マレーシア

出典:外務省HP 

1.マレーシアの中国系住民、インド系住民はいつ、どこから来たのですか?

マレーシアにはマレー人(総人口の約7割)、華人(2割強)、それにインド・パキスタン系の人などが住んでいますが、華人とインド・パキスタン系の人がマレーシアに来たいきさつが面白いのです。マレー半島南部では18世紀までにさまざまなマレー人の王国が誕生しましたが、当時は住民のほとんどが稲作を中心とする農業を行っていたマレー人で、他民族は少数でした。しかし、19世紀中ごろに大量のスズ鉱脈が発見されてから状況が一変します。このスズ鉱脈の採掘と貿易を目指した華人が怒涛のごとくマレー半島に押し寄せたのです。流入した華人労働者は、いくつかの団体に分かれて、互いに利権を争ったため、時には武力衝突に発展することも珍しくはありませんでした。このことがマレーシアの治安の悪化につながり、後にイギリスの介入を招く原因となるのです。

 一方、インド・パキスタン系の人は、19世紀末に流入します。19世紀末は、世界的にゴムの需要が伸び、価格が高騰した時期にあたり、西アフリカ、次いで南米などで大規模なゴム栽培が始まりました。19世紀後半、徐々にマレー半島南部の植民地化を進めていたイギリスも、それら植民地でゴムの栽培を推し進め、労働力も、当時イギリスの植民地であったインド・パキスタンから調達してきたというわけです。

 ですから、マレーシアに行って、マレー人に会えば米を、華人に会ったらスズを、インド・パキスタン系の人に会ったらゴムを思い浮かべれば、彼らがマレーシアにたどり着いた大体のいきさつがわかるというわけです。

2.マレーシアの国の成り立ちを教えてください

さて、マレーシアの前身は14世紀末に建国したマラッカ王国ですが、それ以後、ポルトガル、オランダ、そしてイギリスとの関係でさまざまな変遷を経験します。大まかには16世紀がポルトガルの時代、17世紀がオランダの時代、18世紀以降がイギリスの時代と考えれば良いようです。まず、14世紀末に登場したマラッカ王国は、海上交易の中心地として栄えたマラッカ港を中心とする王国でしたが、1511年、マラッカ港がポルトガル艦隊に占領された後、ジョホール王国という別の王国を建国してマラッカのポルトガル勢力と対立するようになります。ジョホール王国は17世紀に東南アジアに進出してきたオランダと手を結んでマラッカを再び奪回することに成功しますが、その後、王国はインドネシア(スマトラのジャンビ王国))との戦いに国力を浪費し、18世紀には王国が七つに分裂する事態になりました。

 さて、当時東南アジアでオランダと熾烈な植民地獲得競争をおこなっていたイギリスは18世紀末のマレーシアの混乱に乗じて、まずペナン島を領有してマレー半島進出の足がかりとします。19世紀になるとヨーロッパでナポレオン戦争が起こったのをきっかけとしてオランダの力が弱まり、イギリスはマラッカを占領、ついで1819年からは、シンガポールで植民地の建設が始まりました。ペナン、マラッカ、シンガポールという三つの自由港は、俗に海峡植民地と呼ばれ、1867年にはイギリスの直轄植民地となりました。

 しかしながら、この時点でイギリスがおさえたのは三つの点でしかありませんでした。マレー半島内陸部に対するイギリスの支配は、意外なことがきっかけになったのです。それが1848年のスズ鉱脈の発見と、それを目当てに大量に流入した華人労働者同士の軋轢でした。現在のマレーシア総人口の三分の一を占める華人は、もともとこの時期に流入した華人労働者の子孫であるということはすでに話しましたが、このような大量の移民が問題を起こさないはずがありません。彼らはいくつかの利益団体に組織されましたが、それらの団体は互いに競争し、反目しあっていました。時には、地方のマレー貴族も巻き込んで、利権がらみの戦争を始めたりするものですから、マレー半島は一時期、かなり不安定な状況だったのです。

イギリス政府は、マレー半島のこうした状況に介入して、半島における影響力の拡大をもくろみ、結果として1896年、マレー人四王国を統合して、「マレー連合州」を設立することに成功します。1909年には、シャム(現タイ)王国から北部4州を譲り受けたイギリスは、これでマレー半島南部のほとんどの部分を植民地化(総称イギリス領マラヤ)することに成功するのです。

 さて、マレーシアには、マレー半島の、いわゆる西マレーシアと、ボルネオ島北部の東マレーシアとがあります。「ブルネイ・ダルサラーム国」の部分で、初期のブルネイ王国とイギリスとの関係には触れましたが、かいつまんで言うと、1840年、ブルネイ王国の内乱に介入したイギリス人J.ブルックが46年、サラワク地方にブルック王国を作り、またイギリス政府は81年、北ボルネオ特許会社を通じてサバ地方を保護領としたわけです。これらサラクワ、サバ2州が1963年にマレーシア連邦に加盟して、現在の東マレーシアを形成しているということです。

3.第二次世界大戦からマレーシア独立までのいきさつに関して教えてください

太平洋戦争が始まると、日本軍はイギリス領マレーおよびシンガポールを次々と占領しますが、その過程でマレー人を重視し、行政組織にマレー人をどんどん登用する政策をとったため、一部の中国人の反乱を除けば、占領統治は比較的平穏に進みました。

