ロシア連邦

出典:外務省HP 

1.ソ連崩壊後、ロシア経済はどうなったのですか?

 1991年12月21日、ソ連が消滅し、かわりにCIS(独立国家共同体)が創設されました。ソ連崩壊の原因は数多く指摘されていますが、何といっても従来の社会主義経済のシステムが行き詰まり、国民が食べていけなくなったというのが最も大きい理由でした。

 さて、もともと全ソ連の元締めという立場だったロシアも、ソ連崩壊後、一転して一つの独立国に格下げになってしまいました。ロシアにとってはこれがつまずきの第一歩でした。というのも、ソ連時代には、コメコンという経済体制があって、ソ連内の各共和国、ならびに他の共産圏諸国から計画的に物資が連邦内に行き届くシステムでした。

 例えば、ウクライナの小麦、ウズベキスタンの綿花、アゼルバイジャンの石油などといった各共和国の「特産品」を他の共和国に分配して、全体として生活物資がすべての国民の手に入るような計画的な生産、分配方式が旧ソ連お得意の経済システムだったわけです。しかしソ連崩壊後は、11の共和国がそれぞれ独立してしまい、それとともに従来の貿易関係も分断されてしまったのです。

 さらには、社会主義経済から資本主義経済への移行も一筋縄ではいきませんでした。ご存知の通り、旧ソ連時代の経済は、社会主義経済でしたから、経済は国家が決めた生産計画にのって動いていました。個人が勝手に工場やら店やらを作って営業することは禁じられていましたから、ソ連崩壊後は、西側の市場原理を、どうやって導入していったら良いか、全くわからない状態でした。

 しかしながら、そもそも社会主義経済のシステムがうまくいかなくなり、いってみれば国家が破産してソ連が解体したわけですから、昔のシステムに逆戻りすることはできません。そこで、エリツィン大統領は一大決心。今までのやり方をすべて改めて、これまでいがみ合っていた商売上手のアメリカに、意見を聞くことにしました。アメリカは、社会主義が大嫌いですから、その社会主義経済から脱却するために、自由主義経済を学びにきたロシアを喜んで受け入れます。そこでロシアは92年、国際通貨基金(IMF)をアドバイザーとする一大経済改革に乗り出したわけです。

2.今までのロシアの経済改革について簡単に教えてください。

 IMFから出された意見は、従来、国家によって統制されていた価格と貿易を自由化するとともに、財政を引き締めてインフレを抑制することでした。つまり、何を、どんな値段で売っても構わないというお達しです。こうすることで、生産意欲も湧き、個人の投資も促進されるだろうという思惑でした。

 エリツィン大統領は、IMF案の実行をガイダル第一副首相にまかせ、92年から「ショック療法」とも呼ばれるこの経済政策を実施します。

 ところが、当時のロシアには、生産しようにも、生産する手段が限られていたのです。機械が旧式で生産性が悪いことはまだしも、生産に必要な原材料も、以前は他の共産圏諸国から黙っていても分配されてきたのが、今度はいちいち輸入しなくてはなりません。輸入には代金が必要ですし、それを運ぶ運搬手段も必要です。当初はツケで買っていた原材料も、次第にツケがたまり、支払い不能になる企業が後を絶ちませんでした。また、農産品等も、流通が不備なために品不足が相次ぎ、結局ヤミ商売が横行し、ロシアは急激なインフレーションに悩まされました。

 そこで、ロシア政府は経済に対する国家のコントロールを強くするという、自由主義経済とは逆の方向に政策転換。93年には、インフレ抑制、財政赤字の削減という経済安定化策を実行します。94年にはチュバイス第一副首相が蔵相を兼務して経済改革にてこ入れした結果、インフレは抑えられ、96年代の月間インフレ率は1%台に下がるほどの成果が出ました。

 しかしながら、その影で、最も危機的状況にあった不良債権問題は、手つかずに残されていました。92年、企業の未払い額はGDPの2倍を超える3兆ルーブルにもなっていたのです。これに対し、ロシア政府は通貨増発、信用供与、補助などの緊急救済策を適用します。つまり、政府の公的資金で、赤字企業の借金を肩代わりしたわけです。その結果93年には一時期、未払い額がGDPの3割程度にまで低下しましたが、これも根本的な問題の解決にはならず。94年には再び企業の未払い額が増加。95年4月には6兆ルーブルに達する勢いで急伸しました。

 つまり、インフレは抑えたものの、肝心の投資の方は一向に増える兆しがなく、投資がないので、資金や現金は不足してしまい、生産量も増えませんから、企業の未払いが増え、結局労働者に払う賃金も滞ってしまうような悪循環がソ連崩壊から数年間のロシアの状況でした。

 唯一景気が良いのが、いわゆる「経済マフィア」と呼ばれる闇商売組織です。手口は簡単で、ロシアで実権を持つ政治家たちに取り込み、国営企業を民営化させて、税金を払わずに商売をしているわけですから、儲かるのが当然。ロシア最大の企業となった「ガスプロム」や「ルークオイル」などは、首相たちの利権組織と化していました。

