モンゴル国
出典:外務省HP
1.モンゴルという国は、いつできたのですか?
モンゴルはかつて、かのジンギスカンとその子孫によって、ユーラシア大陸に一大帝国をつくった国です。13世紀には中国に元朝を興して、日本にも2回侵攻してきましたが(元寇)、いずれも「神風」のおかげで失敗したことはご存じの通り。ちなみに、元はベトナムやビルマにも侵攻しましたが、いずれも失敗に終わっています。また、モンゴルの人々は元来遊牧民族で、定住に慣れなかったせいか、以後元朝の勢力は次第に衰え、明、清の時代には直接、間接に中国の支配下に入ることになります。
さて、地図を見るとおわかりのように、北は旧ソ連、南は中国に挟まれた、いわば「ドラ焼きの中のあんこ」がモンゴルです。国外に行くには、中国か、旧ソ連かのどちらかを通らなければなりません。モンゴルの現代史は、このような地理上の制約によって培われたといっても過言ではないでしょう。実際20世紀の初頭には、この「ドラ焼きのあんこ」を、どちらが取るかで、中国とソ連が暗躍することになるのです。
さて、中国(清朝)の支配下にあったモンゴルは、1911年に中国で起こった辛亥革命*の混乱に乗じ、ロシアの協力で清朝から分離します。その後しばらくの間、立憲君主制の下でボグド・ハーン政権が自治を行ないましたが、頼みの綱のロシアが1917年の革命でつぶれると、1919年、再び中国軍閥の支配下に組み込まれてしまいます。
共産革命を成し遂げて間もないソ連はそれを知り、モンゴルに手を差し伸べます。モンゴルが中国の一部になるということは、ソ連が中国と直接国境を接するということになり、都合が悪かったのです。中国にニラミを利かせ、なおかつ直接の紛争を避けるためには、緩衝地帯としてのモンゴルが必要だったというわけです。
独立の英雄スフバートルやチョイバルサンなどの民族主義者達は、こうしたソ連の軍事協力を得て中国勢力を駆逐。モンゴルは、1921年7月11日、念願の独立を達成します。当初、皇帝ジェブツンダム・ホトクトの下で立憲君主制をしいていたモンゴルでしたが、24年、皇帝の死去に際し、国名を「モンゴル人民共和国」に変更。以後、ソ連の強い影響の下、社会主義国家の建設に取り組んでいくことになります。ちなみに、モンゴルは、ソ連以外で社会主義を受け入れた、最初の国でした。
2.「内モンゴル」と「外モンゴル」の違いは?
さて、世界地図には、「モンゴル」という名前が付いた地域がもう一箇所あります。1947年に中国で最初の少数民族自治区として設立された「内モンゴル自治区」です。この内モンゴルは、1911年、いわゆる「外モンゴル」(現在のモンゴル)が清朝から分離した際、中国側に残った人々が中心となって構成されています。
内モンゴル自治区では、中国の漢化政策が行なわれてきており、現在モンゴル族が占める割合は、全体の16%(約338万人)に過ぎません。また、新彊ウイグル自治区には「バインゴル・モンゴル自治州」「ボルタラ・モンゴル自治州」および「ホボクサイル・モンゴル自治県」があり、それぞれにモンゴル族が散在しています。
総じて、中国内のモンゴル族人口は、約480万人と言われていますが、モンゴル本国の人口が250万ほどですから、モンゴルの内と外で、モンゴル族人口の逆転現象が起こっているわけです。これら、中国国内のモンゴル族を含めた、全モンゴル民族の再統合を目指す動きを汎モンゴル主義と言います。
実際に1949年に中国の内蒙古自治区に編入されるまでは反モンゴル主義の活動は積極的に行われており、第二次世界大戦後、日本軍が満州国から撤退した後、一時的に内モンゴル人民共和国などの「独立国」が成立したこともありました。
しかしながら、そのような反モンゴル主義の動きは1966年、鄧小平政権によって徹底的に弾圧され、これによって数十万人が粛清されたという報告があります。1989年の天安門事件後、内モンゴルの独立運動は海外で活発になり、1997年には「内モンゴル人民党」がアメリカで、2006年にはモンゴル自由連盟党が日本で設立されました。
3.ソ連崩壊後、モンゴルはどうなったのですか?
