ボリビア多民族国

出典:外務省HP

1.独立後のボリビアの歴史を教えてください。

 1533年、ピサロ率いるスペイン勢力によって滅亡したインカ帝国の領土は、1543年にペルー副王領として編成されました。現在のボリビアは、当時、アルト・ペルーと呼ばれていましたが、1545年、スペイン人は、そこでとてつもないものを発見してしまいます。当時世界最大の埋蔵領を誇ったポトシ銀山です。

 16世紀後半のスペインの富は、米大陸最大のこの銀鉱脈によってもたらされたと言っても過言ではないほど重宝がられたポトシ銀山ではありましたが、現地の人間が富の恩恵を受けられるわけも無く、逆に銀山での労働を強いられたインディオの人口は激減したといわれています。

 17世紀を通じてポトシ銀山の開発は続きますが、18世紀に入るとほとんど銀は出なくなり、ボリビアが独立する頃には廃鉱に近い状態でした。

 さて、1776年、アルト・ペルーは、リオ・デ・ラ・プラタ副王領に転入。スペイン植民地の中では最後まで独立勢力を阻止してきましたが、1810年にはアルゼンチン、チリが、翌年はヌエバ・グラナダ副王領、パラグアイ、ウルグアイが独立。22年にはエクアドルが独立し、周辺のすべてのスペイン植民地が独立する中で、1824年、アルト・ペルーも、ペルーと共に、とうとうスクレ将軍率いるシモン・ボリバル軍の手で独立を達成。翌年ペルーから分離独立したアルト・ペルーは国名も、シモン・ボリバルの名をとってボリビアと名づけられました。

 独立を達成したボリビアでは、スクレ将軍が大統領に就任しますが、2年後に内乱で国外追放され、その後現在までボリビアは190回といわれる政変を繰り返しています。このように安定しない政治・社会状況と、戦争によって太平洋への出口をふさがれたために落ち込んだ経済が、長く国民に重くのしかかってきました。

2.独立後、ボリビアの領土が小さくなったわけは?

 現在のボリビアの領土は、独立当時の半分程度になっています。独立当初は、丁度ペルーとチリを分断するように、太平洋に領土が張り出していたのですが、19世紀中旬、南米大陸の太平洋の海岸線で産出されるグアノの需要が、イギリスを中心とするヨーロッパで高まり、格好の輸出資源となっていました。

 このグアノというのは、もともと海鳥のフンが堆積して出来たもので、20世紀初頭に、ドイツが化学肥料を開発するまでは、多くの富をぺルー、ボリビア、チリ三国にもたらしました。また、火薬や肥料の原料となる硝石も、同じ地域に点在しており、他に輸出するものが無いこれらの国にとっては、ありがたい資源でした。

 しかし、そんなおいしいものは独り占めしたいと願うのは世の常です。事の起こりは、現在のチリ北部にあるアタカマ砂漠の領有権争いでした。ペルー、ボリビア、チリの三国は、当初ペルー副王領として統治されていましたが、1776年にボリビアがリオ・デ・ラ・プラタ副王領に編入したり、チリが1778年にチリ総督領として分離されたことなどから、ボリビアとチリの境界線があいまいになっていたのです。

 独立後しばらく、この地域に眠る硝石の生産には、主にチリ人が携わってきましたが、ボリビアも採掘権を主張したため、雲行きが怪しくなってきます。1873年、チリとボリビアの国境線は確定していたのですが、硝石採掘にまつわる騒動は絶えず、それがもとで、1879年、チリが軍隊をボリビアに派遣。ボリビアと同盟を結んでいたペルーも巻き込む戦争に発展しました。

 太平洋戦争と呼ばれるこの戦争(第二次世界大戦で日本とアメリカが戦った太平洋戦争とは別の戦争)は1883年まで続き、最終的にはチリが勝利を収めました。結果、ボリビアの海岸部はチリの領土となり、これによってボリビアは現在のような内陸国となって、その後の経済発展が著しく遅れることになったのです。

