ミャンマー連邦共和国

出典:外務省HP 

1.ミャンマーの歴史と日本との関係を教えてください

 一体、日本びいきの国が、世界に何か国あるのでしょうか?そう聞かれると、なんとも心許ない限りですが、ミャンマーは、その数少ない国の一つだと言っていいでしょう。日本とミャンマーは、もしかするとアジアの中で、一番太い絆で結ばれた関係の一つかも知れません。というのも、ビルマの独立に、日本が深くかかわっていたからです。

 イラワジ川流域には古くからモン族やピュー族の国家があり、紀元前3世紀にはインドとの交易が記されています。ピュー族の国家は2世紀から9世紀まで存続した後に中国の攻撃で滅びますが、その後イラワジ川周辺の平野に進出したのがビルマ族です。ビルマ族は11世紀中旬、パガン朝という統一王朝を建設しますが、そのもとで華麗な仏教文化が栄えますが、13世紀には、4回にわたる中国(元)の攻撃を受け、結果、1287年にパガン朝は崩壊します。元はビルマに執拗に5度目の攻撃を仕掛けますが、それを撃退したのがビルマ族に代わって台頭したシャン族でした。14世紀の始め、シャン族はピンヤ、サガインという二つの王朝を建設。1364年にアバ朝として統合され、16世紀まで栄えました。

 16世紀に勢力を盛り返したビルマ族はシャン族のアバ朝崩壊後、タウングー朝を興して、1556年にはタイ北部のチェンマイ、64年にはタイのアユタヤ、74年にはラオスにまで達する大国を築き上げました。タイの人は、「歴史上、タイが他国の統治を受けたことは1回しかない。それがビルマだ」といって、今でも恨みに思っているようです。しかし18世紀にはその強大なタウングー朝も衰退し、1752年、モン族によって滅ぼされます。しかし、ビルマ族の残党がアラウンパヤー氏のもとに終結して勢力を盛り返し、同年コンバウン(アラウンパヤー)朝を興すと、57年にモン族の拠点ペグーを陥れて、2度目のビルマ人による統一を達成します。

 このコンバウン朝はタウングー朝にもまして強大で、中国(清)の乾隆帝が送った遠征軍と4度も戦って勝利を治めただけでなく、同時にタイのアユタヤにも遠征して1767にこれを征服してしまいます。

2.イギリスによる支配

 さて、この強大な王朝に転機が訪れたのが19世紀前半でした。当時インドの支配体制を確立したイギリスは、その食指を北方のチベットと、東方のビルマに伸ばします。結局、中国の影響力が強かったチベットへの進出は、頓挫してしまったのですが、1824年から3度にわたって続くビルマへの進出(ビルマ戦争)は、執拗に続けられたのです。軍事力では引けを取らないコンバウン朝ビルマは、半世紀にわたって激しく抵抗したのですが、結局3度目の直接対決の末に力尽き、1885年、とうとうイギリス領インド帝国に組み込まれてしまいました。

 植民地時代、イギリスは徹底したビルマ人疎外政策をとりました。ビルマには豊富な天然資源がありますが、その開発にビルマ人が参加することは禁じられていましたし、アジアで最も豊かな農作地帯の一つであるイラワジ・デルタの開発も、主にインド人を使って行なわれました。ビルマ人が植民地経営の一部分をまかされるようになったのは、1921年と、だいぶ後になってからのことです。このような、あからさまなビルマ人阻害政策に対抗するため、早くから独立運動が盛んに行なわれていたのですが、それらはビルマ国民全体の抵抗運動には発展しませんでした。というのも、ビルマは、ビルマ族の他、多数の少数民族が寄せ集まってできた、いわゆる多民族国家です。イギリスはこれを利用して、少数民族保護政策という名のもとで、多数派のビルマ族から、カレン族、シャン族、カヤー族、カチン族などの少数民族を意図的に分離。ビルマ国民が一団となってイギリスに抵抗する芽を摘んでしまったのです。

 さて、40年、ビルマ独立のきっかけとなる一つの出会いがありました。ビルマ偵察の命を受けた鈴木敬司陸軍大佐は、ビルマ国内で独立運動の指導者達と密会しますが、その心意気に感じた鈴木氏は、独断で独立支援を約束。当時中国に脱出していたアウン・サン氏(後「独立の父」と呼ばれるアウン・サン将軍)ら二人を保護して日本につれて帰ります。しかし、参謀本部は鈴木氏の越権行為を認めなかったため、鈴木氏はアウン・サン氏らを自費で浜松に匿って、家族ぐるみで世話をしていたのです。

