リビア国

出典:外務省HP

1.リビアの歴史を教えてください。

 古代、リビアを含む北アフリカ沿岸地域には、フェニキアやギリシャの殖民都市が建設され、船を使った地中海貿易の一端を担いました。642年、そのうちのひとつ、キレナイカがターリ将軍率いるアラブ軍の手に落ちてから、アラブ勢力は、ジブラルタル海峡(ターリの山という意味)を越えてイベリア半島に上陸し、スペインを支配下に納めることになりますが、以後イベリア半島と、エジプトを結ぶ交通路上にある北アフリカは、急速にアラブ化していくことになります。

 リビアには、もともとベルベル人という先住民がいましたが、彼らは長い年月の間でアラブ人と同化していき、特にアラブ人の北アフリカ移住が進んだ11世紀以降は、純粋なベルベル人は影を潜めました。今では西部の一部地域にベルベル語を話す部族を残すのみとなっています。

 1578年、リビアはオスマン帝国の直接支配下に入り、トリポリ総督によって統治されることになりますが、内陸部には、フェザーン首長国など遊牧民が興した国が存在し、中央アフリカへの隊商ルートの通行税などによって潤っていました。

2.海賊の国リビアの台頭

 1711年にはトリポリ総督アフマド・カラマンリーが半独立王朝を興すのですが、このカラマンリー総督は、地中海の海賊の首領として有名で、地中海貿易を行っている商船から取る通行料が、カラマンリー朝の重要な財源でした。

 このカラマンリー朝が有名になったのがアメリカ合衆国との戦争でした。アメリカは建国以来積極的に旧大陸との交易を進め、特に地中海交易は大きな利益を生み出しました。そこで、建国当初はカラマンリー朝を中心に活動するバルバリア海賊に通行量を支払っていたのですが、次第に自前の護衛艦隊で海賊の攻撃を撃退するようになり、通行料も支払わなくなりました。それを不服としたバルバリア海賊が1801年にアメリカ艦隊に宣戦布告。戦いは一進一退の攻防を続け、1805年6月、ついにトリポリ総督が敗北を受け入れるまで続きました。

 ちなみに、圧倒的劣勢を跳ね返してバルバリア海賊の根拠地であるトリポリの要塞を陥落させ、アメリカを勝利に導いたダーネの戦いは、アメリカ海兵隊が初めての海外派遣で収めた勝利として名を残し、現在でも歌い継がれる海兵隊賛歌には、「モンテズマの間からトリポリの海岸まで」という一節がうたわれています。

 話を元に戻すと、アメリカとの海戦に敗れたカラマンリー朝は、以後地中海の覇権を失い、地中海貿易の通行料収入で生計を立てていくことができなくなりました。そこで1811年、内陸貿易に目を向けたカラマンリー朝は内陸のフェザーン首長国を支配下におさめ、サハラ交易を牛耳るようになります。

 さて、19世紀になると西欧の列強がアフリカに進出してきます。1830年には隣のアルジェリアがフランスの侵攻を受け、植民地化します。これに危機感を覚えたオスマントルコ帝国は、1835年、トリポリに派兵して半独立状態であったカラマンリー朝を打倒して、再び直接統治をおこなうようになります。

 20世紀にはいるとリビアはイタリアの攻撃を受けます。1911年に始まったイタリア・トルコ戦争はイタリアの完全勝利に終わり、トルコ側はトリポリ、キレナイカおよびフェザーンの3州をリビア州として統治することになりました。ちなみに「リビア」は、ギリシャ神話の海神ポセイドンの妻の名前に由来しています。

 さて、イタリアのリビア侵攻には裏があって、実はイタリアが権益を持っていたのはお隣のチュニジアで、リビアには全然興味がなかったのですが、フランスから「チュニジアの代わりにトリポリはいかがですか?」という提案があったのです。そのフランスはキプロスに進出したかったイギリスから「キプロスをくれるならモロッコとチュニジアをどうぞ」という提案を受けていたのです。なんだか大国同士の物々交換みたいですが、勝手に交換されたほうはたまったものではありませんね。結局1902年、イタリアとフランスの間で「トリポリタニアとチュニジアに関する協力協定」が交わされ、イタリアによるリビア支配の糸口となったのです。

 ところがイタリアによるリビア平定は簡単ではありませんでした。植民地化した後に入植したイタリア人に対する抵抗運動はすさまじく、特に内陸のフェザーンではベルベル人や、イスラム神秘主義に属するサヌーシ―教団のしぶとい武装闘争に悩まされ、イタリアがリビア全土を平定したのが1932年。植民地化してから、実に20年以上を費やす結果となりました。

3.カダフィー大佐はどんな人?

