中東和平
キャンプ・デービッド合意(1993年) cc The White House
中東の最大の不安定要因であったパレスチナ・イスラエル問題は、1993年の電撃的な和平合意以後、双方が歩み寄り、平和的な解決に一時は期待感が高まりましたが、95年11月に和平推進派のラビン首相が暗殺され、跡を継いだペレス首相も、96年の選挙で和平慎重派のネタニヤフ氏に敗北。中東和平のプロセスには、急激にブレーキがかかりました。
アメリカのクリントン政権はPLOとイスラエルの仲介に入り、98年10月には中東和平プロセスに新しい進展が見られました。99年7月の総選挙でネタニヤフ氏を破ったバラク首相のもと、イスラエルの和平推進派は再び息を吹き返しましたが、結局エルサレムの帰属を含む最終合意には至らず、バラク首相も和平反対派のシャロン首相に交替。その跡を継いだネタニヤフ首相も強硬姿勢を崩さず、現在まで、和平のプロセスは進展はおろか、抜き差しならない対立の構造に逆戻りしようとしています。
1.イスラエルとアラブ諸国の間では、今まで、どのような対話がなされてきたのですか?
1993年の和平合意以来、現在まで進められている中東和平プロセスの前提となっているのが「土地と平和の交換」という言葉です。中東問題の鍵を解く重要な言葉ですから、以下に簡単に説明しましょう。
過去4回行なわれたイスラエル-アラブ直接対決(中東戦争)の中で、現在に至る領土問題の口火を開いたという意味で、最も重要な戦争が67年の第三次中東戦争でした。6日で決着がついたこの戦争で、イスラエルは、シナイ半島とガザ地区(エジプト領)、ヨルダン川西岸地区と東エルサレム(ヨルダン領)、そしてゴラン高原(シリア領)をそれぞれ占領します。
戦後の和平交渉で、アラブ側は占領地の全面返還を要求しますが。対するイスラエル側は、占領地からの撤退はありえないと反論。対立する両者の主張は、国連の安全保障理事会に持ち込まれました。しかし、和平交渉の裏には、アラブ側を支援するソ連と、イスラエルを支持するアメリカとの対立関係があったため、国連の最終決議案(国連安保理決議242)も玉虫色の決着となったのです。
国連安保理決議242は、「最近の紛争(第三次中東戦争)において占領された領土からのイスラエル軍の撤退」を勧告しています。しかしながら、原文(英文)の「領土」には、定冠詞の the がついていないため、そのままでは「占領された領土」の範囲が特定できなかったのです。アラブ側は、当然「全占領地からの撤退」と解釈し、対するイスラエル側は、「部分的撤退でよし」と解釈したわけです。結局何も決まらなかったのと一緒ですね。
実は、この安保理決議242の解釈に関しては、イスラエル国内でも意見がわかれました。「全占領地からの撤退はありえない」という点では大まかに一致してはいるものの、一部地域の返還に関しては、「占領地返還は一切必要なし」とするリクードと、平和と引きかえに部分的返還はありえる、つまり「土地と平和の交換」はありえると主張するイスラエル労働党の意見が真っ向から対立することになるのです。後でまた触れますが、この意見の対立は、現在なお続いているのです。
2.キャンプ・デービッド会談
さて、イスラエル-アラブ間の歩み寄りは、67年以後、現在まで3回ありました。「土地と平和の交換」を初めて実現したのは、エジプトのサダト大統領でした。78年、アメリカのカーター大統領の働きかけで行なわれたキャンプ・デービッド会談で、イスラエル・エジプト両首脳は、イスラエルが占領するシナイ半島の返還を条件とする和平合意を達成します。
