モロッコ王国
出典:外務省HP
1.モロッコの歴史を教えてください。
モロッコは、ベルベル人の故郷です。古くは14世紀の旅行家イブン・バトゥータやイベリア半島を征服したターリク将軍(ジブラルタル:「ターリクの山」は彼の名前にちなんだもの)、身近な人ではフランスのサッカー代表ジダン、ベンゼマなどがベルベル人です。
古代、地中海に面したモロッコ沿岸部にはカルタゴから派遣されたフェニキア人が都市を築いて海上貿易の中継を行っていましたが、内陸部ではベルベル人の巨大王国「マウレタニア」が栄えていました。紀元前146年にカルタゴがローマとの戦いに敗れると(第三次ポエニ戦争)マウレタニアはローマの属国となりますが、8世紀にはアラブ勢力が北アフリカをイスラム化していきます。モロッコはイベリア半島進出への拠点となり、前述のベルベル人ターリク将軍はアラブ軍を率いて海峡を越え、イベリア半島アンダルシア地方の統一を成し遂げます。
11世紀に後ウマイヤ朝が弱体化するとモロッコは現在のセネガルを中心に拡大した勢力であるムラービト朝の領土となり、1070年にマラケシュを首都とします。1269年、マラケシュはマリーン朝によって滅ぼされ、首都はフェスに移転。マリーン朝はそこからイベリア半島に進出しますが15世紀後半にポルトガルの攻撃を受け衰退。1472年にはワッタース朝が興りますが、1492年にスペインがイベリア半島のアラブ勢力(ナスル朝)を滅ぼして失地回復(レコンキスタ)を完了すると勢力は縮小します。1550年にはフェスを中心にサアド朝が興り、オスマン帝国軍をせん滅したりポルトガル軍を撃破したり、西アフリカの強大なソンガイ帝国を滅ぼしたりして大きな成果を上げましたが、長続きせず、1659年に滅亡。 その後継者として現れたのが現在まで続く王朝であるアラウィー朝です。
アラウィー朝が頭角を現すのが1757年にムハンマド3世が即位してからです。1777年に独立を果たしたアメリカ合衆国を世界に先駆けて承認したのは、実は彼でした。ムハンマド3世はヨーロッパ諸国とも通商条約を次々に結んでいくなどして貿易による経済振興策を進め、1800年にはタンジェ港を開設。関税輸入はモロッコの財政を潤しました。ムハンマド3世の後継者のスライマーンは、開放政策とは真逆の鎖国政策を打ち出し、貿易の窓口をタンジェ港に限定する政策をとりましたが、時代は西欧列強の時代。モロッコが鎖国状態を維持することはかなり難しい状況でした。
2.列強の介入
列強の北アフリカ進出の火ぶたを切ったのがフランスでした。フランスは1830年にアルジェリアを征服して植民を始めますが、モロッコはこの時、アルジェリアの反仏勢力を支援。1844年にはフランスと直接対決しますがイスリーの戦いで敗北。その後は開国を迫るイギリスと免税特権と治外法権を認める不平等条約(1856年)を結ばされるわ、1859年にはスペインが侵攻して来るわ(スペイン・モロッコ戦争)で、とても鎖国どころの騒ぎではなくなってしまいます。
20世紀に入ると、この頃はやっていた列強国同士の裏取引でモロッコに対する優越権が決められていきます。1901年にはイタリアとの間で、また1904年にはイギリスとの間で(英仏協商)モロッコに対するフランスの優越権が認められます。そしてすでにセウタ、メリリャという二つの沿岸都市を占拠していたスペイン勢力とともにモロッコ進出に乗り出すのです。
ところがここで待ったがかかります。西欧列強の中で一番アフリカ選出に乗り遅れたドイツが横やりを入れてくるのです(タンジール事件)。これに飛びついたモロッコのアブドゥル・アジズはドイツの威光を借りてフランスの内政干渉をはねのけ、国際会議の開催を主張。フランスとドイツは一触即発の危機に直面しましたが、結局1906年のアルへシラス会議でモロッコの主権を尊重する事と、列強に対して均等に門戸を開放することなどを盛り込んだ条約を採択するのですが、表の体裁とは裏腹に、実際には金融と治安をフランスとスペインが受け持つという体制に変化はありませんでした。
結局モロッコからは何の分け前ももらえなかったドイツは、モロッコの権益を放棄するかわりにコンゴの権益をフランスに要求。これを断ったフランスとの間で再び緊張が走り、1911年、突然アガディール港に軍艦を派遣して威嚇します(アガディール事件)。その結果ドイツはフランス領コンゴの一部を獲得して、ドイツ領カメルーンに併合。モロッコからは手を引くことになります。なんだかこの頃の列強って、暴力団の縄張り争いみたいですよね。