 しかし、翌41年、鈴木氏の説得が実る形で、日本軍はビルマの独立派支援を決定。「南機関」という秘密工作機関を創設して、ビルマの独立運動家を海南島で訓練することになりました。その時ビルマを脱出して海南島に集まった30人の独立運動家達は、後に英雄「三十人志士」と呼ばれ、その中には前述のアウン・サン氏や、戦後長く政権を担ったネ・ウィン氏らがいました。41年、太平洋戦争が勃発すると「三十人志士」と南機関は、タイのバンコクで「ビルマ独立義勇軍(BIA)」を結成。日本軍と共に英領ビルマに進撃し、短期間でビルマの解放を成し遂げたのです。

 ここで、イギリス勢力を撃退した日本軍に色気がでます。「三十人志士」と南機関は、イギリス軍撃退後、直ちに共同で独立宣言を行なうのですが、ここで軍司令部から待ったがかかるのです。司令部としては戦略上重要なビルマを日本軍の指揮下に置いておきたかったわけですが、独立派にしてみれば「話が違う」ということになり、「南機関」の指導者の方々も間に挟まってご苦労があったようです。

 さて、悪いことは続かないのが自然の条理。43年8月、遅まきながらビルマ人の独立を承認した日本軍でしたが、44年7月のインパール作戦失敗以後イギリス軍が反撃に転じ、45年の春には日本軍の敗色が濃厚になります。このままでは日本軍と心中で、せっかくの独立も水の泡になると判断したアウン・サン将軍は、日本軍に対する反乱を決意。45年3月の抗日一斉蜂起によって、日本勢力を追放します。第2次世界大戦後、ビルマはイギリスと独立交渉を重ね、48年1月に、ついに念願の独立を達成することになったのです。

3.「ビルマ」はなぜ「ミャンマー」になったのですか?

 さて、「三十人志士」のリーダーであったアウン・サン将軍は、ビルマ独立の前年に暗殺され、求心力を失った独立後のビルマでは、共産党の武装蜂起、カレン族の独立など、しばらくゴタゴタが続きます。そんな中、ビルマでは民主主義の実験が行なわれます。135の民族が集まって議会を開き、憲法を制定するという目的で、1956年に総選挙が行なわれたのです。しかし、結局ウー・ヌ氏を指導者とする与党自体が分裂し、政権は不安定さを極めました。60年の選挙で再び与党となったウー・ヌ氏でしたが、政情はまったく安定せず、シャン族、カチン族などが連邦離脱を宣言するにいたって、国家分裂の危機に瀕しました。62年、その混沌とした政情を見かねたネ・ウィン将軍がクーデターで政権を掌握して軍事政権を樹立することになりました。

 独立直後にビルマで行なわれた民主化は、こうして完全に失敗するのです。これは135ある民族を民主主義でまとめるということの難しさが露呈した一件でした。民主主義といえばすべてうまくいくと信じて疑わない人を見かけますが、実際に分裂している国を民主主義でまとめていくにはかなりの困難が付きまとう場合もあるということがわかるでしょう。

 さて、62年に政権を執ったネ・ウィン将軍は、独裁的な社会主義体制を導入。26年間にわたってビルマを統治することになりますが、74年には憲法が改正され、新たに国権を行使する唯一の機関として人民議会が設置されました。この一院制の議会が、行政、立法、司法の三権をすべて担うという仕組みです。しかしながら、政党はビルマ社会主義計画党の一党独裁で他の政党がすべて否定されましたから、事実上の独裁政権ということができるでしょう。

 一方、経済面でネ・ウィン政権が掲げたのが「ビルマ式社会主義」というものでした。すなわち、農業分野を除くすべての産業を国有化し、計画経済を推進するというものでした。このため、すべての外資がビルマから撤退し、ビルマは事実上の鎖国状態になったわけです。しかし、政府の打ち出す経済計画は失敗の連続で、26年にわたるネ・ウィン政権の間、国民は経済的停滞に甘んじなければなりませんでした。ビルマは87年、とうとう国連のランク付けで「最貧国」の地位にまで落ち込んでしまいました。

 貧困にあえぐ民衆の不満はついに爆発。1988年には軍部独裁政権に対する抗議と民主化要請のデモが頻発し、ネ・ウィン政権は崩壊しますが、当時国防相だったソオ・マウン氏は、デモ隊を武力で鎮圧。同年9月に、国家法秩序回復評議会(SLORC)という新たな軍政を敷きます。

