ラオス人民民主共和国
出典:外務省HP
1.ラオスというのはどんな国ですか?
ラオスは、インドシナ半島の中央で、ベトナム、カンボジア、タイ、ミャンマーそして中国の5カ国に囲まれた国です。まわりを囲まれているというのは、実に居心地が悪いことに違いありません。どこに行くにしても他人の敷居をまたがなければいけませんし、また、まわりを囲む5カ国にとっては、ラオスを通過すると、最短距離でお互いに行き来ができるわけですから、いきおい戦争のときには真っ先にラオスを陥落させることを考えそうです。一方、平和のときには、メコン川を通してある程度の交易は可能であったでしょう。実際、海上交通が未発達の時代には、重要な交易中継国としての地位を確立したラオスでしたが、ベトナム、カンボジア、タイ、ミャンマー、中国ともに海に面しているため、航海技術が向上して交易が海上主体となると、わざわざラオスの山岳地帯を通って大規模な交易を行なう人もなくなりました。つまり、ラオスは侵略の対象ではあっても、通商の要にはなり得なかったのです。
1991年に制定された憲法の前文には、「ラオスの国土は、絶えず外部勢力の脅威にさらされ、侵略されてきた」というくだりがありますが、実際、14世紀に初めての統一王朝ができてから75年に新生ラオス人民民主共和国が成立するまで、ラオスは侵略と内乱の歴史に彩られてきたといっても過言ではありません。
2.ラオス建国の歴史
現在のラオスの基になったのは1353年に建国されたランサン王国と呼ばれる統一王朝です。一時は領土がタイの東北部、現在のチェンマイに達する強国でしたが、16世紀半ばに再三にわたるビルマの攻撃を受けタイの東北部からの撤退を余儀なくされます。しかし、17世紀に東南アジア一帯が「商業の時代」と呼ばれる経済発展の時期に入ると、ラオスは中継貿易の中心地として黄金時代を迎えます。現地を訪れたオランダ東インド会社の職員も、メコン川を使った交易の中継地として栄えた首都ビエンチャンを「富と栄華に満ちた都」とたたえるほどでした。しかしながら1694年、半世紀以上の長い間ラオスの黄金時代をリードしたスリニャウォンサー王が後継者をつくらずに他界した後、悲劇が訪れます。
世の中、金回りの良いときには、我こそが後継者という人がたくさん出てくるものでして、ラオスの場合も例にもれず後継者争いで3王国に分裂してしまいます。小国化して力の弱まったこれらの王国はベトナム、タイ、ビルマという周辺諸国の影響を強く受けるようになり、18世紀後半には3王国がシャム(タイ)の属国となり、また19世紀にはラオス北部がベトナムの領土となってしまいました。以後、ラオスは、シャムとベトナム双方に板ばさみになりながら、双方へ朝貢しつつ、なんとか国としての体裁を整えていかざるを得ませんでした。
3.フランス領インドシナへの編入
悲劇はそれだけで終わりませんでした。19世紀半ばにベトナムとカンボジアの植民地化を開始したフランスは、次第にラオスの戦略的位置に着目するようになり、当時ベトナムの一部として編入されていたシエンクアン地方を拠点としてラオス支配に乗り出します。1886年、フランスはシャムに圧力をかけてラオスにフランス副領事館を設置。93年には、軍艦をバンコクに送って軍事的圧力をかける中で、メコン川左岸(下流に向かって左の岸)のラオス領土をフランス領として受け渡すことをシャムに認めさせます。こうして1899年、ラオスはフランス領インドシナに編入され、苦悩の日々を送ることになるのです。
一言でいうと、フランスの植民地政策は、余りにも無茶でした。フランスは基本的にラオスを経済発展の見こみのない内陸地として扱ったために、道路や鉄道などの整備をまったく行なわず、さらに統治に関してはベトナム人の官吏を多用し、ラオス人に対する教育は意図的に行ないませんでした。また、フランス当局に対してラオス人が一致団結して反乱を起こすことのないように、ラオス内の諸民族を互いに敵対させる政策をとったり、その一方で、植民地を支えるために高い税金だけは無理にでもとったものですから、非常にウケが悪く、各地で反乱が起こります。1901年から35年間続いたカー族の反乱などはその最たるものです。
4.第二次世界大戦後のラオスの状況を教えてください
第二次世界大戦でフランス領インドシナに進入した日本は、数年間現地を統治しますが、敗戦直前の1945年4月、日本軍の後押しで、ラオスは独立宣言を行ないます。旧日本軍の偉かったところは、ビルマでも、インドネシアでも、マレーシアでも、東南アジア諸国を占領したときには、「戦争中は取り合えず軍政を布くが、戦後の独立は支援する」と公言し、なおかつ、それを本当に成し遂げてから帰ってきた。つまり、体裁を取り繕って、それでおしまいということは絶対なかったというところでしょう。ラオスの独立も、日本軍のこうした支援に後押しされていたわけです。
