モーリタニア・イスラム共和国
出典:外務省HP
1.モーリタニアの歴史を教えてください。
4世紀頃からガーナ王国の一部として農耕、牧畜、漁業が栄えたモーリタニアは、サハラ砂漠の南西辺部に位置し、内陸の高原部にはオアシスが点在するため、特に11世紀以降、アラブ商人とのサハラ縦断交易が盛んに行われました。このため、住民は次第にアラブ化、イスラム化して、特に北部ではアラブ人との混血も進み、ムーア人と呼ばれる混血人種が形成されるようになりました。言語的にも、アラブ系のベニ・ハッサン部族の言葉が13世紀頃に普及して、現在ではモーリタニアでもっとも広く使用される「ハッサニーヤ」と呼ばれる言語となりました。
一方、南部には黒人系の部族が定住し、国土はムーア人の北部、黒人系諸部族の南部という具合に二分されています。宗教的には、11世紀頃からイスラム化され、以来国民のほとんどがイスラム教を信仰し、イスラム教は国教となっています。
さて、15世紀に入ると他のアフリカ西部沿岸国と同様、西アフリカはポルトガルなど西欧諸国の奴隷貿易の餌食になります。19世紀になるとイギリスとフランスの植民地抗争に巻き込まれますが、1904年にはフランス領西アフリカとして部分的に植民地化。1933年にはモーリタニア全土が武力平定され、セネガルに置かれたフランス総督府によって一括統治されることになりました。
モーリタニアでは1950年代に独立運動が活発化したため、フランス政府は58年、モーリタニアをフランス共同体内の自治共和国として承認。60年には独立を承認することになりますが、親フランス政策を貫くダッダ初代大統領のもと、モーリタニアでは78年に至るまで長期安定政権が続きました。
2.西サハラ問題とは?
しかしながら、欲を出して西サハラを巡る抗争に介入してしまったのが運の尽きです。スペインは、1934年に獲得したスペイン領サハラ(西サハラ)の領有権を76年に放棄することにしましたが、その後の西サハラの扱いについて、モーリタニアとモロッコは西サハラを南北に二分して、自国の領土に取り入れるという秘密協定を75年に結び、スペインの承諾を得ていました。しかしながら76年にスペインが撤退してモロッコ、モーリタニア両国に併合されると、西サハラ内の独立派が蜂起。彼らはポリサリオ戦線という武装組織を作り、「サハラ・アラブ民主共和国(SADR)」の独立を宣言して抵抗運動を繰り広げます。これをアルジェリアとリビアが支援したため、紛争が長期化しました。
ポリサリオ戦線は独立をかけた紛争でよく戦い、モーリタニアに対しては、重要な産業である鉄鉱山の施設などに対するゲリラ攻撃を続けました。結果、戦費がかさんで財政が悪化したモーリタニアでは、社会不安の隙をついて78年に軍事クーデターが起こり、ダッダ大統領が失脚。軍政が敷かれることになります。79年に実権を握ったハイダラ首相は、同年ポリサリオ戦線と交渉して、西サハラ南部の領有権を放棄。84年には「サハラ・アラブ民主共和国(SADR)」の独立を承認するなど、前政権とは正反対の政策をとりましたが、ハイダラ政権下で3回のクーデター未遂事件が起きるなど、内政の不安は深刻でした。
結局84年、四度目のクーデターで失脚したハイダラ政権を受け継いだタヤ政権のもとでモーリタニアは民主化の道のりを歩み始めます。91年には結党の自由などを定めた新憲法を制定。92年には大統領選挙および議会選挙が実施され、78年以来続いた軍政に幕が引かれました。
2005年、タヤ大統領不在時に軍部が政権を掌握。民政移管の公約を実行して、翌2006年に憲法改正国民投票、年末から2007年1月にかけて国民議会、地方議会選挙、上院議会の選挙が矢継ぎ早に実施され、2007年3月の大統領選挙でシディ・アブダライ新大統領が選出されました。
しかしながら、この民政化は長く続かず、アブダライ政権は2008年8月のクーデターにより失脚。アブドゥルアズィーズ政権、ガズワニ政権(2019~)に受け継がれて現在に至っています。
モーリタニアは89年にアラブ・マグレブ連合に加盟。イスラム諸国との協調関係を強化する一方で99年にイスラエルとの外交関係を樹立するなどして中立姿勢を外交の基本にしていましたが、2008年のイスラエルによるガザ進攻に反対して、2009年に再びイスラエルとの外交関係を断絶しています。
経済面では、2000年末にECOWAS(西アフリカ諸国経済共同体)から脱退しますが、世銀・IMF主導による構造調整計画を受け入れ、重債務貧困国(HIPC)イニシアティブを進めるなど、対外債務の低減に努めています。