ヨルダン・ハシミテ王国

出典:外務省HP 

1.ヨルダンの歴史を手短に教えて下さい。

 ヨルダンの歴史は、実はイギリスが作ったのです、というと怒られるかもしれませんが、第一次世界大戦でオスマントルコを退けたイギリスが、イラクとパレスチナの土地を委任統治領とした際、その中間にトランス・ヨルダン首長国を建設したことが、ヨルダンの起源なのです。それ以前は、国境も、母体となる定住者もあまりいませんでしたし、歴史的に見ても、紀元前にナバティア人がペトラを首都として栄えたことが有名なぐらいで、実際、1923年にトランス・ヨルダン首長国が成立したときも、人口のほぼ半分が遊牧民で、産業も無く、イギリスの援助でかろうじて成り立っていた国でした。

 さて、第二次世界大戦後の1946年にイギリスから独立したヨルダンですが、その2年後の48年にイスラエルが建国します。ヨルダンを含む周辺アラブ諸国はイスラエルの建国を撤回しようと総攻撃を仕掛けますが、その際、ヨルダンもヨルダン川西岸地区に進行してこれを併合。1949年にヨルダン・ハシミテ王国と改称して現在にいたっています。

 53年には、第三代の国王としてフセイン前国王が即位しますが、ヨルダンの国の体裁は、先見の明と冷静な決断力の備わった彼のもとで整ったといっても過言ではありません。フセイン国王は、当時吹き荒れていたアラブ民族主義の嵐に巻き込まれること無く、イギリス及びアメリカと良好な関係を保ち続け、ヨルダンを、中東でも珍しい穏健な国に仕立て上げていったのです。

 さて、ヨルダン川西岸の併合によってヨルダンの人口は43万人から128万人と急に3倍に膨れ上がったわけですが、そのほとんどがパレスチナ人でした。これらパレスチナ人の流入によって、産業が活性化し、ヨルダンでは真の意味での経済活動が動き出します。また難民の持ち込んだ資金と技術力によって、以後のヨルダン経済の基礎が固められることになりました。現在でも、ヨルダンの経済活動の重要な部分は、ほとんどパレスチナ人で占められていて、もとから住んでいたヨルダン人の人口も少なく、人口と経済活動の両面からヨルダン人とパレスチナ人の逆転現象が起きているという、実に不思議な国です。

 普通、こういった場合、パレスチナ人の要求が高まって、政情不安になってもおかしくありません。実際67年に起こった第三次中東戦争でヨルダン川西岸地区と東エルサレムをイスラエルに占領されたヨルダンは、大量のパレスチナ難民を受け入れざるを得ず、それ以降はパレスチナゲリラがヨルダンを基地に対イスラエル攻撃を開始するなど、政情不安が続いたのですが、フセイン国王はここでパレスチナゲリラの取り締まりを行うという一大決心をします。取り締まりといっても、飲酒運転一掃のための年末一斉取り締まりとは訳が違います。先方は武装集団ですから、当然武力衝突になりますし、アラブの国でありながらパレスチナの武装勢力を取り締まると言う事は、周辺アラブ諸国との関係も悪化しますし、なんといってもパレスチナ人のほうが多いのですから、下手をすると自分の首が危ない状況です。しかしフセイン国王は断固として武装勢力を追放すべく、戦ったのです。70年に起こったこの内戦は「黒い9月」事件と呼ばれ、ヨルダンがヨルダンとして成立するか否かの、試金石のような事件でした。これによってパレスチナの武装組織PLOはレバノンに追放され、ヨルダンの政治的安定が保たれることになります。
 ヨルダンはその後、単独でイスラエルが占領するヨルダン川西岸地区との連合王国構想を打ち立てますが、1988年にヨルダン川西岸の統治権を一切放棄して、以後はイスラエルとの和平路線を歩み続けました。その結果、94年にラビン・イスラエル首相と平和条約に調印。エジプトに次ぎ、アラブ諸国で二番目の対イスラエル平和条約締結国になりました。

 激動の中を生き抜いたフセイン国王は、99年に死去。代わって長男のアブドラ皇太子が国王に即位しています。即位当時まだ30代だったこのアブドラ国王も、フセイン国王同様に非常に国民の人気が高く、時々庶民の生活を見る為に変装して街に出かけるそうです。まるで、ヨルダンの黄門様ですね。

2.今後、気にかかる問題はありますか?

 ヨルダン経済の今後が心配です。もともとが遊牧民の国家だったヨルダンでは、産業が乏しく、現在でもリン鉱業など、一部の産業を除くとほとんど産業が無いといっても良いくらいです。ヨルダン川西岸を併合したときは一時的に、パレスチナ人の流入で潤ったヨルダンでしたが、67年の第三次中東戦争で西岸地区を失い、代わりに多数のパレスチナ難民を受け入れたヨルダンの経済は急速に失速します。ヨルダン国内で職が見つからないパレスチナ人は、その後出稼ぎ労働者として湾岸産油国に散らばっていきました。70年代後半から80年代にかけてのオイルブームにのって、これら出稼ぎ労働者は富を蓄え、彼らの本国送金がヨルダン経済の安定を支えるという図式が確立しますが、その図式も湾岸戦争の勃発によって崩されてしまいます。

 クウェートに侵攻したイラクのサダムフセイン大統領を、なんとPLOのアラファト議長が支持してしまったのです。結果、湾岸産油国で働いていたパレスチナ人労働者は、「敵対者」として締め出されてしまいました。その上、国連の対イラク経済制裁により、ヨルダンとイラクを結ぶ経済ルートが機能を停止した時期が長く続き、ヨルダンにとってはダブルパンチの状態でした。

 結局、湾岸諸国から締め出しを食らったパレスチナ人はヨルダンに帰り、貯めたお金で家を建てて住み始めたので、湾岸戦争が終わって5、6年は建設ラッシュで景気が良かったのですが、現在ではその景気も冷え込み、再び経済は停滞しています。建国当初から、対外の経済援助に強く依存する経済体質は変わっておらず、長期的にも経済運営が苦しいことには変わりありません。

 1990年以降IMFと共同で経済構造改革を推進したり、2001年にはアメリカと自由貿易協定が締結されたり、外資の受け皿としてアカバ港にアカバ経済特区(ASEZA)を作ったりして経済の発展に努力を続けていますが、2011年のシリア内戦で発生した65万人以上の難民を受け入れたことによる財政負担により、再びヨルダン経済は疲弊しています。

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