ペルー共和国

出典:外務省HP

1.ペルー社会の特徴は?

 ペルーは、西は太平洋、東は最高峰6700mを超えるアンデスの高地を従える国家で、国土の9割が山間地および高原です。ですから、主要な耕地や集落は、谷間ごとに、他から遮断された形で存在しており、集落を結ぶ交通網が、あまり発達していないという状況も手伝って、全体的に小規模な集落が、それぞれ分断された形で存在しているといった特徴があります。ペルーが、しばしば「群島国家」と形容されるのは、このような地理的な特徴があるからです。

 一方、国土の1割を占める海岸の平野部は、そのほとんどが砂漠ですが、水が無いというわけではなく、アンデス山脈から太平洋に流れ込む地下水脈が、沿岸部でオアシスとなって点在しています。

 というわけで、沿岸平野部の農民は、このオアシスを利用して、大規模な灌漑事業を行って、農産物の生産を営むようになりました。逆に、山間部の農民は、土地の狭さと、輸送手段の欠如による商業活動の制限などで、そのほとんどが小作農という結果になっています。

 つまり、ペルーの地理的特徴が、沿岸平野部で富裕農民層を産み、山間部では貧困層に属する小作農民を生んだと理解すればいいでしょう。実際、ペルーでは、ごく最近まで沿岸部の少数の富裕層(白人中心)と山間部の貧困層(インディオ中心)以外の中間層が、ほとんど存在しない国だったのです。

2.独立から現在までの様子を教えてください。

 19世紀初頭、アメリカ合衆国の独立、フランス革命、ナポレオンのスペイン侵攻などがきっかけとなって、南米各地でスペイン植民地勢力に対する抵抗・独立運動が活発になります。シモン・ボリバルなど独立運動指導者は、それらの運動を一つの勢力としてまとめあげてスペイン勢力と対決。結果、1825年のボリビアを最後に、南米スペイン植民地の独立が完了したわけです。

 1821年に独立宣言を行ったペルーも、当初はスペイン勢力と戦った軍人が政権を発足させたわけです。しかしながら、他のラテン・アメリカ諸国と同様、独立当初は、非常に不安定な統治の時期が続きました。しかも、前に触れた通り、ペルーは、その形態が「群島国家」ですから、国としてのまとまりを保つのも、かなり難しい状況でした。

 ところで、天然資源に乏しいペルーが、一時期、輸出産業で潤った時期がありました。チリとペルーの沿岸部は、海鳥のフンが堆積して出来た、グアノと呼ばれる肥料の世界的生産地として有名ですが、1840年代、このグアノは、主に肥料用としてイギリスに輸出され、ペルーに莫大な富をもたらしました。

 しかし、グアノの生産量の低下、化学肥料の開発などで、グアノ産業は、ほどなく停滞。以後、ペルーは綿花、砂糖、イワシの魚粉などで、細々と外貨を稼ぐ状況に移行していくわけです。

 一方、グアノとともに輸出産業の花形だった硝石資源に関しては、産出地が、ペルー南部からチリ北部にかけて集中しているということもあり、この所有権をめぐって、チリがボリビア・ペルー連合と対立。1879年に「太平洋戦争」という戦争に発展しました。

 この戦争では、「群島国家」ペルーの弱さが如実に現れることになりました。山間部の小作農民がチリの軍事侵攻に団結して戦う一方で、富裕層の大土地所有農民は、チリ軍と手を結んで小作農民を抑圧するといった行動に走り、ペルーは内部崩壊に至るのです。

3.ペルー革命とはどういうものでしたか?

 「群島国家」ペルーでは、独立以来、「ペルー国民」としての認識が他国ほど確立されておらず、また、社会改革の中心となるべき中間層の発達も無いことから、①主に沿岸部を中心とする白人富裕層と②山岳地帯を中心とするインディオなどの貧困農民層が、それぞれ独立して存在するという、特殊な社会構造になっているわけです。

 このような社会構造で、必ずと言って良いほど出てくるのが共産主義です。特に、富裕層と貧困層がこれほどはっきり分かれているペルーでは、早くから、共産主義勢力が台頭しました。しかしながら、この社会構造に対する危機意識が高かったペルーでは、その社会構造の改革に向けて、軍が共産主義より大きい役割を担ったのです。その具体例がベラスコ将軍の改革でした。

 1968年、軍事クーデターで権力を掌握したベラスコ将軍が行った、外国資本の国有化、農地改革による富裕農民層の解体などの一連の改革は「ペルー革命」と呼ばれ、南米で最大規模の改革となったのです。

