中東の紛争

中東が世界の火薬庫と呼ばれるわけ

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 2001年9月11日、アメリカで起こった同時多発テロの影響で、再び注目の的となった中東問題ですが、中東情勢に関しては、各国の思惑、宗教上の対立など、あまりに複雑すぎて、まったくわからない。簡単に整理した情報がほしいという意見を良く聞きます。実際、中東では第二次世界大戦から現在まで、平均して5年に一回は戦争や紛争が起こっています。つまり、5年前に持っていた中東のイメージが現在ではまったく通用しないというわけですから、安定指向で物事を把握することに馴れた日本人の目から見ると、「中東がわからない」のはむしろ当然なことなのかもしれません。

 しかしながら、中東問題を理解するのは、実はそれほど難しいことではありません。というのも、ごく最近まで、中東紛争の「火付け役」は2つしかなかったからです。一つはイスラエル・パレスチナ、もう一つはイランとイラクです。この2つの視点で、数多くの中東の紛争がきれいに整理できます。もちろん、現在ではこれらに加えて「テロ」という、まったく新しい「火付け役」が出てきたわけですが、ここでは、中東問題をイラン・イラク、パレスチナ・イスラエルという2つの視点から概観した後に、それぞれについて更に詳しく見ていくことにします。

1.中東が「世界の火薬庫」と呼ばれるわけ

 まず、いまだに解決されていない国境の問題が挙げられます。第一次世界大戦までオスマン帝国の支配下にあった中東に国ができたのは、せいぜい70~80年前の出来事です。さらにその国境線も、第一次世界大戦中にイギリスとフランスが、それぞれの思惑から地図上で大まかに引いた線がもとになっているため、詳細は今でもあやふやな所が多いのが実状なのです。国によっては自国の公式な地図さえ確定していない所もあります。

 イラン・イラク戦争や湾岸戦争などの大戦争のほかにも、国境問題が直接のきっかけとなっている紛争は、サウジアラビア対イエメン、カタール対バーレーン、イラン対アラブ首長国連邦など、報告されているだけでもかなりの数にのぼります。そして、そのほとんどが未解決の状態で現在まで持ち越されており、将来、特に石油権益にまつわる土地の帰属を巡って、新たな紛争が起こる下地はすでにあると言ってよいでしょう。

 もう一つは、民族の問題です。中東には、オスマン帝国時代にとられた少数民族保護政策によって、宗教、地縁、血縁からなる大小さまざまな民族が、今なお無傷で残っており、それらが引き起こす問題が後を絶ちません。これらの民族それぞれが、一国にまとまれば問題は無かったのですが、オスマン帝国崩壊後、国境を策定する段階で、居住地域を分断されてしまった民族がかなりいます。その代表的な例がクルド族で、その居住地はイラン、イラク、トルコ、シリア等、広範囲にわたり、いずれも独立の動きがあるため、各地で弾圧の的となっています。

 その一方で、様々な民族、宗派の寄せ集まりで出来たレバノンのような国では、どの宗派が実権を握るかで、1975年以来15年間に及ぶ内戦を経験しました。さらに、イスラエルの建国により土地を追われたパレスチナ人や、トルコへの併合で追い出されたアルメニア人、さらにはトルコ、イラン、イラクにまたがる地域に展開するクルド人などのような、いわば政治的な民族集団が中東全域に散在しています。このうちパレスチナ人は、故国奪回のための軍事行動を展開し、周囲のアラブ諸国を巻き込んで四次にわたる中東戦争ならびにレバノン戦争を誘発しました。

 中東の国々は、大なり小なりこのような民族の問題を抱えており、国の歴史が浅いことも手伝って、これら民族が「国家」としてまとまるには、さらに時間がかかるでしょう。同じくオスマン帝国の支配下にあったボスニアの民族問題をみてもわかるように、旧オスマン帝国地域を治めるには、相当に強い政治的求心力が要求されるのです。