 さて、この時ソオ・マウン議長率いる新政権が使い出したのが「ミャンマー」という国名だったのです。言語的にいうと、ビルマの人は、自国のことを「ビルマ」とも、「ミャンマー」とも呼ぶのですが、ビルマ国民の英語の呼称が「ビルマ」だったので、対外的には「ビルマ」で通してきたわけです。それでも自国語では「ミャンマー」という呼び方を続けていましたから、例えていうなら日本を「ニッポン」と呼ぶか「ニホン」と呼ぶかの違いの様なものです。ただし、ミャンマーの軍事政権に反対してきた人々は、今でもかたくなに「ビルマ」という呼称を使う傾向があります。

4.スー・チー女史は、どんな人ですか?

 アウン・サン・スー・チー女史は、「建国の父」として讃えられる、アウン・サン将軍の娘です。アウン・サン将軍は、ビルマ独立目前の1947年、32歳という若さで暗殺されますが、当時、スー・チー女史は2歳。物心がついた頃には、すでに偉大な父親はいませんでした。

 意外なことに、スー・チー女史は、それからごく最近まで、政治というものとかけ離れた生活を送っていました。女史はオックスフォード大学卒業後、ニューヨークの国連本部に就職しますが、イギリス人学者マイケル・エアリス氏との結婚後は、イギリスで10年間、ごく普通の結婚生活を営んでいたのです。

 そんな中、彼女の中で父アウン・サン将軍への思いが次第に強くなっていきます。ある日、父の伝記を書くことを決心した女史は、青年時代の父の足跡を追って、85年日本に渡り、京都大学の東南アジア研究センターに籍を置くことになります。

 しかし、3年後の88年、母危篤の報を受けたスー・チー女史は、長い海外生活に終止符を打ち、母国ビルマに帰国することになります。そこで彼女を待ち受けていたものは、民主化を求める民衆の波と、それを力で阻止しようとする軍事政権との争いでした。

 ここで初めて政治に目覚めた彼女は、民衆の先頭に立ち、民主主義政権樹立のためにビルマ各地を遊説し始めたのです。国民的英雄であるアウン・サン将軍の娘を、大衆が熱狂的に迎えたのは言うまでもありません。ところが、スー・チー女史の影響力が大きくなりすぎたと判断した軍事政権は、89年7月20日以来、95年7月10日解放までの6年間、彼女を自宅に軟禁。外部との接触を堅く禁じたのです。

 軍事政権は、女史拘束後の90年に、総選挙を行ないますが、結果は女史が結成した国民民主連盟(NLD)の圧倒的勝利に終わりました。ところが軍事政権は、即座にこの選挙を無効とし、NLDへの権力の委譲を拒否します。一方、95年7月に解放されたスー・チー女史は、90年に行なわれた選挙(NLD大勝)を有効として、民主主義議会の即時開催を要求。一時はかたくなに民主化を拒む軍政権に対してアメリカを筆頭とする国際社会からの批判が相次ぎました。ただし、軍事政権側には独自の民主化プロセスがありました。

5.軍事政権と民主化への努力

 1988年にクーデターで政権を掌握して以来、議長の座に居たソオ・マウン上級大将は、軍政の恒久化を強硬に主張していたため、スー・チー女史を筆頭とする民主化勢力は、目の上のたんこぶでした。それに対し、タン・シュエ議長や、キン・ニュン第一書記など若手の一派は、社会主義政権時代からリベラルの旗手と呼ばれ、ミャンマーの民主化に積極的でした。

 1992年4月、ソオ・マウン氏等、軍政権内の長老派、強硬派を排除したタン・シュエ議長と、キン・ニュン第一書記は、翌日、一連の緩和政策を発表。戒厳令の撤廃、夜間外出禁止令の撤廃、カレン族反乱軍との交渉開始、政治犯の大量釈放、大学教育の再開など、ソオ・マウン氏が今まで突っぱねていたさまざまな自由化政策を矢継ぎ早に実施します。また、人権問題に発展していたロヒンギャ難民に関して、バングラデシュ政府との交渉も開始され、さらに麻薬問題では、麻薬王と呼ばれ、世界中のお尋ね者だったクン・サ氏の身柄拘束を手始めに、国連薬物統制計画(UNDCP)の協力の下、麻薬生産の撤廃に向けて積極的に動きました。

 軍政権はまた新憲法の制定のために、具体的に動き出しました。第一に、新憲法は全国民、全民族の代表によって決定されるべきものであるという前提に立って、92年6月の予備会議で総勢746名の憲法制定メンバーが選出されます。この中にはスー・チー女史の政党であるNLDのメンバー130名も含まれていました。

