ベネズエラ・ボリバル共和国

出典:外務省HP

1.ベネズエラの歴史について教えてください。

 ベネズエラは、1498年、コロンブスの第3回目の航海で発見されましたが、国名は、マラカイボ湖の水上生活が、ベニスのゴンドラに似ていることから、小さなベニス(ベネス・エッラ)と名付けられたのだそうです。

 さて1830年に分離独立するベネズエラでしたが、以後パエス初代大統領のもとで、主にコーヒー生産と貿易をもとに急速に力を貯えつつあった商業資本家が政権と密接に絡んで保守党をつくり、以後保守党を中心とする中央集権制度が始まりました。

 これに対し、コーヒー価格の世界的下落の影響を受けた大土地所有者が中心となって、分権を求める自由党が40年に結党。以後、基本的には、中央政府に資本家が絡んだ保守勢力と、地方の、主に農業を営む大土地所有者を中心に分権を主張する野党勢力との対立構造が現在まで続いています。

 19世紀には世界有数のコーヒー産地、20世紀初頭には産油国となったベネズエラは、基本的にはそれほど貧しい国ではなく、どちらかというと、国の資源をいいとこ取りする一部の資本家と、一般国民との経済力に、大きな隔たりがあることが、この国の政治に対する不満につながっているということができます。

 さて1900年代初頭、油田が発見され、産油国になったベネズエラは、73年の第一次オイルショックによる石油価格の高騰が幸いして、一時期、ラテン・アメリカで、もっとも豊かな国となりましたが、その後の経済政策の失敗や頻繁な政権交代によって、結局国民にその利益が分配されないという問題を常に抱えていました。

 特に、1908年から35年まで長期政権を維持したゴメス大統領は、石油収入を道路や電信など、国内のインフラ整備に使う一方で、中央政府および、中央と結ぶ一部資本家の権力の肥大化を招きました。これが国民の反感を買い、45年のクーデターにつながります。

 45年10月、ベネズエラで初めてのクーデターが、労働者、農民、青年将校などの手によって引き起こされ、それまで一握りの上部エリート集団の独壇場だった政治が、一般大衆にも開放されます。これにより、47年に新憲法が制定され、民主行動党(AD)のガリェゴス大統領が誕生します。

 同政権は、農地改革や産業育成政策を通じて、社会的弱者救済の道を模索しましたが、特権を失うことを恐れた保守派と軍が翌年クーデターを起こし、ガリェゴス大統領を暗殺。ベネズエラは再び特権階級が幅を利かせる中央集権国家へと逆戻りしてしまいました。

 この保守政権に対する第2回目の挑戦が59年の、ベタンクール政権でした。反保守派のベタンクール氏は、暗殺されたガリェゴス大統領の路線を引き継ぎ、地方への権力の分散、外国資本が握っていた石油の国有化などを推し進めましたが、なかなかうまく行きません。結局、経済政策の失敗によって、物価は急騰し、これに耐え切れなくなった農民や労働者の暴動が頻発しました。

 ベタンクール政権を引き継いだレオニ政権も、経済の疲弊に対し打つ手が無く、従来は民主行動党の支持母体であった労働者組合や、各地で起こる反政府運動などに対して弾圧を繰り返した結果、民主行動党は急速にその影響力をなくしていきます。

 そんな中、69年にベネズエラで最初の民主選挙が行なわれ、保守党でも、民主行動党でもない第三政党のキリスト教社会党(COPEI)に票が集中し、カルデラ大統領が選出されましたが、結局、経済の停滞に対して打つ手が無いのはここも同じ。74年には反政府諸派からなるペレス政権が誕生しました。

 ベネズエラの経済状態は、このペレス政権下で、一時的に好転します。73年の第一次オイルショックで石油の価格が全世界的に高騰し、産油国ベネズエラも、その恩恵にあずかったからです。

 しかしながら、この一時的な好況も、その後80年代の石油価格の低迷によって、元の木阿弥。結局、石油価格の高騰は、石油産業に絡む外国資本を潤しただけで、食料を含む生活必需品のほとんどを輸入に頼る国民は、逆に石油の高騰によるインフレに悩まされつづけることになります。

 結局、国内産業のほとんどが外国資本で運営されているという特異な経済体系の中で、地場産業の健全な育成を達成するのは容易なことではなく、ベネズエラの経済は低迷を続けます。財政赤字も増大し、89年にはIMFの指導で緊縮財政政策を導入しましたが、その政策に反発した市民が暴徒と化し、600人以上の死者が出る騒ぎとなりました。また、対外債務赤字も膨れ上がり、98年には、その額も220億ドルに膨れ上がりました。