 最後に、中東地域には国家の枠を超えた宗教的つながりが紛争の呼び水になる場合が多くみられます。特に、イランのイスラム革命の影響を受けたシーア派イスラム教徒の一部は、反米、反イスラエル、反西欧文明の立場から様々な破壊活動を展開するに至っています。特に湾岸地域では、人口の大半を占めるシーア派イスラム教徒を少数のスンニー派イスラム教徒が支配するといった国が多いため、イランのシーア派革命の余波が自国に及ぶことにかなり神経をとがらせています。イラン・イラク戦争の時に、湾岸諸国がサダム・フセインを支援したのも、シーア派イスラム革命の余波をくい止めるための一策だったわけです。

2.パレスチナ・イスラエルがらみの紛争

 パレスチナ問題は、簡単に言うとパレスチナ人が、シオニストと呼ばれるユダヤ人の一派に「ひさしを貸して母屋を取られた」ために起こった問題です。

 ユダヤ人は、キリスト教中心のヨーロッパで、永く迫害の対象となってきました。キリスト教徒からすると、ユダヤ人は、キリストを死に追いやった、憎むべき裏切者という事になりますし、また、中世以来、キリスト教中心に国家のシステム作りを進めていた西欧諸国にとって、ユダヤ教徒は邪魔者以外の何者でもありませんでした。かくしてユダヤ人は社会の主流に受け入れられず、金貸し業など、当時、キリスト教徒が手を付けない様な仕事をしながら、ひっそりと生きてきたわけです。

 ヨーロッパにおけるユダヤ人迫害は、特に19世紀末から急速に強まり、ナチス・ドイツのホロコースト(大虐殺)によって、ついに行き着くところまで行くわけですが、そんな中、「迫害を受けるのは、我々が国家を持たない少数民族だからだ。かつて祖先が住み、神が約束してくれた安住の地、シオンの丘(パレスチナ)へ帰ろう」という思想がユダヤ人の中で芽生えます。これは、後にシオニズムと呼ばれ、1897年の第一回世界シオニスト会議開催以来、一部ユダヤ人の政治的目標になっていくのです。

 これらシオニストたちにとって、パレスチナ人の「ひさし」を借りる絶好の口実が、第一次世界大戦中に訪れます。イギリスのバルフォア外相が、戦後のパレスチナに、ユダヤ人の「ナショナル・ホーム」を建設する手助けをしようと持ちかけるのです。この、いわゆる「バルフォア宣言」は、実際には法的拘束力も何もない、極めて政治的な空約束でしたが、ユダヤ人の国家建設願望を刺激するには充分すぎる内容でした。

 第一次世界大戦後、パレスチナは、イギリスの委任統治領となりますが、その間、「バルフォア宣言」に触発されたユダヤ人が「国のない民へ、民のない国を」というキャッチフレーズのもと、大挙してパレスチナに移住しました。第二次世界大戦中、ナチス・ドイツによって行われた徹底的なユダヤ人抹殺政策がその動きに拍車をかけます。ところが「民のない国」であったはずのパレスチナには、パレスチナ人という、紛れもない「民」がいたから大変です。迫害の被害者であったシオニストたちは、次第にパレスチナ人に対する加害者に変身していきます。

 彼らは相次ぐテロ活動でパレスチナを統治していたイギリス勢力の撤退を促す一方で、地上げ屋まがいの土地の買い占めで領土を拡大。国際舞台では、パレスチナ分割決議案の承認を国連に働きかけ、ついに47年末、パレスチナ全土の57%をユダヤ人地区として承認させることに成功。翌48年には、念願のユダヤ人国家イスラエルの建国を宣言するのです。

 パレスチナ人にしてみれば、少しばかり「ひさし」を貸してやったと思っていたのが、いつのまにか「母屋」の半分以上を乗っ取られてしまっていたわけです。こうなれば腕ずくでもと、周辺のアラブ町内会の面々を巻き込んで「母屋」争奪戦を展開することになります。この「母屋」争奪戦が、いわゆるパレスチナ紛争というものです。これが長年にわたり中東諸国に火を付け、四回にわたるイスラエル直接対決のほか、数々の地域紛争を誘発していくことになります。

