リオ・デ・ラ・プラタ副王領グループ

アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ

世界最南端の港町ウシュアイア cc Jerzy Strzelecki

リオ・デ・ラ・プラタ副王領グループ

リオ・デ・ラ・プラタ副王領からは、現在のアルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイの三カ国が独立するわけですが、それぞれの性格を一言で言うと、海への出口が無いパラグアイの苦悩、ブラジルとアルゼンチンの緩衝地帯という歴史を背負って、なかなか国内が安定しなかったウルグアイと比較して、安定期が長く続いたアルゼンチンという分類が可能です。

さて、他のスペイン植民地と違って、この地域は天然資源も乏しく、人口も希薄だったため、当初、スペインによる積極的な植民地化は遅れました。順番で言うと、ポトシ銀山が発見されたペルー・ボリビアに対する副王領の建設が1543年と一番早く、次いで1718年のヌエバ・グラナダ副王領(現在のコロンビア、ベネズエラ、エクアドル)、そして、それから約60年経った1776年に、やっとリオ・デ・ラ・プラタ副王領が設置されることになるわけです。

植民地化が遅れたもう一つの理由は、原住民のインディオの勢力が強かったことも挙げられます。1516年、現在のアルゼンチンとウルグアイに挟まれ、パラグアイの高地に至るラ・プラタ川を、最初に探検したスペイン人ソリス以来、現地にスペインの拠点を作ろうとする試みは続けられたのですが、それらは原住民のインディオによってことごとく失敗。拠点らしき拠点が出来たのも、1580年と、ずいぶん後になってからのことでした。

ということで、18世紀まで、この地域は、どちらかといえば、すでに鉱山開発などで潤っていたペルーやチリの辺境地という位置付けだったのです。

ところが、港町ブエノス・アイレスの建設によって、スペイン植民地の対外貿易の拠点がアルゼンチンに出来た頃から、ペルー、チリへの中継点としてのパラグアイ、ボリビアへの認識が高まってきたのです。

ということで、1776年、現在のアルゼンチン、パラグアイ、ボリビア、ウルグアイの四カ国(ボリビアはこの時点でペルー副王領を離脱))を管理するリオ・デ・ラ・プラタ副王領が建設されました。

このように、植民地化に時間のかかったこの地域は、崩壊も早く、1810年には早くもブエノス・アイレス市が自治政府宣言を出し、本国からの独立を模索します。

アルゼンチンの独立には、英雄サン・マルティン将軍が深く関わります。スペイン人の士官を父に持つサン・マルティン将軍は、若くしてスペインに渡り、スペイン軍の兵士として頭角をあらわします。特にフランス軍との戦いで功績をおさめたサン・マルティンは、スペイン軍の師団長にまで昇進しますが、1810年のブエノス・アイレスの独立宣言を聞きつけた彼は、翌年スペインを去って、アルゼンチン独立軍に参加します。

サン・マルティン将軍は、まずアルゼンチン周辺国の解放を目指します。1818年にはチリの独立を決定付ける戦闘に勝利。1821年にはペルーを攻略して、その独立に寄与します。さて、次はボリビアの解放を、というところで、当時ベネズエラとコロンビアの解放を達成していたシモン・ボリバルに協力の要請をしたのですが、彼の非協力的な態度に失望したサン・マルティン将軍は、1824年、アルゼンチンを後にし、二度と南米の土を踏むことはありませんでした。

さて、サン・マルティン将軍が、周辺諸国の独立に向けて戦っている頃、アルゼンチンと、パラグアイ、ウルグアイの間では、誰が主導権を取るかで、醜い内部抗争が続いていました。リオ・デ・ラ・プラタ副王領の時代は、対外貿易の拠点であるブエノス・アイレス港が、まさに「一人がち」していた状況で、内陸部のパラグアイや、大西洋に面していながら同様の港を持ち得なかったウルグアイなどは、アルゼンチンに対抗心を燃やしていたのです。

これが原因で、1810年にアルゼンチンが独立宣言を行い、ブエノス・アイレスを中心とする中央政府を築こうとしたときに、真っ先に反対したのがウルグアイとパラグアイだったのです。目の仇にしていたブエノス・アイレスに権力を握られてたまるものか、自分たちは連邦制で、自主独立でやって行くぞ、というわけです。

結果として、1811年にアルゼンチンとウルグアイ、パラグアイとの間で紛争が起き、中央政府の実現は水の泡となってしまいました。以後、アルゼンチンと、ウルグアイ、パラグアイは、それぞれ独立した国家として、別々の道を歩むことになります。以下で個別にみていきましょう。