2.チャベス大統領の登場

 このような経済的疲弊の中、とんでもない事件が起こります。ペレス大統領が公的資金を流用した疑いが露見したのです。ベネズエラでは、上層部特権階級の汚職は、日常茶飯事のこととなっており、汚職をしても、それが特権階級の内部で行なわれているため、なかなか表面化してこなかったという経緯がありました。

 しかしながら、経済的低迷で疲弊する国民が、特権階級、特に大統領の汚職を黙ってみているわけはありません。その国民の怒りの乗じてクーデターを主導した人物が、当時空挺部隊司令官だったチャベス氏でした。92年2月、チャベス氏はペレス政権の汚職体質を非難して、1万人規模の反乱兵士とともにクーデターを起こしますが、半日で鎮圧され、94年までの2年間、投獄されることになりました。

 結局、ペレス大統領は93年、裁判によって有罪となり、かわりにカルデラ政権が誕生するのですが、チャベス氏は、このカルデラ大統領の恩赦によって釈放となったわけです。

 98年12月の選挙は、このカルデラ大統領の任期終了に伴う選挙でしたが、「政治の腐敗に敢然と立ち向かった若き将校」という、チャベス氏の人気は絶大で、ベネズエラ二大政党の、民主行動党、キリスト教社会党などが束になって支持するサラス元カラボボ州知事を敵に回して、一歩も引けを取らないばかりか、大差をつけて当選してしまいました。

 ベネズエラでは、既成政党以外から大統領が選出されるのは前代未聞のことです。これには、94年の金融危機発生以来、危機的な状態が継続するベネズエラ経済の立て直しと、クリーンな、新しい政治勢力への期待が込められていることは確かです。

 99年2月に大統領に就任したチャベス氏は、直ちに新憲法の制定に取りかかり、同年末に国名を独立の英雄シモン・ボリバルの名前を入れた「ベネズエラ・ボリバル共和国」に変更して、民衆の民族意識を高めます。2000年7月には、新憲法採択後、初めての大統領選挙が行われ、チャベス大統領が再選され以後彼がガンで死去する2013年まで大統領を続けることになります。

3.ベネズエラの現状

 米国を中心とした海外資本に抑圧され続けてきたベネズエラ国民の解放者というイメージ先行で国民の圧倒的な支持を得たチャベス氏でしたが、経済面では明かりが見えない状況で、国内総生産(GDP)の伸び率は99年はマイナス7.2%と大きく落ち込むことになります。

 また、「21世紀の社会主義」を掲げ、貧困層救済のために財政支出の大幅な拡大を宣言したチャベス氏でしたが、財政赤字は、当時すでにGDPの3%を超えていて、実現性に問題がありました。行き過ぎた国有化と止めどもない財政支出がベネズエラ経済を次第にむしばんでいくことになります。

 「米国嫌い」のチャベス大統領は、OPEC(石油輸出国機構)の場でも、アメリカが支持する増産政策に真っ向から反対したり、湾岸戦争時には、自らイラクに出向いてフセイン大統領と共闘を誓うなど、徹底した反米主義を貫きました。経済的にも最大の投資国であったアメリカを排除して、中国の投資を積極的に受け入れる方向に方針転換して、中国はチャベス政権時代から600憶ドルを超えるといわれる投資を行ってきました。中国は現在、エクラドル原油の最大の輸出国であり、エクアドル最大の債権国になっています。

 この中国頼みの政策は2013年にチャベス大統領の後を継いだマドゥロ大統領にも引き継がれますが、2015年ごろから顕著になった原油価格の世界的下落が原因で、ベネズエラ経済は破綻状態に陥っています。サウジアラビアに次ぐ原油埋蔵量を誇り、1980年代には南米で最も裕福な国となったベネズエラは2019年末、9000%を超えるハイパーインフレーションに直面。さらには新型コロナウイルスの蔓延による世界的石油価格の下落の直撃を受けてエクアドル経済の再生には暗雲が立ち込めています。

 2020年にはマドゥロ大統領がアメリカの司法省から麻薬密売や汚職の罪で起訴されるという異例の事態になっており、アメリカの支援するグアイド氏が暫定大統領へと名乗りを上げるなど、政情はさらに混とんとしてきました。

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