さて、日本敗戦直後の45年10月、ラオ・イッサラ(自由ラオス)という政治結社が中心となってラオス臨時政府がビエンチャンに出来ますが、植民地復活をもくろむフランスがこれを黙ってみているわけがありません。フランス軍の攻撃を受けた臨時政府の中心人物は翌年タイに亡命することになりますが、このときに亡命した人たちの中から、新生ラオスの中心人物であるプーマとスパヌウォン両氏が輩出することになるのです。
さて、フランス軍に対してまったく対抗手段のなかったラオスは完全独立をあきらめ、46年の協定によって立憲王国となり、49年にはフランス連合の共同国としてフランスの強い影響のもとで「独立」することになりましたが、これを良しとする者と、良しとしない者とが自由ラオスのメンバーに出てきます。前述のプーマという人は、半独立でも仕方ないということでラオスに戻って王国政府の閣僚となりますが、スパヌウォンという人はあくまでもフランス勢力の撤退にこだわり、50年、ネオ・ラオ・イッサラ(ネオ自由ラオス戦線。後のラオス愛国戦線)を結成。共産主義の影響を受けた自前の戦闘部隊(パテト・ラオ)を率いて反仏抗争を開始します。結局、ベトナムにおける独立勢力の鎮圧に手間取ったフランスは、ベトナム戦に集中するために53年にラオスと友好連合条約を結び、その完全独立を承認することになります。
翌54年、ベトナムのディエンビエンフーでベトナム軍に大敗を喫したフランス軍は、インドシナから撤退するわけですが、さてこれからが大変でした。同年のジュネーブ協定で、パテト・ラオはラオス北部の2省を与えられましたが、スパヌウォン率いるパテト・ラオは、自分たちが戦ってラオスを解放したといきまいているわけですから、当然王国政府と対立することになります。そして、この時期インドシナ地域に介入し始めたアメリカの思惑が、国内の政治情勢を一層不安定なものにします。
5.ラオス内戦のいきさつを教えてください
アメリカのねらいは単純で、「フランスが撤退した同地域を共産化しない」ということですから、共産主義勢力のパテト・ラオに対抗するために、手っ取り早く王国政府を承認して軍事援助を始めます。その一方で、1956年に発足した王国政府のプーマ内閣は、パテト・ラオのスパヌウォン氏、つまり昔の戦友との和平交渉に取り組み、57年末に両者の合意で連合政府が成立するのですが、これを共産化の一歩と捉えたアメリカは翌年介入。プイ・サナニコーン内閣というアメリカの傀儡政権をつくってパテト・ラオのメンバーを粛清したため、ラオスは内戦に突入してしまいます。
この内戦は折からのベトナム戦争の影響を受けて長期化しますが、基本的に、60年にクーデターを起こしてプーマ内閣を復活させたコン・レ大尉一派(中立派)と、アメリカの支援を受けてこれを打破したノーサワン将軍派(右派)、そして北部の本拠地を構えるパテト・ラオ(左派)という三つの派がにらみ合っていたという格好です。62年には国際的な働きかけもあって、これら三派が停戦に応じて第二次の連合政府ができましたが、これもわずか10か月で崩壊。以後、これら三派がくっついたり離れたりして、なかなか内戦が終結しなかったのですが、お隣のベトナムでもカンボジアでも負けず劣らず陰惨な戦争が続いていたため、国際社会もこれを無視できず、次第にこの地域全般の和平に向けた話し合いがもたれるようになりました。ラオスでも72年に和平会談が開かれ、その結果74年に第三次連合政府が発足します。
当時は、ベトナム、カンボジアともに左派の解放勢力がアメリカを中心とする右派勢力に打ち勝って盛りあがっており、それに気を良くした左派のパテト・ラオも、一気にラオス全土をほぼ手中に収めてしまいます。そして75年12月、ラオスは王政を停止し、新しくパテト・ラオ代表のスパヌウォン氏を大統領とするラオス人民民主共和国として産声をあげたわけです。
ラオスの偉いところは、この政権交代で一滴の血も流さなかったところです。国王は大統領顧問、プーマ首相は政府顧問としてそれぞれ登用され、以後は非常に安定した政権が続いています。86年には経済開放、刷新路線が打ち出され、5万人いたとされるベトナム軍も87年から88年までに撤退を完了。91年には新憲法が制定され、マルクス=レーニン主義を掲げるラオス人民革命党による一党独裁の社会主義国として再出発しています。
経済面では1986年に「新経済メカニズム」と呼ばれる経済改革を開始して、市場開放政策を推進しています。2006年には後発開発国の範疇からの脱却を目指す経済背目標が掲げられましたが、未だ達成には至っていません。
国土の4割が森林、国民の9割が農民。輸出するものはチーク材と電力だけというこの国を発展させていくためにはかなりの労力が必要ですが、自らの手で平和と安定を勝ち得たということは誇って良いと思います。あせらずに、ゆっくりと国づくりに励んでもらいたいものです。