 まず、イスラエル建国直後に行われた「母屋」争奪第一回戦(第一次中東戦争。イスラエルではこの戦争を独立戦争と呼ぶ)は、パレスチナ人の完敗におわりました。この時点で「母屋」のほとんどを乗っ取られたパレスチナ人は、難民となって周辺のアラブ町内に散らばっていくわけですが、当時アラブ町内会の会長を勤めていたエジプトは、この様を見て義侠心に燃え、イスラエルつぶしを買って出ます。エジプト主導のアラブ軍(シリア、ヨルダン、パレスチナ参加)は、以後3回にわたってイスラエルと対戦しますが、イスラエルのガードは固く、逆に戦争の度ごとに領土を拡大していきました。

 一方「母屋」をとられ、本当に「国のない民」になってしまったパレスチナ人は、周辺のアラブ町内会の面々に厄介になりつつ、64年、PLO(パレスチナ解放機構)という団体を結成して、自力で「母屋」争奪戦を続行することになります。しかし、他人の家で鉄砲持ってうろつくものですから、次第にうさん臭い目で見られる様になり、多くのパレスチナ難民を受け入れたヨルダンからは、70年に追放されてしまいます。(黒い9月事件)

 追放されたPLOが流れ着いた先がレバノンでしたが、彼らはここでも一悶着起こします。レバノンは、キリスト教徒とイスラム教徒との微妙な力のバランスの上に成り立っていた小国でした。そこにイスラム教徒主体のPLOが大挙してやってきたわけですから、力のバランスが一気に崩れてしまいます。レバノンの実権を握るキリスト教徒側は、イスラム勢力の封じ込めを狙い、一方のイスラム教徒側は、その勢力拡大を目指しました。ということで、レバノンは75年、キリスト教徒対イスラム教徒の内戦に突入するのです。(レバノン内戦)

 また82年には、イスラエルが宿敵PLOを排除するためにレバノンに侵攻(レバノン戦争)。多くの一般人が犠牲になりました。レバノンにしてみれば、踏んだり蹴ったり。というわけで、パレスチナ人の「母屋」争奪戦は、ここでも2つの戦争を誘発したことになります。82年の戦いに敗れたPLOはレバノンを去り、93年の和平合意成立まで、チュニジアに新しい拠点を作ることになりますが、こうして振り返ってみると、第二次世界大戦後に中東で起こった戦争のほとんどが、パレスチナ問題絡みだったと言っても過言ではないでしょう。

3.イラン・イラクがらみの紛争

 中東問題のもう一つの「火付け役」がイランとイラクです。ところで、湾岸諸国の中で軍事大国となりうる国はイランとイラクしかありません。他の国々は、石油はあっても人口が少なく、人口の多いイランやイラクが本気で攻め込もうと思ったら、一気に制圧できるような状況です。そのため、軍事的に弱体な湾岸諸国は、互いに協力してイランやイラクを刺激しないような安全保障体制作りに四苦八苦してきたわけです。その様な背景のもとに生まれたのが湾岸協力会議(GCC)でした。

 さて、湾岸諸国がもっぱら潜在的脅威と考えていたのはイランの方でした。イランは人口の大部分がシーア派イスラム教徒で、母国語もペルシャ語ですから、スンニー派が実権を握り、アラビア語を話す他の湾岸諸国とは異質です。さらに79年、アヤトラ・ホメイニ師によるイスラム革命が起こってからのイランは、シーア派による世界革命を、その政治目標としていますから、少数のスンニー派が多数のシーア派を統治している湾岸諸国にとっては、あまり有り難くない存在でした。

 そこで湾岸諸国が考えたのが、イランの槍に対し、イラクに盾の役割をしてもらおうという作戦です。イランにイスラム革命が起きて数か月後、イラクではご存知サダム・フセインが大統領に就任します。他の湾岸諸国は彼をアラブのリーダーに担ぎ上げ、財政の一部を負担することで、その強大な軍事力をイランに向かせることに成功したのです。