キャンプ・デービッド会談では、シナイ半島の返還とともに、ガザ・西岸地区の自治に関する交渉もあわせて行なわれ、その合意内容は「中東和平のための枠組み」として発表されましたが、イスラエルのベギン首相率いるリクードは、「シナイ半島返還により、占領地の返還を促す国連安保理決議242の履行は終わった。」つまり、もうこれ以上の返還には応じませんよという態度を崩さず、結局パレスチナ問題に直接かかわってくるガザ・西岸地区の問題は、棚あげになってしまいました。
エジプトとの和平締結により、南からの軍事的脅威から解放されたイスラエルは、82年、南部レバノンを中心に展開するパレスチナ勢力をたたくため、レバノンに侵攻。PLO主力をレバノンから一掃します(レバノン戦争)。結果、PLOの軍事的影響力は失墜。軍事オプションを失ったアラファト議長は、以後、穏健な平和外交に力点を置かざるをえない状況に立たされたわけです。
その状況を見て、PLOとイスラエルを一気に和平交渉の場に引きずり出そうとしたのが、アメリカのレーガン大統領でした。後にレーガン提案と呼ばれる、この82年の和平構想にも「土地と平和の交換」の原則が受け継がれています。ガザ・西岸地区のパレスチナ住民に自治権を与えるという、限りなく現在の和平プロセスに近い内容が盛り込まれたこの提案に対して、アラブ側は原則同意を表明しますが、イスラエルのベギン政権は、「暫定自治は、結局パレスチナ国家の樹立につながる」として、即座にこの提案を拒否します。
以後、イスラエルでは、リクード党を中心とするタカ派が中心となって「イスラエルの土地は一片たりとも渡さない。テロには力で応酬する」という政策を展開していくわけです。
ところが、そのかたくなまでの信念が崩れる事件が、80年代後半に多発します。パレスチナ住民による「インティファーダ(大衆蜂起)」です。PLOという後ろ盾を失った、ガザ・西岸地区のパレスチナ住民は、80年代後半から自発的に抗議集会を開いたり、パトロール中のイスラエル兵に石を投げたりして、わずかばかりの抵抗を繰り返したのです。対するイスラエル軍は、実力を行使して事態の収拾をはかったため、その過程で多数の犠牲者を出すことになりました。
インティファーダの様子は、国際映像を通じて繰り返し放映されましたが、少年を中心とする非武装のパレスチナ住民が、完全武装のイスラエル兵に暴行を加えられ、時には実弾掃射を受ける映像は、国内外の一般視聴者の心を動かし、このことがイスラエルに対する各国の不満を高めることにつながって行くのです。
さらには、ベイルート南部の難民キャンプで起こったパレスチナ難民の大量虐殺のニュースは、それがイスラエル軍の監視下で行われたという事実もあり、イスラエルに対する世界の見方を変えました。この事件は、「イスラエル殲滅を目指す好戦的アラブ諸国に囲まれながらも、けなげに生きるイスラエル」とういう従来のイスラエルのイメージを180度転換するほどの衝撃を国際社会に与えたのです。「ユダヤ人たちは、自らの手でホロコーストを再現しているではないか」と。
そんな状況の中で行なわれた88年のイスラエル国会選挙では、強硬派のリクード党の議席が過半数に届かず、結局、「土地と平和の交換」を主張する和平推進派の労働党との連立を余儀なくされました。この背景には、インティファーダによる、イスラエル国民自身の認識の変化が見て取れます。以後、「土地と平和の交換」というスローガンは、イスラエル国民の中に広く浸透し、92年の国会選挙では、ついにラビン首相率いる労働党単独政権が誕生。イスラエルは「土地と平和の交換」を前提とした中東和平の道を歩み出すことになるのです。
3.PLOとイスラエルは、なぜ和解したのか?