 さらに、ボリビア北部は、現在よりもブラジル側にせり出ていたのですが、19世紀末にゴム生産者の反乱があり、ブラジル側に手放したといういきさつがあります。

 それですめば、まだ良かったのです。ボリビアは、20世紀のはじめ、比較的安定した時期を迎えており、第一時世界大戦時の戦争景気で、鉱物資源の価格も高騰し、鉱物資源国ボリビアの経済も安定してきていたからです。

 ところが、ちょっと景気が良くなれば欲が出てくるものです。ボリビアの場合は、かなり大それた欲だったようです。チリとの戦争で太平洋への出口を失ったボリビアは、今度は大西洋への出口を求めて、パラグアイの領土に進入して行きます。こともあろうか、そこで石油などの資源を見つけてしまったから、もう後戻りは出来ません。ボリビアと失地回復に燃えるパラグアイの抗争(チャコ戦争)は、1928年から35年まで二回にわたり行われ、死者の数10万人に達するといわれる南米最大級の全面戦争に発展しました。

 結果、パラグアイはボリビア南部のチャコ地方のすべてをボリビアから獲得。ボリビア南部の領土がまた減ったという結果に終わりました。

3.ボリビアの現状は?

 チャコ戦争後、ボリビア国内では民族主義が高まり、1952年には初めての民族政党である民族主義的革命運動(MNR)が政権をとり、64年まで民主化や土地制度改革などを手がけてボリビアの近代化を促しました。

 しかし、1964年に軍のクーデターでMNRのエステンソロ大統領が失脚。国内では軍とボリビア共産党の対立が激化します。66年にはキューバ革命を指導したチェ・ゲバラがボリビアに潜入してゲリラ戦を行うようになりました。ゲバラは67年、アメリカ軍の支援を受けた軍に捕らえられ戦死。その後ボリビアでは、ソ連、アメリカなどの影響を受けた政権が次々と台頭してはクーデターで消えるという混乱が繰り返しますが、1982年の経済危機を機に民政に復帰して、現在に至っています。ただし、1980年代のボリビアは中南米全体を襲った債務危機によって、85年には8000%の超インフレに陥るなど、経済が破綻状態に陥ってしまい、86年には100万分の1のデノミネーションを行うといった荒業でインフレを力ずくで抑制。経済危機を何とか乗り越えました。100万円が1円になるのですから、すごいです。

 そんな状態の中、ボリビアは降ってわいたような恩恵にあずかります。2001年に世界最大規模といわれる天然ガス田が発見されたのです。さらにはリチウムイオン電池の原料となるリチウムが南部のウユニ塩原で発見されました。埋蔵量は世界の埋蔵量の半分以上となる540万トンといわれており、開発に期待がかけられています。

 ただし、天然ガスも、リチウムも、実際には開発が進んでおらず、さらには2003年、2005年に天然ガスにまつわる大規模な国内紛争が勃発するなどして社会的に混乱が続いたため、せっかく発見された将来性のある資源も、経済的に疲弊しきった国民を十分潤す段階には至っていません。2006年にボリビア初の先住民族出身のモラレス大統領が就任して、翌年に天然ガス開発にかかわる海外資本の国有化を決行。資源開発を一歩一歩進めている状況です。国民一人当たりの国内総生産(GDP)も、1981年には615ドルでだったものが、大規模ガス田が発見された直後の2002年に914ドル、さらにはガス田が国有化された翌年の2007年には1400ドルと徐々に増加傾向にあり、2019年には推計3670ドル(IMF)と、順調な伸びとなっています。

 モラレス大統領はその後安定した政権運営を続けて、3回の大統領選挙で当選。2019年委4回目の大統領選挙で当選を果たしましたが、その後選挙に不正があったとして国内が混乱。結果大統領を辞任してメキシコへ亡命。現在は上院副議長だったアニェス氏が暫定大統領として任命されています。 

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