊後の主に中・東欧の安全保障体制を協議してきましたが、世界的な原油価格の上昇によって産油国ロシアの経済的地位は著しく向上。さらには、ヨーロッパ諸国への天然ガス供給によって、その政治的影響力も次第に増していきました。そんな中で、NATOの東方拡大に関して次第に危機感を募らせてきたロシアは、2002年に集団安全保障条約機構(CSTO)を立ち上げます。いわばワルシャワ条約機構の縮小版ですが、現在、ロシアを中心に、アルメニア、ベラルーシ、カザフスタン、キルギスタン、タジキスタンの6か国が加盟しています。
一方、ロシアの影響から逃れるためにNATO加盟に動いていたウクライナとジョージアに関して、ロシアは絶対反対の姿勢を貫いており、ジョージアに対しては2008年に、ウクライナに対しては、2014年に軍事侵攻を行って、新たな緊張関係を生み出しています。