 第二次世界大戦でイタリアが負けると、リビアはしばらく英仏の共同統治領となり、国連決議で1951年にリビア連合王国として独立。トリポリタニア、フェザーン、キレナイカの3州のうち、キレナイカのイドリース1世が国王となりましたが、1963年に3州が統合され、国名もリビア国となりました。

 そして1969年のクーデターで国王を追放して共和国を樹立したのがムアンマル・カダフィ大佐でした。以後、2011年に至るまで、リビアはこのカダフィー大佐の下で様々な闘争を展開することになります。ところで、カダフィー大佐は実質上リビアの元首でしたが、日本では2011年まで「大佐」の称号で呼んでいました。それは彼が敬愛するエジプトのナセル大統領のニックネームが大佐であったからという説や、クーデターを起こした当時の軍事階級を慣習的に使ってきたという説など様々ですが、なぜ国家元首とか大統領とかいう呼び方ができなかったのかというと、リビアは、国会議員などを介さない、「直接民主主義(ジャマーヒリーヤ)」を掲げているため、政府や国家元首は存在しなかったためです。

 さて、カダフィー大佐は1969年以降エジプトのナセル大統領が掲げたパン・アラブ主義、パン・アフリカ主義に心酔して、イスラム教をベースとする社会主義国家の建設を目指します。反米、反英を掲げるリビアはソ連の支援を受け、特に1980年代、数々の国際テロ活動を支援するという、筋金入りのテロ支援国家⋆となったのです。特に国際テロ組織アブ・ニダルなどへの協力は1985年に起こったイタリア客船ハイジャック事件や、翌86年のウィーン空港およびローマ空港の爆破事件、同年の西ベルリンのディスコ爆破事件の陰の主役であるリビアの存在を際立たせ、1985年にリビアは経済制裁を受け、86年にはアメリカ空軍による空爆(リビア爆撃)を受けるに至りました。その報復としてリビアは1988年、パンナム航空爆破事件を引き起こし、世界の厄介者としての地位を不動のものとしました。

 リビアは南の隣国チャドにもちょっかいを出します。1960年に独立したチャドは、南部のキリスト教住民地区と北部のイスラム教住民地区とに分かれていましたが、キリスト教重視の政策に対するイスラム勢力が1965年に蜂起して内戦状態に陥って以来、リビアは北部イスラム教徒の反政府勢力に軍事支援を続けていました。内戦は1983年に再燃。フランスの介入を招き、リビアの支援する反政府勢力は弱体化。リビアも1987年に停戦に合意。撤退を余儀なくされました。

 実は、この内戦の最終局面に政府軍、反政府軍双方が多用した車がトヨタのランドクルーザーの改造車だったため、1987年のこの紛争のことを「トヨタ戦争」と呼んだりします。トヨタ自動車にとっては、あまり嬉しくはないことでしょうが。

 さて、このチャド内戦でリビア軍が受けた損害は甚大で、一説によれば7,500名の死者と15億ドルの戦費が失われたといわれます。この敗戦の影響からか、リビアは国際的にもおとなしくなり、2001年のアメリカ同時多発テロ以降はアメリカと協調路線をとったり、核開発の放棄を宣言したりして、2006年にはアメリカのテロ支援国家リストから除外されることとなりました。

4.ジャスミンに負けたカダフィー大佐

 2010年、思わぬ事態がリビアの内戦につながります。隣国チュニジアで起きた「ジャスミン革命」と呼ばれる民主化運動です。若年人口の増大の結果、若年層で30%もの失業率を抱えていたチュニジアでは、その不満が1987年から長期政権を担うベン・アリー大統領に向けられました。反政府抗議を行って来た一人の青年の焼身自殺をきっかけに反政府デモは全国に拡大。最終的には軍も巻き込んでベン・アリー大統領を国外追放することに成功した民主化運動は、チュニジアを代表する花をもじって「ジャスミン革命」と呼ばれ、他のアラブ諸国に影響を与えましたが、その影響をまともに受けたのがリビアでした。

 2011年、チュニジアと同じく長期政権を担ってきたカダフィー大佐に反対する勢力が集まってリビア国民評議会を結成して、リビアは内戦に突入するのです。緒戦はカダフィー大佐側が優勢で、反政府勢力が結集するベンガジを攻略する寸前まで行きましたが、ここで助け舟を出したのがNATOを中心とする西側勢力でした。結局、強力な支援を受けたリビア国民評議会側は政府軍をトリポリに追い詰め、カダフィー大佐は民兵に嬲り殺される形で42年にわたるリビア統治を終了します。

5.カダフィー以降のリビアはどうなりましたか?

 簡単に言うと無政府状態になり、その状態が2020年現在でも続いています。2011年の内戦で勝利したリビア国民評議会は、60年ぶりで行われた民主選挙で新しい政権が誕生する予定でしたが、首相候補がなかなか決まらず、結局2012年にアリー・ゼイダーン内閣が組閣しましたが、その直後からイスラム武装組織の活動が活発化して2014年、リビアは再び内戦に突入します。この中で政府勢力は力を失って、リビアは民主的に選出されたリビア制憲議会のほかにイスラム系勢力がトブルクに集結してリビア代表議会の樹立を宣言するなどして国家が二分。実質的な無政府状態になってしまいました。この政治的空白を利用して「イスラム国」の勢力がリビア国内に拠点を構えて、一時的に勢力を拡大するなどしました。

 2015年には国連主導の和平策で制憲議会側と代表議会勢力双方の歩み寄りがあり、リビア統一政権の樹立で同意。シラージュが国民統一政府の首相として選出されましたが、2016年にはそれを代表議会側が拒否。組閣ができない状態が続きました。2019年にはリビア国民軍を率いるハフタル総司令官がトリポリの国民統一政府に武力攻撃を仕掛けるなどして、2020年現在でも依然混とんとした政治状況が続いています。

 リビアはアフリカ最大、世界第9位の原油埋蔵量を誇る産油国ですが、長引く内戦の影響で日量300万バレルを誇った産油量も、2019年現在では最盛期の15%程度にまで落ち込んでしまいました。国家の安定化が待たれます。


*テロ支援国家

アメリカの国務省が1979年以来作成するリストで、79年に発表されたリストでは、リビア、イラク、南イエメンの3か国が指定された。

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