結論から言うと、PLO(パレスチナ解放機構)もイスラエルも、ともに戦い疲れ、金がなくなったからです。先の「ひさし」と「母屋」の例でいくと、「ひさしを貸して母屋を取られた」パレスチナ人は長い間、「母屋(パレスチナ)」を 取り返すために戦い、イスラエルも「母屋」を死守するために戦い続けたわけですが、戦いのすえ、両者は疲れ果て、結局1993年9月の和平合意で、「ひさし」をパレスチナ人が管理することが決定したということです。
和平協定調印前年のイスラエルの国家予算をみると、一時期に比べれば少なくなってはいるものの、依然軍事予算の占める割合は高く、GDP(国内総生産)の11%強、一般予算の4分の1を占めています。この膨大な軍事費を捻出するための税負担は、80年代前半に3ケタまでに及んだ恒常的な高インフレ率とあいまって、国民の家計を圧迫してきました。つまり、「母屋」を取ったはいいがガードマンを食べさせるのがやっとで、肝心の「母屋」は荒れ放題といった状況が長く続いたのです。
それでもイスラエル経済が何とか持ちこたえてこられたのは、アメリカ中心に行なわれた経済援助のおかげでした。とくにアメリカ主導で行なわれた78年のイスラエル-エジプト和平合意(前述:キャンプデービッド合意)以降、アメリカはイスラエルに年間30~40億ドル相当(イスラエルの歳入の1.5~2割にあたる)の軍事・経済援助を行なってきたのです。しかしながら、近年はその援助もあてにしがたい状況になってきました。
冷戦が終わり、湾岸戦争が終わった段階で、アメリカは新しい中東政策の枠組みを模索していましたが、そんな中で、膨大な財政赤字を抱えるアメリカが、すでに戦略的重要性を失い、かつ和平に積極的とはいえないイスラエルに対して、膨大な援助を継続する意味があるのかという議論も出てくるようになったのです。
このような「アメリカのイスラエル離れ」を決定づけたのが、91年のイスラエル融資保証問題でした。入植地を拡大するため、崩壊後の旧ソ連邦から大量のユダヤ人移民を受け入れたイスラエルは、彼らの住宅建設や、インフラ整備のために必要な資金を捻出する経済力を、もはや持ち合わせてはいませんでした。そこで、当時のリクード政権は、イスラエルが商業銀行から当面の融資を受ける際(100億ドル)、アメリカ政府がその保証人になってはくれないかと、当時のブッシュ(現ブッシュ大統領の父)政権に持ちかけます。
これに対しアメリカ政府は、占領地に対する新たな入植は、中東和平の動きに逆行するものであり、それを中止しない限り、保証はありえないとして、イスラエルの申し入れをはねつけます。さらにアメリカは、中東における和平問題を包括的に討議する場、つまり「マドリード体制」と呼ばれる和平推進の枠組みを、今後の中東和平討議の中心に据えると宣言。イスラエル政府が、対立による共倒れか、和平による共存かを真剣に考え出したのはこの頃からです。
一方、PLOの資金源は、アラファト議長に直接支払われる産油国の援助金と、湾岸で働くパレスチナ人から送られてくる「解放税」という税金でしたが、湾岸諸国も、世界的な石油のだぶつきによる価格の低下で、近年、著しく資金調達力を欠いていました。そんな時に湾岸戦争が起こり、アラファト議長が大失態を演じてしまいます。なんと、資金源であった湾岸諸国に敵対するイラクを支持してしまったのです。結果、湾岸からの援助金は完全に停止。湾岸で働く70万のパレスチナ人の多くも追放されたため、彼らの「解放税」もあてにできなくなりました。PLOの資金は枯渇し、金の切れ目が縁の切れ目で、アラファト議長の指導力もすっかり低下してしまいました。93年の和平で、「母屋」全体ではなく、ガザとエリコという限定された「ひさし」の暫定自治という条件を受け入れたのも、このままではPLOが「母屋」の顔を見る前に分裂してしまうという危機感があったからでしょう。93年の和平調停の裏には、このような両者の台所事情があったのです。
4.1993年の和平合意から現在までの動き
イスラエル二大政党の、和平に対する姿勢を簡単にまとめると、リクード党は、「土地の返還には応じない」とする対アラブ強硬派、対する労働党は「土地と平和の交換」を主張する和平推進派ということになります。1992年に行なわれたイスラエル国会選挙では、和平推進派の労働党(党首ラビン首相)が勝利をおさめ、こうして和平への一歩が踏み出されたというわけです。
