中央アジアとは
ソ連崩壊前夜までの簡単な歴史
ヨムート絨毯 cc wikipedia
1. 中央アジアというのは、どの地域を指すのですか?
中央アジアと呼ばれる地域は、通常旧ソ連の中央アジア諸国のカザフスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタンとキルギスタンの5カ国にまたがる地域を指します。広い意味ではこれに中国の新彊ウイグル自治区を入れる場合があります。民族的には、カザフ人、キルギス人、トルクメン人が遊牧系の民族で、ウズベク人とウイグル人、タジク人が定住系の民族となります。共通点としては、これらほとんどの国が同じトルコ系のイスラム地域であるということです。言語的にもすべてアラビア語表記という点で共通していますし、使う言葉も、互いに似通っています。中にはトルコ化する前のペルシャの影響を現在まで引き継いで、ペルシャ語系の言語として残されているタジク語のような例外もありますが、タジク語の中にもトルコ語の言いまわしが多数存在しますから、英語と日本語のような決定的な違いというよりは、標準語と方言のような感覚に近いということです。
2.中央アジアの歴史を簡単に教えてください。
中央アジアは、このように互いに似通った民族の集まりで構成されていたために、19世紀前後から中央アジアに進出してくる異民族のロシアとは、あまりウマが合いませんでした。ロシアは、まず19世紀初めからカザフスタンに対する入植を開始。19世紀の後半になると南部のヒヴァ・ハーン国、ブハラ・ハーン国、コーカンド・ハーン国及びイラン国境のトルクメンを武力で制圧。以後、中央アジアにおけるロシアの統治が始まります。
しかし、大部分がトルコ系イスラム教徒という集団を、「異邦人」が統治するわけですから大変です。そこで、「統治権以外は、宗教、教育、司法などに、できるだけ干渉しない」という「放置政策」が、中央アジアを統治する際のロシアの方便となりました。しかしながら、当然ロシアの統治に対する抵抗も大きく、1898年にはロシア移民の排除とイスラム法による統治を目標に掲げた民衆蜂起(アンディジャン蜂起)が起き、また思想的にはトルコ系民族を中心に民族主義のきざしがあらわれるなど、徐々にロシアの支配に対する反対勢力が表面化してきました。これら中央アジア諸民族の不満が爆発する事件が第一次世界大戦中の1916年に起こります。
発端は、当時のニコライ2世が、第一次世界大戦に駆り出す人員確保のため、コーカサス及び中央アジアの19才から49才までの男子を徴兵しようとしたことです。これに対して、両地域の住民は熾烈な抵抗運動を繰り広げ、後に「中央アジア大反乱」と呼ばれる衝突に発展しました。結局、反乱は各地で武力鎮圧されたわけですが、第一次世界大戦中のロシアは、内にも外にも敵があったということです。これでは統治がうまくいくはずもなく、帝政ロシアは1917年の共産革命(二月革命)によって崩壊してしまいました。
敵の敵は味方というわけで、中央アジアのイスラム教徒は当初、帝政ロシアを倒した共産革命を支持して、ロシア共産党との協力関係ができたのですが、なにしろ宗教色を一切排除する共産主義に、イスラム教徒の肌が馴染むはずもありません。1917年末にタシュケントで行なわれた「トルキスタン地方ソヴィエト会議」では、すべての権限をソヴィエトへ委譲することと、イスラム教徒が権力にかかわることを排除する宣言が出されました。これを聞いたイスラム教徒側は、「トルキスタン地方ムスリム大会」を開き、一時期トルキスタン自治政府を樹立するなどの対抗策に出ました。ソヴィエト政権側はこの動きを反革命とみなして、1918年、トルキスタン自治政府を徹底的に粉砕しますが、その影でソヴィエト政権打倒に燃えたイスラム教徒側は、「バスマチ運動」と呼ばれる抵抗運動を展開することになります。
現地語で「襲撃」を意味するこのバスマチ運動は、人口の9割を占めるイスラム教徒が、人口1割の支配層であるソヴィエト政権に対して行なったゲリラ活動で、特に1920年代から30年代にかけて根強く続きました。
これに懲りたソヴィエト政権が選択したのが、もともと同一民族意識の強い「中央アジア」を民族別の国家に分断するというしたたかな戦略でした。つまり、大部分がトルコ系のイスラム教徒という共通性の多い中央アジアの諸民族が、束になって抵抗運動を繰り広げられてはたまったものではないので、彼らを民族ごとに分断して統治しようというアイデアです。この方策にしたがって1924年、中央アジアはカザフ共和国、キルギス共和国、ウズベク共和国、タジク共和国、トルクメン共和国に、それぞれ分割されたわけです。
同時に、これらの共和国を一つの文化や思想、民族で結びつけるあらゆる動きが禁止されました。例えばフィトラトという作家は、中央アジアに住む民族の同一性を主張し続け、膨大な著作を残しましたが、彼は汎トルコ主義者としてスターリンの粛正を受けてしまいました。以後、ソヴィエト政権は、中央アジア民族の共通性を排除し、各民族の特殊性を助長する教育を施すようになり、中央アジア全体でのソヴィエト政権に対する抵抗運動は影を潜めることになりました。
さて、ソ連時代の中央アジアはどうだったかというと、工業に従事する労働者や技術者は外から来たロシア人が、農業は従来の中央アジア人が従事するという、偏った産業形態が続いたため、先住のイスラム教徒の人口増加にあわせて失業率が増加するという傾向がありました。そのためにソ連中央政府は、大量の連邦補助金をこれら中央アジア諸国に対してばらまいてバランスを取っていたわけですが、ソ連型の社会主義経済システムが崩壊して、連邦内にカネがまわらなくなってきた1980年代、ついに民衆の不満が爆発。中央アジアでも、ロシア一極集中の政治制度や「連邦内の南北格差」の是正を訴える運動が頻発しました。ソ連崩壊の前夜には、中央アジアにおいても政治経済の行き詰まりが顕著だったのですね。