 イラン・イラク戦争のきっかけは、1975年、両国が国境を定める条約に調印したことにさかのぼります。調印したのは、イラクのフセイン国王(サダム・フセインとは関係ない)とイランのパーレビ国王。内容は、「イラン政府がイラク領内のクルド人独立運動派に対して行っている支援を止めるなら、イラク領のシャトル・アラブ川を使っていいですよ」といった交換条件だったわけですが(クルド人問題)、これにより海運の効率が著しく高まるイランにとっては、大きなプレゼントでした。

 以後数年間、両国の関係は良好でしたが、79年にイランでイスラム革命が起こり、その半年後にイラクでサダム・フセインが大統領に就任したあたりから状況が一変。イラクは、王制時代に譲歩したシャトル・アラブ川の所有権奪回に向けてイランと対立。戦争へと発展するわけですが、その裏には、「湾岸アラブ諸国のイラン化を防ぐため」というもう湾岸諸国の思惑もあったのです。

 さて、8年間に渡って続いたイラン・イラク戦争(1980~88年)は、イラン、イラクともに力尽きて、両者痛みわけの状態で終了しますが、これでイランの脅威が低下したことにほっとした湾岸諸国は、イラクを見捨てます。イラクにしてみれば、自分の国だけが貧乏になってしまったわけで、おもしろくありません。特にクウェートは、戦争中イラクの石油生産能力が落ちたことを良いことに、イラクに割り当てられた石油生産枠を勝手に使って儲けていましたし、イラクとの国境にあるルメイラ油田も無断で開発していました。これを知ったイラクの怒りが爆発。採取した分だけ現金で渡せ。さもなくば...ということで始まったのが湾岸戦争(1990~91年)だったわけです。

4.湾岸戦争からイラク戦争へ

 湾岸戦争後、サダム・フセインを頂点とするイラクの統治体制は、崩れずにそのまま残りました。戦争直後のイラク国内には、独立を主張するクルド族とシーア派の反政府組織が、それぞれ北部、南部に割拠。国連側も、安全地帯及び飛行禁止地帯を設けてそれらのグループの保護に当たりましたが、サダム・フセインは、反政府の蜂起をことごとく弾圧します。

 さらには、イラク側が大量破壊兵器に関する新たな査察の受入れを98年以来拒否して来たためアメリカのブッシュ政権がイラクによる大量破壊兵器の生産と保有を疑って2003年3月にイラクに対する空爆を開始(イラク戦争)。戦闘自体は短期で終了しますが、アメリカ軍はその後2010年までイラクに駐留することになりました。

5.イラクの敗戦がイスラム国を生んだ?

 イラクにとって、最大の不安定材料は、その民族・宗教構成にあります。実は、サダム・フセイン政権をはじめ、イランの政権を担って来たのはスンニー派イスラム教徒で、全人口の20%程度の少数派です。それに対して、一番人口が多いのはシーア派イスラム教徒の60%。さらに、クルド人の人口が20%となっていますから、イラクの政権は、北部のクルド人の独立運動と、南部のシーア派住民の「イラン化」を常に警戒していなければなりませんでした。

 北部クルド人居住区で行われた88年、91年の弾圧、それに85年、98年に行われた南部シーア派反政府勢力に対する弾圧など、サダム・フセイン政権が行った大規模な弾圧の根底には、このようなイラクの特殊な社会構成が存在するのです。

 イラク戦争後、この社会構造に劇的な変化が起こります。2003年、アメリカを筆頭とする有志連合は連合国暫定当局(CPA)の管理の下で戦後イラクの民主化に向けた準備をはじめ、2005年末に新しいイラクの代表を決める議会選挙が行われました。イラク初の民主選挙で圧倒的多数を獲得して第一党となったのはシーア派の統一イラク同盟でした。2006年にはマーリキー首相が選出。以後2020年現在まで4代にわたってシーア派の首相が組閣しています。民主主義の占拠では、多数決で物事が決まりますから、人口の一番多いシーア派の代表が選出されるのは当たり前ですね。

 2010年のアメリカ軍撤退後のイラクでは、シーア派、スンニー派、クルド人から各一人ずつの代表を選出して、三者の危ういバランスの下で政権を運営する方式になっていますが、当然のことながらイラクのシーア派に対するイランの支援は拡大しており、イランの影響がイラクに及ぶことに神経質な周辺の湾岸諸国の懸念材料となっています。