 さらに、全民族という視点から、135に及ぶ民族集団との交渉が持たれ、特に16の少数民族武装集団との和平交渉が積極的に展開されました。95年の8月にはモン族解放戦線との和平交渉が成立するなど、民主化向けた国内の根回し動きも順調に進みました。2003年にキン・ニュン氏が首相に就任すると、「民主化へのロードマップ」が発表され、民主化への動きは加速しますが、これをよく思わない保守派はキン・ニュン首相を自宅軟禁にしてしまいます。代わってソー・ウィン氏が首相に就任するのですが、民主化への道は閉ざされたわけではありませんでした。

 2007年にソー・ウィン首相が死去すると、テイン・セイン氏が首相に就任。民主化への動きが再び始まります。2008年に新憲法が国民投票で承認され、2010年には新憲法の下で選挙が行われましたが、その際自宅軟禁状態だったスー・チー女史も解放されました。2011年には新しく選出された連邦議会の議決でテイン・セイン氏が大統領に就任しましたが、2015年に行われた民主化後初めての総選挙では、スー・チー女史のNLDが圧勝。軍の保守派の反対でスー・チー女史の大統領就任は却下されましたが、大統領顧問、外務大臣、大統領府大臣を兼任して、「事実上のスー・チー政権」を担っています。

 この様に、ミャンマーの民主化は、時間がかかりましたが、一貫して軍主導で行われてきました。 先に書いたように、イギリス植民地時代に採られた少数民族保護政策により、ミャンマーには、ビルマ族の影響下から意図的に切り放された多数の少数民族が存在するため、独立直後に行われた民主化は大失敗してしまったという苦い経験があります。軍政権の幹部の中には、早急に民主化に踏み切ると、また国内が分裂する恐れがあるという危機感を持つ人が多かったのです。スー・チー女史が要求した民主化の即時受け入れを、軍政権が拒んできた裏には、このように、民主化が絶対善とは言い切れない、複雑な内政問題が絡んでいたことも確かです。

6.ロヒンギャ問題とは?

 ミャンマーの西部に、バングラデシュと国境を接するラカイン州がありますが、そこに住むイスラム系住民のことをロヒンギャと言います。人口は推定で200万人とされていますが、仏教国ミャンマーの中では異教徒扱いされ、長年にわたって差別と迫害の対象となってきました。特に1962年にミャンマーが軍事政権化して以来、ロヒンギャに対する迫害や武力弾圧は厳しさを増して、数多くの難民がバングラデシュに逃れました。1982年には、ロヒンギャを国民とは認めないとする国籍法改正が行われ、90年代には50万人を超すロヒンギャ難民がバングラデシュの難民キャンプにあふれかえりました。

 一方のバングラデシュも、増え続けるロヒンギャ難民は頭痛の種でしたから、彼らにバングラデシュ国籍は与えず、逆に国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)を通じてミャンマーに送り返すという道を選択しました。

 これにより、再びロヒンギャの人口が増加したラカイン州では、現地の仏教徒との間で衝突が頻発。2017年にはロヒンギャに対する掃討作戦が軍主導で行われ、70万人のロヒンギャ難民が国外へ逃亡しています。残されたロヒンギャはミャンマー政府の用意した難民キャンプに強制的に収容され、監禁されます。ロヒンギャ難民の一部はマレーシア、インドネシア、タイなどの隣国に避難しますが、そこでも難民認定されず、人間らしい生活の保障もないままに抑圧と弾圧の日々を過ごしています。

 国際社会は、ロヒンギャ問題がミャンマーの国内問題であり、責任をもって市民権を付与すべきであるとの申し立てを事あるごとに伝えていますが、「ロヒンギャはバングラデシュからの不法移民」であり、ミャンマー政府軍による弾圧は「ベンガル人のテロリストによる脅威」から国を守る正当な行為と一貫して主張。問題の平和的解決を模索する姿勢さえ見せていない状況です。2019年末に行われた国際司法裁判所の法廷にはスー・チー国家顧問も出廷しましたが、虐殺やレイプなどの人権侵害には一切言及せずに、かたくなに従来の政府の主張を繰り返しました。

 ミャンマー軍政権の抑圧の中で抵抗を貫いた民主主義のヒロインとして、ノーベル平和賞まで受賞したスー・チー国家顧問でしたが、ロヒンギャ問題ではかたくなに人道的解決を拒み続けている。そんな姿を見て、幻滅を覚えた人も多いようです。

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