さて、話を「外モンゴル」に移しましょう。1921年に独立を達成したモンゴルは、以後、徹底したソ連支配の下に置かれます。政治、経済はおろか、文化面でもソ連による強い統制がとられました。例えばモンゴルの民族主義を刺激するという懸念から、ジンギスカンの名前を公の場で出すことも、それにまつわる歴史研究や教育を行なうことも、独立以来固く禁じられていましたし、文字もモンゴル文字からロシアのキリル文字に切り替わり、現在ではモンゴル文字を読むことのできる人は非常に限られているといった状況です。
モンゴル人民共和国を独立国家として認めていたのは、第二次世界大戦以前はソ連だけでしたし、西側主要国が正式な国交を始め出すのが70年代に入ってから(日本との国交樹立は72年。ちなみにアメリカとの国交樹立は87年)ということからもわかるように、独立後のモンゴルは長い間、自他ともに認めるソ連の衛星国として、ソ連の強い影響下に置かれていたわけです。
そんな中、80年代末に東欧で起こった民主化の波がモンゴルにも押し寄せます。世界に先駆けて社会主義を受け入れたモンゴルではまた、社会主義からの脱皮も早く、91年にソ連が崩壊すると、翌92年には新憲法を制定し、国名を「モンゴル国」に変更。併せて民主主義による第1回選挙を行ないました。
選挙の結果、21年以来71年間単独政権を続けてきた人民革命党が、再び第一党になるわけですが、今までと違ったのは、副大統領の席に、民主派の社会民主党党首ゴンチグドルジ氏が選出されたことでした。それから4年間、モンゴルは、旧ソ連勢力の本国引き上げに伴う旧共産体制の整理と、新しい社会体制の確立に追われました。そして、96年、第2回目の総選挙が行なわれたのです。
96年は、世界的に重要な選挙が集中した年でしたが、これら数々の選挙の中で、モンゴルの選挙ほど劇的な結果はなかったでしょう。当初、楽勝を予想されていた人民革命党に対し、社会民主党、民族民主党その他による民主連合が予想を大幅に上回る大勝利を果たしたのです。92年の選挙では6議席しかとれなかった野党は、96年の選挙で76議席中50議席を獲得。絶対多数の3分の2議席には1議席の差で到達しませんでしたが、それでも楽々と与党の座についてしまいました。
8月中旬には組閣が行われ、首相には民主連合の立役者であるエンフサイファン氏が、実権を握る国会議長には前出のゴンチグドルジ氏が、それぞれ選出されました。新政権は13あった省庁を統廃合し9省に絞りこむという荒療治をやったり、自由市場経済の原理を積極的に導入したりして、徹底的な私有化、民営化を推し進めましたが、結局、経済インフラも、市場経済を理解できる人材も少なかったため、手探りで改革を推し進めざるを得ませんでした。
結果、公共料金の値上げ、福祉カットなど、さまざまな強行政策が裏目に出て、貧困層が膨らみ、その一部はウランバートル市街のストリート・チルドレンとなって社会問題化しました。いつまでたっても好転しない経済と、急速な自由化がもたらす社会のひずみは、次第に国民の不満となって積もっていきます。そんな中で97年に行なわれた大統領選挙では、96年の国会議員選挙で大敗した旧共産系の人民革命党が「弱者の救済」を掲げて大勝。新大統領にバガバンディー氏が選出されました。
エンフサイファン首相による急速な自由化に対する風当たりは、与党内でも強く、98年4月に、ついにエンフサイファン内閣は経済改革失敗の責任を負って総辞職。代わりにエルベグドルジ民族民主党党首が首相に就任しますが、国有銀行と民営銀行を強制的に合併させたことが与党内でも問題となり、3カ月で不信任となってしまいました。その後、首相任命が有力視されていた「モンゴル民主化の星」ゾリグ氏が暗殺されるという血なまぐさい事件をはさんで、98年年末に、ウランバートル市長のナランツァツラルト氏が新首相に任命されます。しかしながら、マカオとモンゴルの合弁で進められていた公営カジノの建設の是非をめぐって国会が紛糾し、その責任を取ってナランツァツラルト内閣が総辞職。現在は、もと外務大臣のアマルジャルガル氏が新首相に就任します。以後は、短期政権が入れ代わる不安定な政局が続いていますが、国家としての安定は保たれています。
このような内政のごたごたが続く中、モンゴルは積極的な外交を展開して、99年からはASEAN地域フォーラム(ARF)に正式参加。その一方で、旧ソ連時代以来関係が深かった北朝鮮に対し、日本との橋渡し役を買って出るなどしています。98年末には、モンゴル自身の提唱で「非核兵器国の地位」が国連で認められています。
モンゴルに対する経済支援に関しては、日本が支援額、内容ともにトップの実績を誇っています。ちなみに91年以来、毎年東京で開催されているモンゴル支援国会合は、日本の提唱で始められたものですが、特に、97年、日本・モンゴル国交25周年記念で来日したエンフサイファン首相と橋本首相(当時)が、「総合的パートナーシップ」を掲げて以来、毎年100億円から150億円の支援がモンゴルに対して行なわれており、その支援額は、モンゴルが諸外国から受ける支援額の半分近くを占めています。
*辛亥革命
清の崩壊と中華民国の成立につながった1911年の政変。1911年の干支が辛亥であったことからこの名前がつけられた。孫文の影響を受けた革命軍が武昌と漢陽を武力制圧して中華民国軍政府の成立を宣言。清は革命軍の鎮圧に失敗したため、残る15省の独立につながった。1911年12月29日に上海で孫文が中華民国大総統に選出された。一方で、清朝皇帝の溥儀が1912年に2月12日に退位して清朝は滅亡した。