こうして邪魔者のドイツを排除することに成功したフランスとスペインは、1912年のフェス条約によって、正式にモロッコを保護領として統治することになります。ちなみにこれらスペイン保護領とフランス保護領は、それぞれ第二次世界大戦前後で特別な働きをしました。まずスペインの保護領ですが、1936年、ビダル将軍が反政府勢力の拠点として反旗を翻したのがスペイン領モロッコで、それにカナリア諸島のフランコ司令官が合流してスペイン内戦が始まりましたし、第二次世界大戦中にはドイツの傀儡となったフランスのヴィシー政権に対する自由フランスの重要拠点となりました。
3.独立と西サハラ問題
さて、フランスに対する独立運動は1930年代から活発になりますが、第二次世界大戦後のフランスは、インドシナにおける失策とアルジェリア独立戦争の勃発により国際的な非難の的になりました。この頃からモロッコの独立問題も国際的な注目を集めるようになり、1955年には国外に追放されていたムハンマド5世がモロッコに帰国。翌56年にモロッコはフランスからの独立を果たすのです。同年、スペインはセウタ、メリリャ、イフニを残すすべてのスペイン領を放棄します。
1961年、ムハンマド5世の死去に伴いハッサン皇太子が即位しますが、早くも翌年憲法が制定され、モロッコは国王の権限が強い立憲君主国家となります。モロッコは独立以後西欧諸国との積極外交を展開しますが、南部のスペイン領の帰属に関する動きで新たな問題が発生します。
1969年、スペインはスペイン領のイフニをモロッコに返還しますが、スペイン領西サハラの領有権に関しても放棄する意向を示していました。そこでモロッコと南部のモーリタニアは秘密協定で、スペイン撤退後の西サハラを南北で分割統治することを約束しました。スペイン撤退前年の1975年には、スペインもその秘密協定に同意して、西サハラ南部をモーリタニアに、北部をモロッコに併合することを承認したわけですが、実際1976年にスペインが撤退してモロッコ、モーリタニア両国によって南北が分断されると、西サハラ内の独立派が黙ってはいませんでした。
彼らはポリサリオ戦線という武装組織を作り、「サハラ・アラブ民主共和国(SADR)」の独立を宣言して抵抗運動を繰り広げますが、これをモロッコとの国境問題で対立するアルジェリアとリビアが支援したため、紛争が長期化しました。
ポリサリオ戦線は独立をかけた紛争でよく戦い、まず南部のモーリタニアが1979年に西サハラ南部の領有権を放棄します。それを見たモロッコは、領有権を放棄するどころか、逆に西サハラ全土の領有権を主張して派兵します。アフリカ統一機構(OAU)の調停も不発に終わり、以後9年間、血で血を洗う闘争が繰り広げられたわけですが、1988年にモロッコとポリサリオ戦線を支援するアルジェリアの国交が回復したのをきっかけに、平和的解決に期待が寄せられ、モロッコは住民投票による問題解決という国連案を受け入れます。
1989年には、モロッコ国王ハッサン2世とポリサリオ戦線代表が首脳会談を行い、91年に停戦が実現。同年、住民投票を実行するための国連機関である国連西サハラ住民投票監視団(MINURSO)が創設され、あとは住民投票を待つだけということになったのですが、有権者登録に予想以上に手間と時間がかかり、92年に予定されていた投票は延期され、一時は有権者確定作業そのものが停止しました。
1997年にはモロッコ、ポリサリオ戦線双方が住民投票のやり方で合意に達して、2000年に「独立かモロッコへの併合か」を問う住民投票を行うことになりました。しかしながら、有権者の確定作業は遅々として進んでおらず、2020年現在でも問題解決の糸口はつかめていません。ちなみにサハラ・アラブ民主共和国はアフリカ連合に加盟しており、世界80か国から国家としての承認を得ています。その一方でモロッコは、サハラ・アラブ民主共和国側へ協力国としてイランとの国交を2018年に断絶しています。
4.モロッコの現状は?
1999年、国王ハッサン2世の死去に伴い、国王ムハンマド6世が即位。以後外資の直接投資が進み、経済は20年連続プラス成長です。2010年の「ジャスミン革命」の影響も立憲君主制を揺るがすことなく、憲法改正で首相の権限を強化するにとどめた。2017年にはエル・オトマニ政権が発足しています。