 しかし、急速な改革は経済の混乱をもたらし、結局75年には穏健派のクーデターで強硬派の軍政は破綻。80年には民政への移管が実現しました。

 ところが、民政移行直後に南米を襲った債務危機がペルー経済を直撃し、ペルーは再び混沌とした社会状況に転落。この時期に、山岳部で、共産党組織のセンデロ・ルミノソ(PCP)やトゥパク・アマル革命運動(MRTA)などの社会主義ゲリラ組織が編成されることになりました。

 ペルー経済は85年のガルシア大統領のもとで、一時期息を吹き返しましたが、88年以降再びマイナス成長に転じ、90年の大統領選挙では、従来型の政権とはまったく違った視点で改革を訴えかけた日系二世のアルベルト・フジモリ氏が大統領に当選して、南米初の日系大統領になりました。

4.フジモリ大統領とはどんな人?

 フジモリ大統領は、熊本県出身でペルーに移民した両親の二世として、1938年の独立記念日に当たる「七月二十八日」に「リマで生まれた」とされています。

 しかしながら、一部の現地報道では、フジモリ大統領が「日本国内か、ペルーに向かう船上で生まれた可能性がある」としており、ペルー憲法は大統領の資格を「ペルー生まれのペルー人」と定めているため、大統領選挙でも、この点が争点として問題視されたりしました。

 フジモリ大統領はまた、その温和な顔とは対照的に、かなり強権的な政策を次々と出して、ペルーの改革に力強く取り組んでいきました。92年には内政状態の混乱を正すため、なんと憲法停止などの非常措置を発動。センデロ・ルミノソやトゥパク・アマル革命運動等のゲリラ組織を徹底的に壊滅させて、治安の回復に成果を上げ、95年の大統領選挙で再選されます。

 外交面では、95年にエクアドルとの国境紛争に武力で決着をつけたほか、96年の年末から97年の4月まで続いたトゥパク・アマルによる日本大使公邸占拠事件では、特殊部隊突入で、犯人全員を射殺し事件の解決を図りました。

 しかし、この頃からフジモリ大統領は次第に強権的になり、司法やマスコミに対する政治介入が顕著になっていきました。2000年の大統領選挙も、かなり荒れたものになりました。というのも、「再選は一回だけ」と明記しているペルー憲法をすりぬけて、三回目の選挙に臨んだフジモリ大統領に対する風当たりは最初から厳しいものがあり、対立候補のトレド候補を支持する民衆は、選挙自体を不正として、フジモリ大統領の辞任を要求しました。

 選挙結果は、半ば強引にフジモリ大統領の三選が確定したわけですが、その直後にフジモリ政権の陰の実力者として国軍、警察などに幅広い人脈を持つモンテシノス顧問が、野党政治家を金で買収する現場のビデオテープが公開され、大統領の辞任を要求する声が高まりました。

 結局、大統領側と野党側は、フジモリ大統領の任期を2001年7月28日までとすることで合意。パナマへの亡命が失敗に終わったモンテシノス顧問も、大統領側が身柄を拘束することで決着しました。ということで、新たな大統領と新たな国会議員を決める選挙が2001年4月10日に行われ、アレハンドロ・トレド氏が、先住民初の大統領として就任しました。

5.ペルーの現状は?

 さて、先住民期待の星として大統領に選出されたトレド氏でしたが、経済政策に失敗し、左翼ゲリラ組織のテロ活動も再開して、国民の支持を失い、2006年に大統領選挙では、1985年に大統領になってペルー経済を盛り返した実績のあるアラン・ガルシア氏が再選することになりました。ところが、ペルー経済は復調するどころか、貧富の差は広がり、汚職は悪化。治安の悪化も進み、2011年の選挙では、フジモリ元大統領の娘のケイコ・フジモリ候補と貧困層の代表を掲げるウマラ氏が決選投票を行いますが、僅差でウマラ氏が勝利。大統領に選出されました。

 貧困層の期待を背景に、ウマラ氏は様々な社会制度を導入。富裕者層の既得権益を取り崩す政策を進めましたが、様々な抵抗に会い、厳しい政権運営を強いられることになりました。

 2016年の大統領選挙では、ケイコ・フジモリ候補とクチンスキー候補との決戦投票となりましたが、ケイコ氏はまたも僅差で敗れました。

 クチンスキー政権は2021年のペルー独立200周年に向けて、インフラの整備、教育の質の向上、医療サービスの改善などを推し進め、環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定(TPP11協定)に積極的に参加するなど、安定した政権に運営を続けていたかに思えましたが、2018年3月に起こったブラジルの汚職事件が飛び火した形で嫌疑をかけられ、自ら辞任。現在は第一副大統領だったビスカラ氏が新大統領として国を率いています。

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