リベリア共和国

出典:外務省HP

1.アメリカ版奴隷解放の地

 イギリス人の奴隷解放主義者がシエラレオネを建設したのと同時期、リベリアは、アメリカ人の奴隷解放運動家によって建設されたのがもとになっています。リベリアという国名も、英語の自由(Liberty)から来ています。

 さて、アメリカの奴隷解放運動家は、アメリカに持ち込まれた黒人奴隷の解放先として1822年、リベリアに入植。アメリカ大統領の名にちなんでモンロビアと名づけられたこの街を拠点に、国づくりをはじめます。そして、第二次世界大戦が終了してまもなくの1847年、リベリアはアフリカでもっとも早い独立を遂げるのです。

 しかしながら、これらアメリカからやってきた解放奴隷(アメリコ・ライベリアン)は現地のアフリカ住民と交流することはなく、政治的にも1878年に真正ホイッグ党による一党独裁制を導入して事実上1980年まで継続するなど、健全とは言いがたい国家運営を続けていました。もちろん、こうしたアメリコ・ライベリアンの独裁的な国家運営に、現地のアフリカ人が黙っているわけはありません。20世紀に入ると、特に内陸部の現地人対する差別と圧政に対する抵抗運動が発生して、内政が不安定化します。

 このような内政状況を安定化に導いたのが1944年に大統領に選出されたウイリアム・タブマンの功績でした。タブマン大統領はアメリコ・ライベリアンと原住民との間に存在する差別的待遇を緩和し、原住民の権利を尊重する政策を進めたため、タブマンが死去する71年まで、リベリアでは安定した政局が続きました。71年にタブマンの後を受けたウイリアム・トルバート大統領も、すべてのリベリア人の平等な権利を前提とする数々の行政改革を推し進めました。しかし、70年代後半の経済危機に際して、政府は進歩人民党(PPP)を中心とする反政府勢力の批判の的となり、80年4月、PPPに同調するサミュエル・ドー曹長が、クーデターで大統領を含むトルバート政権首脳を処刑。150年にも及ぶアメリコ・ライベリアンの独裁的支配体制は終焉を迎えました。

2.解放奴隷の子孫と現地アフリカ人との戦い

 国家元首に就任したドウ議長は85年、自作自演の選挙に勝利する形で86年に大統領となりますが、ドウ政権下での腐敗は著しく、経済の悪化と部族対立から内政は破綻状態が続き、数々のクーデター未遂事件が起こりました。そして89年、アメリコ・ライベリアンを中心の反政府勢力を集めてリベリア国民愛国戦線(NPFL)を組織したチャールズ・テーラー議長による戦闘がはじまり、リベリアは7年間の内戦に突入します。

 1990年にはドウ大統領が殺害され、西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)の仲介でソーヤー暫定政権が発足しますが、NPFL側はソーヤー政権を承認せず戦闘を続行。93年の包括和平協定でも合意は得られず、結局西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)の仲介で95年に成立したアブジャ合意でやっと話し合いがつき、テーラー議長をはじめとする対立三派合同の暫定国家評議会が発足しますが、翌年、和平合意に参加しなかったクラン族中心のリベリア民主統一解放運動(ULIMO)ジョンソン派が暴動を起こし、国内が大混乱に陥りました。

 結局97年7月には、大統領・副大統領選挙、上院・下院選挙が行われてチャールズ・テーラーが大統領に選出。対立する幅広い勢力の代表を取り込んだ政権を発足させて、一息つきましたが、もとはといえば対立諸勢力の寄せ集め政権ですから、当初から政権内に不協和音が絶えず、2003年には反政府勢力が放棄して、テーラー大統領を追放します。同年国連リベリア・ミッションが派遣され、ジュデ・ブライアントによる暫定政権が発足。2005年の大統領選挙では、国連開発計画のアフリカ局長を務めたエレン・サーリーフが、アフリカ初の女性大統領となりました。また2018年の大統領選挙では、アフリカ初のバロンドールを受賞したサッカー選手として有名なジョージ・ウェアが当選。現在に至る。

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