 民主化というと聞こえはいいですが、その国、地域ごとの特殊事情に沿って注意深く導入しないと余計なお世話ばかりか、逆に政治バランスを崩して混乱を招くことにつながりかねません。2010年にチュニジアで発生して中東諸国に広がった民主化の波(アラブの春)も、結局その先々で政変や混乱、内戦を誘発して現在に至っています。シリアでの「アラブの春」が、結果として史上最悪の人権問題といわれるシリア難民を引き起こしたことを考えると、民主化というシステムそのものが国家の安定と民衆の幸福に結びつく唯一の道だと考えるのはいかにも単純で危険であると思わずにはいられません。

 いずれにせよ、戦後の民主化によりイラクで行き場を失ったスンニー派、特に支配階級だったバース党の残党はイラク北西部からシリア国境に新天地を求めて移動。その一部がイスラム国(IS)の建国へと進んでいきました。

6.イランの現状

 一方のイランでは、97年、ラフサンジャニ大統領の任期満了に伴う大統領選でハタミ大統領が当選。国内では新聞、雑誌など出版の自由化を推し進め、対外的にはアラブ諸国、西欧諸国との関係改善を目指す「穏健改革路線」に着手しました。ハタミ大統領は、フランス、イタリア、サウジアラビア、ドイツ、中国、日本などを精力的に訪問して、今までの外交的孤立状態からの脱却に精力的に取り組んでいます。

 ハタミ政権を中心とする改革派は、2000年に実施された国会選挙でも大きく議席を伸ばし、保守派を凌駕。そんなハタミ政権のイランに対し、米国のクリントン政権の態度も軟化して、イラン国民の査証(ビザ)発給手続きを簡素化しているほか、98年にはクリントン大統領が「互恵主義に基づいた真の和解を求める」と関係正常化を提案。米国の「麻薬の主要製造・取引国」リストからイランを除外したり、99年にはイランに対する食料、医薬品の売却について経済制裁の対象除外方針を決めたりしましたが、ブッシュ政権になるとイラン、イラク、北朝鮮を「悪の枢軸」と名指しで非難するなど、両国の関係は再び冷却化。2005年に選出されたアフマディーネジャード大統領は外交的には反米の姿勢を貫き、原子力開発にも着手。対米関係は著しく悪化しますが、2013年には穏健派のロウハーニー大統領が登場して、原子力施設の定期的査察を受け入れるなどして西欧諸国の支持を得ますが、米国のトランプ大統領はイランに対して強硬な姿勢を崩しておらず、イランと米国の関係は再び緊張しています。

 以上、中東問題を2つの視点から整理しましたが、結局、中東で紛争が絶えないのは、国の歴史が浅く、国家の概念が弱かったことが一つの要因になっています。第一次世界大戦までオスマン帝国の支配下にあった中東には、ごく最近まで国がなかったわけです。ある朝起きてみたら英仏が引いた線で囲まれた国が出来あがっていたわけですから、現在の紛争は、国境画定のための陣取り合戦的要素が強いのです。実際、イラン・イラク戦争や湾岸戦争などの大戦争のほかにも、国境問題が直接のきっかけになっている紛争が、かなりの数に上ります。

 また、オスマン帝国時代に取られた少数民族保護政策によって、中東には宗教、地縁、血縁からなる大小様々な民族が無傷で残っており、それらが引き起こす問題が後を絶ちません。これらの民族が、それぞれ一国にまとまれば問題はなかったのですが、オスマン帝国崩壊後、国境を策定する段階で、居住地域を分断されてしまったクルド人の様な人々や、パレスチナ人やアルメニア人などの様に、いまだに居住地が定まらない民族がかなりあるのです。

 中東の国々は、大なり小なりこの様な民族問題を抱えています。同じくオスマン帝国の支配下にあったボスニアの民族紛争を見てもわかる様に、多民族が混在する旧オスマン帝国地域を治めるには、一筋縄では行かない政治的求心力が要求されるのです。

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