ベトナム社会主義共和国

出典:外務省HP 

1.ベトナムの歴史を教えてください

 ベトナム人がどこから来たのか、ベトナム人の祖先は誰なのかという、ベトナムの起源に関する研究には、現在これといった定説はないのですが、紀元前8000年ごろの石器時代の遺物が数多く出土されるために、かなり昔からこの地に文化が開けていたという観測があります。伝説ではフンブオンという王朝が栄えた青銅器時代がベトナムの基礎になっているということですから、それが本当なら、ベトナムにはかなりの歴史があるということです。特に紀元前後の数世紀にわたっては、ドンソン文化と呼ばれる、かなり高度な青銅器文化が存在したことが数々の考古学的発見で明らかにされています。

 さて、ベトナムが初めて歴史に登場するのは中国の支配に組み込まれた紀元前2世紀です。当時の漢の武帝は、広東以南を支配する南越王国を滅ぼしますが、そのとき現在のベトナムの版図となる地域に交趾、九真、日南の三郡が設置され、以後ベトナムは10世紀まで中国の支配下に入ります。

 ちなみに、「指南をうける」という言葉がありますが、これは中国がベトナムに軍を送るときに、方位磁石を取りつけて、常に南を指す車(指南車)とともに行軍したことから「進むべき道を示す」、「教え導く」という意味に使われるようになったものです。

 さて、漢が滅び、中国に戦国時代が到来するとベトナムにも独立の動きが活発化し、ベトナム北部は938年、ゴ・クエンによって史上初の独立を達成します。クエン死後の内乱で再び中国(宋)の干渉を受けた北部ベトナムは993年、レ・ホアンによって再統一され、1009年にはリ・コン・ウアンが実権を掌握します。このリ(李)氏は、首都をハノイに移し、国名をダイベト(大越)として、比較的長期にわたる政権を維持しました。

 この李朝も、1225年の内乱によって滅び、代わってチャン(陳)氏一族がベトナム北部を支配します。当時中国を支配した元は、13世紀末、3度にわたって陳朝ベトナムに兵を送りますが、これを3度とも撃破したことが、ベトナム人の誇りとなっています。ここら辺は、元寇を2度にわたって撃退した神風国家日本と似ていますね。しかし、陳朝は1407年、中国(明朝)の干渉を受けて滅亡。代わって明朝勢力を撃退したレ・ロイが1428年にレ(黎)王朝を築き上げ、北部ベトナムは19世紀まで続く第二期の長期王朝の時代に入ります。

 さて、いままでベトナムを「北部ベトナム」と限定してきましたが、そのわけは、ベトナム中部に、北部とまったく違った王朝が独立して存在していたからです。チャンパと呼ばれるこの王朝は、チャム族によって建国された王朝で、2世紀に中国から独立した後、まわりからの度重なる侵略によって国力を衰退させつつも、17世紀まで続いた強国でした。インドの文化的影響を強く受けたこの王朝は、中国、東南アジア、西アジアを結ぶ海上中継貿易の拠点として栄え、高度な建築技術で数々の寺院や宮殿を作りました。

 しかし9世紀にはジャワ、12世紀にはカンボジアのアンコール朝、13世紀には中国(元)という外国勢力の侵攻を受け、また、10世紀以降は北部ベトナムの度重なる侵略を受けたチャンパ王朝は、そのたびごとに版図を狭めていきます。結局15世紀に、北の黎朝ベトナムの攻撃で首都ビジャヤ(現在のビンデイン)を失ってからは北部ベトナムの保護領として急速に衰退。南に逃れた残党も17世紀にはすべて北部ベトナムに併合されてしまいました。

 ベトナムが初めて今日のような国家の様相を確立したのが18世紀、グエン朝による統一以降でした。当時三つに分裂していた北部ベトナムは1771年、グエン三兄弟が率いる農民反乱(タイソン党の乱)によって平定され、13年間、グエン・バン・フエ率いるタイソン党の支配下に入ります。フエ氏は、さらに南進して南部ベトナム、つまり、現在のメコン川河口付近にあった、中国人が支配する小国家を帰属させます。これで北部、中部、南部を抑えたフエ氏によるベトナム統一が完成したわけですが、フエ氏の死後、南部で足固めをしていたグエン・フォック・アイン(後のザロン帝)が1802年、フランスと対の協力を得て北部ベトナムに進軍してそれを併合。これによって、北部、中部、南部のベトナムをすべて統一するグエン王朝が成立したのです。

 さて、このグエン朝が現在のベトナムの基礎をつくったということですが、逆にいうと、現在のベトナムの基礎が出来たのは19世紀に入ってからで、それ以前は、北部、中部、南部と、それぞれ文化も歴史も支配者も違った王朝がベトナムを形づくっていたということです。ですから、今後ベトナムと付き合うときにも、観光で出かけるときにも、このような国家の性質を知っておけば損はないでしょう。