以後、労働党のラビン首相は、ノルウェーのホルスト外相の仲介で、PLO幹部との秘密交渉を開始します。当時のイスラエルは、「国際テロリスト集団」であるPLO(パレスチナ解放機構)との直接対話を、かたくなに拒んでいましたから、ラビン首相のとった行動は、彼の政治生命を伴う、危険な賭けでした。一方、湾岸戦争での失敗以来、その指導力にかげりが見え始めていたPLOのアラファト議長は、「ガザ・エリコ暫定自治」というイスラエル提案を支持。その結果、両者は93年9月、PLO・イスラエル相互承認及びパレスチナ暫定自治原則宣言という歴史的な和平合意を達成するのです。
以後、イスラエルのラビン首相は、合意内容の実現に向けて精力的に活動。PLOのアラファト議長をはじめとするアラブ諸国の指導者も、その活動を高く評価し、信頼感を深めていきます。しかし、94年9月にヨルダンとの和平条約を結び、後は、シリアに対する和平達成を残すのみという段階にまできたとき、悲劇が訪れます。95年11月、ラビン首相は、和平に反対するユダヤ人過激派青年の手によって暗殺されてしまうのです。
ラビン首相の死によって、一時は頓挫しかけた中東和平プロセスは、しかし、その跡を継いだペレス首相によって、見事に受け継がれました。パレスチナ側も、平和のパートナーとしてのペレス首相を高く評価。96年のイスラエル総選挙の1カ月前には、パレスチナ人の憲法に相当する「パレスチナ民族憲章」にある「イスラエルせん滅条項」の全面削除を圧倒的多数で決定して、和平への積極姿勢を示しました。
対するペレス首相も、労働党の綱領から、パレスチナ独立国家の樹立を拒否する項目を削除するなどして、互いにエールを交換しあっていたわけです。96年5月5日には、パレスチナ国家の樹立を含む「最終地位交渉」の第一ラウンドが開始するなど、実質的な和平への動きも始まっていました。
ところがです。国会総選挙とともに行なわれたイスラエルで初の首相公選(96年5月29日)で、当然当選するはずだと思われていたペレス首相が僅差で落選。首相には、和平慎重派の野党三党(リクード、ゲシェル、ツォメット)の統一候補であるネタニヤフ氏が選出されました。
このネタニヤフ氏、ことパレスチナ問題に関しては、かなりの強硬派で知られていました。ペレス首相率いる労働党が、積極的に和平推進を行なってきたのに対し、反労働党連合を率いるネタニヤフ氏は、以前から「アラブ、特にテロリストであるアラファト議長とは交渉しない。イスラエルの土地は、一片たりとも渡さない。暴力には徹底した暴力で」というような、タカ派の意見を代表していたのです。
5.イスラエルの和平反対派
故ラビン首相が音頭をとり、ペレス首相に引き継がれた和平プロセスの基本となるのは、「占領地を返還することで平和を得よう」という発想だったことは前に述べました。実際、1993年の「パレスチナ暫定自治協定」以来現在まで、イスラエル軍は占領地区から次々に撤退し始めており、パレスチナ側の自治区域は、徐々に拡大していました。加えて、シリアとの間では、67年の第三次中東戦争時に占領したゴラン高原の返還交渉が進行していたのです。
しかしながら、占領地を返還するということは、当然そこに住んでいたイスラエル人入植者も追い払われることになりますから、これら入植者のほとんどは、労働党の和平プロセスに反対し、「領土返還反対」を主張する野党側の支持母体になっていきました。
さらに96年に入って、和平ムードに水を差す事件が頻発します。2月から3月にかけて、イスラエル国内では、イスラム過激派組織による爆弾テロ事件が相次ぎ、これが国民に警戒心を植えつけるきっかけとなるのです。「我々は領土も、安全も、同時に失ったのか?」という声がイスラエル国民の間でささやかれ始め、反和平勢力が「和平より、安全を」という合い言葉のもと、息を吹き返すのもこの頃です。この一連のテロ事件が、「国内の治安に無能な労働党政権」という認識を国民に与え、ペレス政権の支持基盤を揺るがす大きな一因となったことは否めません。
6.ネタニヤフ政権下の中東和平プロセス
ネタニヤフ氏は、首相就任直後の演説で、和平への対話は継続すると言明しましたが、同時に「前提条件付きの対話には臨まない」とも言っています。つまり、「領土返還を目的とした、いかなる交渉も行なわない」と言っているわけです。これは、「占領地返還」を条件に行なってきた、従来の和平プロセスと相反することです。