 しかし、このような無秩序状態では、国の経済が成り立つはずがありませんし、数カ月の賃金未払いを強いられている国民の不満も高まってきました。そこで出てきた案が、金融市場活性化による資金調達という発想だったのです。

 ロシアでは93年、西側のJ.P.モルガン協会やチェースマンハッタン銀行などをモデルにした金融・産業グループの創設が議論されました。それは、国家主導で金融資本を形成して、投資計画を実行するというもので、94年には10数件、95年には26件の金融・産業グループが設立されました。要するに、黙って待っていても、だれもロシアの企業に投資してくれないので、生産能力の低下と、資本不足の問題を解決するため、国が保証人になって諸外国から金融資本を集めて、それを産業グループごとに割り当てようというわけです。しかし、ここには大きな落とし穴がありました。

 つまり、諸外国から金融資本を集めるには、債権の利率を高くしなければなりません。そうすれば、投資家が利ザヤを稼ぐためにロシアの債権を買うだろうという思惑です。そこで、ロシア政府は意図的に、無理をして債権の利率を大幅にアップしました。

 この政策は、その初期段階ではヒットし、実際95年から97年までのロシアの金融市場は潤いました。しかしながら、投資先が利益を出すまでに成長するにはかなりの年月がかかりますから、ロシアは、今までためてきた貯金を切り崩して、なんとか投資家への利払いを行なってきたのです。しかし、何といっても、一旦は経済破綻した国が、当選率100%の宝くじを売っているようなものですから、長続きはしません。

3.ロシア経済の破綻と再構築

 ソ連崩壊後のロシアはこれまでに幾度となく諸外国からの財政支援を受け、つぶれそうな国家財政をしのいできましたが、97年、98年と、たて続けにアジアの金融危機が起こり、先進諸国の財政支援がアジアを向いてしまったことが運の尽き。今までロシアの債権を買ってきた冒険家も、アジアの金融危機を見て、それよりも数段状況が悪いロシアの金融市場への投資を控えるようになってきました。

 結局98年から99年にかけて、IMF及び世銀から総額226億ドルの融資が約束されたため、ロシア金融市場の危機は一息ついたのですが、この金融危機がロシアの政局に与えた影響も見逃せません。エリツィン大統領が、政敵であるチェルノムイルジン首相を更迭、かわって若いキリエンコ首相を迎えたのは98年の3月のことでしたが、金融危機の責任を取らされる形でキリエンコ氏は5カ月後に御役御免。エリツィン大統領はチェルノムイルジン氏を再び首相候補に指名しましたが、そのチェルノムイルジン氏がロシア議会で承認されず、結局代役としてプリマコフ外相代行が首相の座に就くというゴタゴタがありました。

 98年8月、ロシアは債務の支払い停止とルーブルの一方的な切り下げ発表。これがロシアの通貨危機を招きます。10月には、失策続きのエリツィン大統領に辞任を要求するデモが各地で起こり、エリツィン大統領個人の健康状態の悪化も手伝って、いよいよエリツィン体勢も終焉を迎えるような雰囲気になってきました。

4.プーチン大統領とロシアの復活

 さて、首相時代に情け容赦ない武力介入でチェチェンの独立勢力を粉砕して、国民的ヒーローとなったプーチン氏が2000年に大統領に就任すると、神風が吹きます。原油の国際価格が急激に上昇し始めまるのです。2000年には30ドル台だった原油価格は2008年に140ドルを超え、その後リーマンショックの影響で一時的に値下がりするものの、2014年まで100ドルを超える高値で推移しました。

 これが世界第3位の産油国ロシアに影響しないわけがありません。ソ連崩壊以降累積債務国だったロシア経済は急に好転。しかも欧米資本と密接な関係を築きつつロシア経済を牛耳ってきた新興財閥オリガルヒの解体と、世界最大の天然ガス供給会社ガスプロムを国有化するなどの荒療治を推し進めたプーチン大統領は、石油、ガス市場から大量に流れ込む資金を後ろ盾に、圧力的なエネルギー外交を展開。いうこと聞かなければガス止めるぞ、とばかりウクライナを皮切りに、周辺諸国およびドイツ、フランスに圧力をかけています。

 もう、こうなったら、北方領土問題で日本に譲歩する必要もなくなりましたから、エリツィン政権の時には前向きだった返還交渉も、ロシア側からの歩み寄りはまったくなくなりました。

 中国とは上海条約機構を通じて経済的、軍事的つながりを強化しており、2018年にはロシア史上最大規模の軍事演習に中国とモンゴルのオブザーバーが招待され、中ロ海軍による合同演習が8かカ所で行われました。2019年にイランをオブザーバーに招いてはオマーン湾で合同演習を行うなど、アメリカに挑戦するような動きを取り続けています。

 その一方で、原油価格高騰の波に乗って経済復興と世界的影響力の増強を進めてきたロシアでしたから、2020年の新型コロナウイルス拡大の影響で急激に値崩れを起こした国際原油価格が逆にロシアの影響力の低下に結びつくことも可能性としては大です。アメリカを中心とする西欧諸国と中ロ側の緊張関係を「新冷戦」と呼んだりしますが、混とんとした国際情勢の行方から目が離せません。

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