2.フランスの植民地化

 19世紀、インドシナ半島進出を狙っていたフランスは、武力を背景にベトナムを次々と植民地化していきました。イギリス、フランスに代表される19世紀の列強は、早い話しが、やりたい放題でした。イギリスは貿易赤字解消のために、麻薬を中国に売って稼いでいましたが、それに中国が反対すると、それを口実に軍事力で香港などを奪い取っていくという手法を取りました。フランスも負けじと、さまざまな口実でベトナムに腰を落ち着け、そこから中国の広州へ北上して行くという戦略を取ったのです。1858年、フランスはベトナム侵攻を開始しますが、その口実に使われたのがスペイン宣教師の処刑問題でした。実際にはフランスとは何の関係もない事件なのですが、当時の列強はそういう口実をよく使ったのです。

 さて、1862年、メコン川下流地域を占領したフランス軍は「フランス・スペイン・アンナン講和修好条約(第一次サイゴン条約)」を結んで、ベトナム南部の3州を割譲させ、これによってフランス領コーチシナが成立します。条約の中にちゃんと「スペイン」の文字が入っているところが偽善的ですね。ちなみに、このときに得たメコン川の遡行権によって、フランスのカンボジアおよびラオス支配の道が開けるのです。

 さて、73年の侵攻はもっと露骨でした。北部ベトナムへの進出をもくろんだフランスはソンコイ川デルタ地帯を攻撃し、翌74年にフランス・アンナン講和条約(第二次サイゴン条約)を結んで、ソンコイ川の遡上権と、フランス領コーチシナ西部の割譲を正式に認めさせます。

 1883年にはフランスの北部侵略が本格化します。フランスはまず中部にあるグエン朝の都フエを攻撃し、第一次フエ条約を結ばせ、ベトナム中部をアンナン王国というフランスの保護国にします。それを不服とする北部指導者は中国(清)に援軍を求め、フランスと戦いますが、あっさりと負けてしまい、84年、フランスは第二次フエ条約によってベトナム北部をアンナン王国から切り離してフランス保護領トンキンとして、その主権を認めさせました。これでフランスによるベトナムの植民地化は決定的なものとなり、87年、ラオス、カンボジアと共にベトナムはフランス領インドシナ連邦の中に組み込まれることになったのです。

 さらに98年、フランスは日清戦争で弱体化した中国に対して清仏条約を強要して、ベトナム北部と雲南省を結ぶ鉄道の敷設と、広州湾を99年間租借する権利も手に入れ、1900年には、その広州湾が、また1907年にはタイ(シャム)から東部3州が、それぞれフランス領インドシナ連邦に編入されました。

3.第二次世界大戦後のベトナムの動きについて教えてください

 フランスのベトナム統治に対しては、当初から反乱が相次ぎ、それは第二次世界大戦次の日本の侵攻まで続きました。その中で、1925年にはホー・チ・ミン氏の率いるベトナム青年革命同志会が結成され、30年にはこれがベトナム共産党に発展。またこの時期に実力でベトナムの独立を目指すベトナム国民党が生まれますが、いずれもフランスの弾圧で崩壊してしまいます。

 しかし、第二次世界大戦で日本軍がインドシナに進駐すると、ベトナム共産党は41年、ベトミン(ベトナム独立同盟会)を組織して、日本とフランスに対する独立運動を展開するようになります。戦争末期の45年、日本はフランス領インドネシア連邦を解体。グエン朝13代皇帝バオダイを宗主とする独立国家としてベトナムの独立を承認しますが、この王朝は5カ月と持ちませんでした。というのも、そもそも終戦間近の日本軍に政権を維持する力がなかった上に、ベトナム北部の飢饉が追い討ちをかけ、国内が大混乱したからです。200万人と言われる餓死者と反日運動の中でベトミンが勢力を伸ばし、日本降伏直後の9月2日にバオダイ政権が崩壊。かわって、ホー・チ・ミン氏が率いるベトナム民主共和国が成立しました。

 この一方的独立を見てあせったのがフランスです。彼らは45年にベトナム侵攻を開始し、失脚したバオダイを擁立して、南部にバオダイ・ベトナム国をつくったりしましたが、結局54年のディエンビエンフーの戦いでベトミン勢力に敗れ、撤退を余儀なくされます。この一連の戦争を第一次インドシナ戦争と呼びますが、注目すべき点は、ベトナム南部のフランス勢力をアメリカが強力に支援したということです。つまり、北部の共産勢力に対するアメリカ勢力という図式が、この戦争ですでにできあがってきているわけです。

 第一次インドシナ戦争の結果、北緯17度線を境界線として、北に共産党支配のベトナム民主共和国、南にバオダイ・ベトナム国が並立するということになったわけですが、冷戦期のアメリカがこの状況を黙ってみているわけがありません。どうしても南ベトナムに拠点を置いて、北の共産勢力を撃破したいアメリカは、55年、バオダイを退け、ゴ・ディン・ジェムを担ぎ上げて大統領とし、ベトナム共和国を建国します。