ネタニヤフ政権は、これまでに和平に逆行するさまざまな政策を実行に移してきました。1996年8月には、西岸地域に入植者用のアパートを建設。パレスチナ人の住む東エルサレムでは、イスラエルの警察当局がパレスチナ人の集会所を一方的に破壊。同年9月には聖地近くを通るトンネルを、イスラエルが無断で建設。同年12月には、ユダヤ人入植地域を拡大する方針を打ち出し、97年1月には東エルサレムにユダヤ人の入植地建設を決定。同3月には着工を強行するなど、いずれもパレスチナ人の神経を逆なでする決定ばかりです。また、ペレス首相の時に合意に達した、イスラエルの西岸地域からの撤退も先延ばしにされ、結局97年10月には当初の合意案から縮小された6%から8%程度という撤退案を発表。これも、イスラエル側に対するパレスチナ側の不信任感を助長させました。
こうなったら、パレスチナ人も黙っていません。しばらくなりを潜めていた過激派集団「ハマス」が活動を再開。97年には自爆テロを含めたテロ活動が再開して、事態は、80年後半、インティファーダが多発した当時の状況に逆戻りしてしまいました。
7.最終的地位合意
93年の暫定自治合意を取りまとめたアメリカとしては、合意内容を責任をもって実行しなければならないため、97年度から、遅々として進まない和平プロセスを何とかして進ませようと、パレスチナ、イスラエル双方にはっぱをかけてきましたが、イスラエルの強硬姿勢が災いして、対話は遅々として進みませんでしたが、98年に入ると、国連やEUなどからも和平プロセスの進展をサポートする動きが活発になり、和平への動きが再び活発になってきました。
こういった動きの中で98年10月23日にパレスチナとイスラエルの合意が得られ、まず、イスラエルがヨルダン川西岸地区占領地の13.1%から兵力を撤退すること。次にパレスチナ自治政府は、アメリカの監視の下でイスラエルに対するテロ行為の取締を徹底することをそれぞれ確認。そして、最終的地位合意の期限も99年5月から約1年間延長され、2000年2月に基本合意、9月に最終合意とすることで決着しました。
また99年7月の選挙でネタニヤフ首相を破って発足したバラク政権は、中東和平の完結を政治目標に掲げる和平推進派でしたから、和平への取り組みにも積極的で、99年11月には、3年半ぶりにパレスチナ最終地位交渉が再開され、それ以降、イスラエル、パレスチナ、アメリカによって精力的な交渉が続けられました。
その結果として、エルサレムやユダヤ人入植地の将来、難民帰還問題、イスラエルとパレスチナの境界など、パレスチナ紛争の最終決着を図る最終的地位交渉が2000年1月から集中して行われる運びとなりましたが、残念ながら数日で足踏み状態となってしまいました。その理由は、エルサレムを「永遠にして不可分の首都」と主張するイスラエル側と、「独立時の首都」として東エルサレムの完全主権を要求するパレスチナ側との間で、最終的に折り合いがつかなかったからです。
アラファト議長は、すべてのイスラム諸国が、イスラム教の聖地である岩のドームとアル・アクサ・モスクがある東エルサレムの全権返還を求めるなかで、東エルサレムの権限を部分的に返還するというイスラエルの譲歩案を受け入れるわけにはいきませんでした。
一方、イスラエルのバラク首相も、パレスチナに譲歩をしすぎるとして、イスラエル国内で支持率が下がり、8月には有力な閣僚であるレビ外相が辞任するなどして、内閣の基盤が揺らぎました。それと並行して、イスラエルの最大野党リクードのシャロン党首が9月28日、エルサレムのイスラム教の聖地「神殿の丘」への訪問を強行したのがきっかけで、イスラエル治安部隊とパレスチナ人の激しい衝突が起こり、それがきっかけで再びパレスチナ人によるテロ、それに対するイスラエルの報復が繰り返されました。
和平プロセス失敗の責任を負う形で2000年12月、バラク首相が辞意を表明。2001年2月に首相公選が行われ、和平反対派のリクードのシャロン党首が圧勝。中東和平に陰りが見え始めました。同年9月11日の米国同時多発テロ以降はPLOを「テロ組織」と同系列に論じるシャロン首相が、今後はアラファト議長を交渉相手としては認めず、イスラエル軍が直接「テロ行為」を封鎖することを宣言。2002年からはパレスチナ自治区を囲い込む分離の壁の建設が始まり、2008年にはパレスチナ自治区のガザ地区に大規模な空爆を行うなど、一時期盛り上がった和平の雰囲気はかき消されてしまったようです。
2009年に政権に返り咲いて、2020年現在まで政権を担うネタニヤフ首相もパレスチナ問題に関しては強硬は姿勢を崩さず、和平への動きは停滞したままです。