モルドバ共和国内の紛争
ドニエストル紛争、ガガウズ紛争
出典:外務省HP
1.ドニエストル紛争
1991年8月、旧ソ連から独立した旧モルダビア・ソビエト社会主義共和国は、モルドバ共和国としてCIS諸国の仲間入りを果たします。南北350kmの長細い国土は西をルーマニア、南東をウクライナに囲まれています。モルドバは、14世紀にルーマニア人によって建国されたモルドバ公国が歴史的な根拠となっているように、かつては人口のほとんどがルーマニア人で構成されていたほど、ルーマニアとの結びつきが強かったのですが、1812年にロシア帝国に併合されて以来のロシア化政策によってルーマニア人の割合が低下して現在にいたっています。
さてモルドバは、ロシア革命の初期に、ルーマニアとの統合を一方的に決定してロシアから独立しますが、ソ連は1940年、力ずくで同地を再併合して、47年、モルダビア・ソビエト社会主義共和国としてソ連邦下に置くことになります。ソ連はモルダビア共和国とルーマニアが再び手を結ぶことを恐れ、徹底的な弾圧で対処。さらには100万人近いモルドバのルーマニア人をシベリアなどに強制移住させる一方で、意図的に30万人といわれるモルドバ人を餓死させたりして、モルドバ民族主義の抹殺を図ります。
しかしながらモルドバ民族主義の息は脈々として受け継がれ、ソ連で改革が始まる80年代後半に復活します。共和国内の民族主義者は、人民戦線の名のもとで国名をモルダビアからモルドバに改称。89年にはモルドバ語(ルーマニア語と同一言語。ロシアへの気兼ねからモルドバ語と呼んだ)を公用語とする言語法を制定するなど、独立への動きが高まりました。90年の選挙では人民戦線が圧勝して、モルドバは91年8月、ソ連邦からの独立を宣言することになります。
さて、問題はそれからでした。国の東を流れ、ウクライナとの自然の国境を作るドニエストル川東岸には、多くのロシア人が住んでいましたが、彼らはルーマニア人中心のモルドバを嫌い、90年にロシア人中心の「沿ドニエストル共和国」の独立を宣言。モルドバ共和国からの分離独立を主張したのです。ところが、同地域の民族構成を見ると、モルドバ人が40%、ウクライナ人が28%で、ロシア人は全体の4分の1に過ぎません。そのロシア人が親ロシアの国家として独立宣言をしたのですから、同地域に在住するモルドバ人は独立派と対立し、92年に戦闘状態へと至ります。
紛争はロシアから駆けつけた軍隊の介入もあって短期に決着がつき、94年、モルドバは「沿ドニエストル・モルドバ共和国」に対して特別な地位を供与することでロシアとの合意に至りましたが、ドニエストル側は、独立か、もしくはロシアの飛び地としての地位に現在でも固執しており、ロシア議会もそれを支持する動きを崩していないため、最終的な解決には至っていません。また、ロシアとの合意で撤退が確認されたロシア軍も、平和維持軍として駐留を続けており、ドニエストルを巡るロシアとモルドバのにらみ合いは当分の間続いていくでしょう。
2.ガガウズ紛争
ガガウズ紛争も、ドニエステル紛争と同様、モルドバのルーマニア寄りの姿勢を懸念して起こったものです。ガガウズ人はキリスト教に改宗したトルコ系民族で、モルドバ共和国の人口の3.5%を占める少数民族ですが、1990年8月にガガウズ共和国の独立を宣言して、モルドバ政府と対立しました。ガガウズ人による独立要求は95年1月に、モルドバ議会で「ガガウズ地域の特殊法的地位に関する法律」が採択され、南部のガガウズ人居住地域に大幅な自治権が与えることで決着がつきましたが、モルドバ共和国のEU加盟に関しては反対の姿勢をとっており、2015年には親ロシア派の知事が当選するなど、モルドバ共和国政府の不安定材料となっています。