 日本敗戦後イギリスは、シンガポールの植民地継続には固執したものの、イギリス領マラヤに関してはその独立を支持し、1948年にマレー人に対する特権を約束する連邦協定を結んで、旧イギリス領マラヤは「マラヤ連邦」としてシンガポールから切り離されました。マラヤ連邦ではその後、マレー人の特権を認めた48年の連邦協定を不服として、主に華人が中国共産党と結んでゲリラ戦を展開しましたが、結局、対英協調路線を取る華人グループと、インド・パキスタン系住民の協力があり、55年に総選挙が行なわれる運びとなりました。選挙によって初代首相にアブドゥル・ラーマンが選出され、57年にマラヤ連邦は完全独立を達成することになります。

 さて、マラヤ連邦のラーマン初代首相には、一つの構想がありました。それは、マラヤ連邦と、シンガポール、ボルネオ北部のイギリス領(サラワク、サバ、ブルネイ)をまとめてマレーシア連邦を形成するというものでした。この構想にシンガポールは当初積極的で、63年9月に発足したマレーシア連邦には加盟したのですが、その後財政問題などで連邦と折り合いがつかず、結局65年8月に連邦を離脱してしまいました。ボルネオ北部では、サバ、サラワクが連邦入りを果たしたのに対し、丁度そのころ石油、ガスを中心に天然資源の発見が相次いで、経済的自立の可能性が確定していたブルネイは、連邦参加を拒否。84年に完全独立するまではイギリスの保護領として居残る選択をしました。

 こうして、半島部11州、島嶼部(北ボルネオ)2州、計13州の連邦国家マレーシアができあがったわけです。面白いのは、マレーシア連邦の政治形態が立憲君主制だということです。首相は選挙で選出されますが、国王はマラッカ、ペナン、サバ、サラワク4州を除く9州のスルタンの中から5年ごとに互選されます。

4.マハティール首相はどんな人ですか?

 発想の宝庫であり、バイタリティーあふれる政治家です。1981年に首相に就任して以来、名実ともにマレーシアを引っ張ってきましたが、その特徴の最たるものが対外的には「欧米に追随することなく、アジア独自のやりかたで」という信念で、対内的には「マレー人重視」の姿勢といえるでしょう。前述の通りマレーシアは7割のマレー人と2割強の華人、そして1割のインド・パキスタン系住民によって構成されていますが、第二次世界大戦後の数年間,マレー人の特権に対して華人が抵抗運動を起こしたことからも分かる通り、統治に関しては、特に中国系の住民(華人)の扱いに関して慎重にならざるを得ません。

 しかし、そうは言っても別段中国系住民に不必要に圧力をかける必要もなかろうということで、60年代初期まではあまり強い規制はありませんでした。しかし、69年、マレー人の特権に対する不満が高まった結果、中国系住民とマレー人との間で大規模な衝突が起き、多数の死傷者を出す事件に発展しました。

 マレーシア政府は翌70年、「ルクネガラ(五大基本方針)」を出して、①マレー人統治者の地位と権能、②市民権、③マレー人の特権、④イスラム教を国教とし、⑤マレー語を国語とすることに関しては、すでに既定の事実であり、今後公の場で議論をすることは禁止する、というおふれを出し、マレーシアにおけるマレー人の特権を再確認するに至りました。マハティール首相もこの路線を引き継ぎ、現在までマレー人の特権に挑戦するすべての動きを抑えてきています。

 しかし、マハティール首相が注目されるようになった一番の理由は、何と言っても欧米嫌いとも取れるその言動にあることは確かです。マハティール首相は就任早々「ルック・イースト」というスローガンを掲げ、欧米に追随するのではなく、日本など、アジアの先進国を見習って国づくりを進めていくべきであるという姿勢を明らかにします。また、オーストラリアのホーク首相が89年にAPEC(アジア・太平洋経済協力閣僚会議)、つまりアジア、オセアニア諸国およびアメリカ、カナダ、メキシコ、チリによる緩やかな経済圏をつくろうと提唱すると、その翌年に米大陸とオセアニア以外のアジアの国だけで経済ブロックをつくろうというEAEC(東アジア経済協議体)構想を提唱したりして、一時期オーストラリアとの関係が著しく悪化したこともあります。

 また91年には、今後30年間の目標として「ビジョン2020」を発表し、2020年までにマレーシアが先進諸国の仲間入りを果たすための政策目標を掲げるなど、次々と目標を打ち出して国民を指導していくのが、彼の持ち味です。

 特に97年のアジア通貨危機のあおりを受けてマレーシア通貨が急落するという危機的状況の中で、彼は98年9月、突如として為替管理規制の導入を発表。世界の市場関係者を当惑させました。マハティール首相の強権で行なわれたこの為替管理規制は、IMF主導の市場自由化原理に対する真っ向からの挑戦で、非力ながら短期資本の無秩序な行動に対する抵抗でもありましたが、結局マレーシア通貨は安定し、経済も立ち直りを見せました。

 この様に力強いリーダーシップでマレーシアをけん引してきたマハティール首相は2003年、アブドラ・バダウィ―副首相を後継者として政治の世界から身を引くのですが、2018年の選挙では、政治腐敗が露見したナジブ首相の対抗馬として立候補。見事政権に返り咲きます。マハティール首相は2020年まで政権を維持しますが、政権内部での後継者争いによる混乱の中で辞表を提出。ヤシン首相が第8代首相として政権を担っていますが、94歳まで政権を担うだけのバイタリティーは、さすがとしか言いようがありません。

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