 しかし、アメリカからの強力な支援を受けたゴ・ディン・ジェム政権は、地元民からは不評を買っていました。土地改革などの貧困層対策が失敗に終わり、小作人は、しばしば反乱を起こしていました。1960年には反米、反政権を叫ぶ南ベトナム解放民族戦線が結成されますが、それを見たアメリカは、南ベトナムのなかで共産勢力が拡大することを恐れて軍事介入。第二次インドシナ戦争(ベトナム戦争)が勃発します。63年にはとうとうジェム政権がクーデターで追われますが、それを見たアメリカは大量に軍を投入。64年には北ベトナムに対する爆撃(北爆)を開始します。

 しかし、50万人といわれる兵力の導入にもかかわらず、アメリカの旗色は悪く、68年以降は国内の反戦運動と財政悪化にも影響され、73年のパリ平和会議によって、とうとうベトナムからの撤退を余儀なくされました。アメリカ軍撤退後の75年、サイゴンが陥落し、南ベトナム臨時革命政府が成立。76年の統一選挙で南北ベトナムが統一され、ベトナム社会主義共和国が誕生したというわけです。

 統一後のベトナムは、隣国カンボジアの内戦に介入。1978年に大軍を送ってポル・ポト政権を排除して、へン・サムリン政権(プノンペン政権)を樹立。10年間カンボジアを間接的に統治することになります。これに怒ったのはポル・ポトを支援していた中国でした。当時中国は同じ共産圏でありながらソ連と仲が悪く、ソ連の支援を受けるベトナムにも敵対心を燃やしていましたから、1979年にベトナムに侵攻を始めて、ベトナムと、その背景にあるソ連の影響力を排除しようとします。ところが、アメリカ軍に勝利した経験豊富なベトナム兵士は、逆に中国軍を徹底的に撃破。中国側は悲惨な完敗を喫することになりました。

 ベトナムの歴史が中国の侵攻に対する戦いの歴史であったことを考えると、ベトナムと中国の仲が悪いのは必然なのかもしれません。中越の不仲な関係は現在にも引き継がれていて、南シナ海の南沙諸島と西沙諸島の領有権問題は未解決のまま現在に至っています。

4.ベトナムの「ドイモイ」政策とはどのようなものですか?

 ドイモイ(刷新)というのは、一言でいえば、ベトナム社会主義共和国に自由主義経済システムを導入する政策のことです。ベトナム戦争が終結した翌年の1976年、南北ベトナムは統一され、共産党独裁によるベトナム社会主義共和国が誕生したわけですが、当初ベトナムは社会主義的な統制経済システムで国家の再建を図ろうとしました。ところが、何をやってもうまくいきません。さらには、緊張関係にあったカンボジアと中国の国境の防衛のために、肝心の若い労働力が召集されたことも手伝って、経済は著しく低迷することになりました。

 そこで政府が打ち出したのが、第1回目の経済改革でした。79年に打ち出されたこの「新経済政策」は、農業部門での規制緩和を重点とした、言ってみれば「誰が何をつくって売ってもかまわん」というシステムでした。これが功を奏して80年代初期には経済が復調するのですが、すぐに悪性のインフレが発生したため、政府は85年に第2回目の経済改革として、政府の統制価格システムを、生産-流通-分配-消費の過程で全廃する法案を決議します。しかし、この改革も実施直後から大きな混乱を招き、インフレはさらに進行することになるのです。

 何をやっても失敗続きの政府が、86年の暮れに採用したのがこの「ドイモイ(刷新)」路線でした。「ドイモイ」は、崩壊後のソ連邦におけるペレストロイカや、中国の対外開放路線の展開と同じものだと考えれば良いでしょう。つまり、社会主義経済システムで行き詰まったベトナムが、自由主義経済システムに移行していこうという意思の表れが「ドイモイ」だったというわけです。これによりベトナムは社会主義的統制経済システムと、従来の鎖国状態を少なくとも当面は放棄することになりました。88年には外国投資法を完備し、外資の導入に積極的に取り組みだしてからのベトナム経済は、90年代初期から大きく飛躍することになります。

 対外的には、不安定だったカンボジア国境地帯も、91年のカンボジア和平協定でケリが着き、同年中国との国交も正常化しました。さらには「ベトナム戦争時に行方不明になったアメリカ兵の捜索に対し積極的ではない」という、いわゆるMIA問題から長年にわたって経済制裁を継続してきたアメリカも93年には歩み寄りをみせ、IMF(国際通貨基金)の新規融資による石油開発や通信分野の事業に参入を開始。95年7月には、ベトナム戦争終結後20年ぶりに国交正常化に踏み切りました。また、同年ベトナムはASEAN加盟を実現するなど、外に向けた経済活動を着々と進めていきました。

5.ベトナムの現状は?

 ドイモイ政策の導入によって経済の自由化を推し進めたベトナムでは90年代から経済が急成長します。当初は、ベトナム沖の油田開発や内陸の鉄鉱山開発などに集中して外資が参入しましたが、最近では人件費の高騰などでコスト高になった中国を嫌った企業が、若年人口を多く抱え、雇用コストを抑えられるベトナムに生産拠点をシフトする傾向があり、ベトナム経済の成長を確固たるものにしています。2018年のGDPは2001年の6倍以上で、2021年には一人当たりのGDPが3000ドルを超えるという試算がなされています。

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