ブータン王国

出典:外務省HP 

1.ブータンはどのような国ですか?

ブータンという国の正式名称はドゥルク・ユルといい、「竜の国」という意味だそうで、国旗にも竜が描かれています。九州を一回り大きくした国土に約160万人しか住んでいないという過疎国ですが、国土は北がヒマラヤにつながる高山地帯、中部は温暖湿潤な平野、南部が亜熱帯性の森林地帯で虎や豹などの野生獣が生息するジャングルと、まるで、世界の気候がすべて集中しているような雰囲気があります。

 国家の形態も変わっていて、1910年から49年にかけては、イギリスに、49年から2007年まではインドに、それぞれ外交を依存してきました。人口が少ないことも手伝って、農地はほとんど均等に国民の間に分配されており、貧民層は無く一人あたりの国民総生産もインドよりは上なのですが、長い間、鎖国と同様の政策を行なってきたため、道路も電話もテレビも、国内に浸透したのはごく最近のことです。

 ブータンで一番特徴的なのは、1972年に第四代ワンチュク国王が導入した、「国民総幸福量(GNH)」という新しい尺度です。国家の経済力を数字で割り出す国民総生産(GNP)や国内総生産(GDP)、国民総所得(GNI)などと違って、国民の幸福度や精神面での世高さを数値化する手法です。「国民一人当たりの幸福量を最大化する」ことが国の役目であると定義するブータンの政治姿勢は、なんだか、聞いているだけでこちらが幸せになりそうな、素敵な言葉ですね。

 昭和天皇陛下が崩御された際には第四代ワンチュク国王陛下が葬儀に参列。ブータンも国を挙げて1か月の喪に服してくださいました。現在の第5代ワンチュク国王陛下は、関東大震災直後の2011年、成婚されて間もないペマ王妃と共に訪日して、真っ先に被災地を訪れて被災者を励まされた姿が印象的でした。聖人君子という言葉が一番ぴったりくるのがブータン王国の国王です。

2.ブータンの歴史

 さて、ブータンの名前が歴史に登場するのは、9世紀に北部のチベットに征服されて以来ですが、このとき「チベットの端」という意味の「ブータン」という呼び方ができたのだといいます。ブータンを国家として整備し始めたのも、チベット人でした。1616年、チベット仏教の高僧ガワン・ナムギャルは、ブータンに移住して宗教を広めると同時に、ブータンの行政機構を整備して、最終的には第一代の法王としてブータンの統治を始めることになったのです。この法王制による支配は約2世紀半続きますが、1907年には法王の権限がさらに強化されます。現在の王室の創始者であるウゲン・ワンチュク法王は、自ら行政機構の長も兼ねる「国王」となり、以後ブータンは、宗教指導者が国政も受け持つ神政国家として現在に至っています。

チベット仏教の影響を受けたブータンでは、次期法王(国王)は、有力な家系の中から選ばれた者に、前法王が転生すると信じられており、現実には世襲制に近いシステムとなっています。ちなみに現在の国王であるジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク王は、1907年から続くワンチュク王家第5代目の王です。

 さて、17世紀に法王政が始まって以来、しばらくはチベットと密接な関係を保っていたブータンでしたが、18世紀に入るとチベットが中国(清朝)の征服を受け、その属国だったブータンも、一時中国の支配下に置かれることになりました。19世紀になると、インド支配に乗り出したイギリスと衝突することになります。1826年にアッサム地方を併合したイギリスは、65年にブータン南部のドゥアル地方に進出。ブータン戦争によってそれを併合します。

 南の出口をふさがれたブータンは、以後、イギリスとの関係を強化して行きますが、1910年には、イギリスから補助金を受けるかわりに外交面はイギリスが受け持つという条約が締結され、以後、ブータンは陸の孤島として、半鎖国状態のまま時を過ごすことになります。47年にインドが独立した後も、この体制は継続され、49年の「インド・ブータン友好条約」では、インドが財政支援をするかわりに、ブータンの外交をインドが受け持つことになり、この関係は現在まで続いています。

 インドとブータンの結びつきは強く、特に第3代国王ジグメ・ドルジ・ワンチュクの時代には、インドの財政支援を受けてブータンの近代化が推進され、一院制の国民議会、裁判所なども設立されましたが、すべての決定は、最高意志決定者である国王が行いますから、憲法は無く、行政も国王が任命した閣僚会議と、その諮問機関である王室顧問会議が実行するという、まさに絶対君主制です。1969年には、自らの要望で、国王が3年ごとに国民議会の信任投票を受けることになりましたが、万が一、不信任となった場合でも、後継者はワンチュク王家から王位継承順位にしたがって選出されるということになっています。

 ブータンのこのような強力な王政も、一度だけ民主化要求の波にもまれたときがありました。90年、隣国ネパールで王政廃止、民主化を唱える大規模なデモが頻発すると、その熱気がブータンにも伝わり、ブータンの民主化運動に火をつけたのです。しかしながら、この運動は1年も絶たないうちに沈静化しました。というのも、反政府運動の大部分の運動家が、自ら進んで、一部は強制的に、ネパールなどに移住してしまったからです。これらの運動家は、現在ブータン難民としてキャンプ生活を行なっていますが、ネパール・ブータン両国ともに、その返還については難色を示しています。

 また、民主化も、どちらかというと国王のほうが積極的で、国民全体の教育レベルを上げ、将来の民主化に備えるために、教育改革と抱き合わせで行なわれており、また、テレビ解禁、電信電話の敷設、インターネットの導入など、諸外国の情報をより手に入れやすくするための改革が、第四代ジグミ・シンゲ・ワンチュク国王主導の下で行われ、98年6月には、自ら内閣(閣僚会議)を若返らせる改革を主導しました。そして、2005年、自ら王政から立憲民主制に移行することを宣言。翌2006年に退位して、息子のジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュクに譲位します。第5代ワンチュク国王は2007年に史上初の普通選挙を実施して、新憲法を制定します。新憲法では、国王を不信任と決議する権利を国会に与えているほか、国王が65歳で定年になることも、国王自ら定めています。2018年には第三回総選挙が行われ、ロティ・ツェリン首相が任命されました。

 そんな幸せの国ブータンの唯一の懸念材料が中国との国境問題です。ブータンと中国には帯状の係争地帯があるのですが、1990年代から20年以上にわたってこの係争地帯に中国が侵入して道路や人民軍基地の建設を進めており、ブータン政府が抗議を行っています。

 現在、日本とブータンの関係は非常に良好で、海外から来る経済支援の約3割が日本からきており、もちろん、支援国中最大となっています。また、英国の「サー」に相当する「ダショー」の称号を外国人として初めて受けた西岡京治氏(1992年死去)は、1964年から28年間、品種改良など同国の農業全般の指導を続け、「ブータン農業の父」と慕われたことで有名です。近頃では、ブータン産のマツタケが日本で手に入るようになりました。

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