ブルンジ共和国

出典:外務省HP

1.兄弟国の悲劇

ルワンダ、ブルンジ2カ国と、それに国境を接するザイール(現コンゴ民主共和国)における紛争と政変は、一見なんの脈略もない個別の問題だったかのように見えますが、実は密接に関係し合っています。ルワンダとブルンジは、もともと同じ国が2つに別れたものですから、当然、両国が抱える民族問題も軌道を同じくしていますし、さらに、ルワンダとブルンジでの紛争がなかったら、ザイールの政変も起こらずに、モブツ元ザイール大統領も、独裁者としての生涯をまっとうできていたかもしれません。以下では、複雑怪奇に見える中央アフリカの問題を、出来るだけ簡単に整理してみましょう。

 ルワンダでは1994年、ツチ族とフツ族の権力抗争がきっかけで内戦が起こり、多数の犠牲者と難民が発生しました。また、96年にはブルンジで、同様のフツ族対ツチ族の対立が再燃。内戦が勃発しました。この様に、ルワンダとブルンジの内政や民族構成には、数々の共通点があるのですが、それもそのはず。これらの国は、もともと一つの国として統治されて来たからです。

 1884年から85年にかけて行われたベルリン会議は、列強のアフリカ分割会議として有名ですが、この会議後、ドイツは中央アフリカに進出して勢力を拡大します。1890年にはブルンジ王国がドイツ領東アフリカに組み込まれ、ついで99年にはルワンダがドイツの勢力下に入ります。この時出来たのが「ドイツ領ルアンダ・ウルンジ」という自治領でした。ドイツ領ルアンダ・ウルンジは、第一次大戦直前の1916年にコンゴから勢力を伸ばしてきたベルギーに占領され、23年にその委任統治領となりましたが、それから62年まで、一つの国として扱われてきたわけです。二つ合わせて九州よりちょっと大きめの国ですから、分離独立するよりは、まとめて統治する方が理にかなっていたのでしょう。

 ということで、ブルンジとルワンダは、双子の兄弟といっても良いほど、何から何まで似ています。まず国土はほとんど同じ広さ。民族構成も約85%がフツ族、約14%がツチ族と、こちらもほとんど同じ比率です。主要輸出品がコーヒーというところまで同じ。かろうじて言葉だけはブルンジのルンジ語とルワンダのルワンダ語という違いがありますが、これも関西弁と標準語の違いのようなものだそうです。

 この様に、何から何まで似通ったこの兄弟国が、別々の道を歩み出すのが1959年です。第二次世界大戦後、ベルギーの国連信託統治領となった両国は、この年にそれぞれ内政の自治権を与えられたのです。この過程で数々の政党が生まれましたが、ブルンジでは王政を支持する国民統一進歩党が、ルワンダでは共和制を支持する民主キリスト教党が、それぞれ多数派を占めていました。そして61年、第一回の民主的な選挙が行われたわけですが、結果は王政支持の国民統一進歩党が圧勝。以後、ブルンジとルワンダは合併して、一つの国王の下に独立する道を歩んだかに見えました。

 ところが、大敗を喫した民主キリスト教党の指導者は怒りに燃えて、新しく選出された首相を暗殺してしまいます。結局、国連の調停もむなしく分裂してしまったブルンジとルワンダは、62年、それぞれブルンジ王国、ルワンダ共和国として独立することになったわけです。

2.ブルンジ内戦

 さて、1962年に独立したブルンジでは、しばらく王政が続きますが、国王に実質的な権力はなく、4年後の66年には、ミコンベロ大統領がいとも簡単に国王を追放して共和制を宣言。74年には共和国憲法を制定し、ブルンジ王国は、正式にブルンジ共和国になります。ツチ族対フツ族の対立のほうは、ルワンダほど激しく表面化しませんでした。もちろん、ツチ族主導の政権に対抗するフツ族の活動は、同様にブルンジでも繰り広げられていたわけで、特に72年には、フツ族のクーデター未遂事件発覚がきっかけとなって、死者1万、難民8万人を出す内戦が勃発したりしていました。

 しかしながら、それ以降80年代にわたって、部族間の対立関係は、それほど表面化しませんでした。その一番の理由は、ツチ族主導の政権による民族融和政策でした。76年のクーデターでミコンベロ大統領を追放したバガザ大統領は、ツチ族中心の政権にフツ族の閣僚を採用した最初の人でしたが、87年のクーデターでバガザ大統領を追放したピエール・ブヨヤ大統領も、ツチ族とフツ族の融和には、かなり気を使って来ました。その結果、88年に起こった小競り合いを除いて、ブルンジではしばらくの間、フツ族対ツチ族の対立が、大規模な紛争に発展することは無かったのです。

 ところが、ブルンジ史上初の民主選挙となる93年の選挙で、ブヨヤ大統領が、フツ族出身のンダダエ氏に破れ、ブルンジ史上初のフツ族主導政権が樹立されてからというもの、フツ族とツチ族の微妙な勢力バランスに狂いが生じてきます。ツチ族からすれば、ブルンジ王国以来のツチ族支配の伝統を、たかが一回の選挙で覆されてたまるかといった気分だったのでしょう。思いあまったツチ族将校たちは、大統領選出4カ月目のンダダエ氏を暗殺してしまいます。

 もともとこの暗殺計画は限られた一部の将校の手によってなされたもので、長く民族宥和政策にならされた国民の間では非常に評判が悪かったのですが、「ツチ族がフツ族の大統領を殺した」という事実は、それぞれの民族意識を呼び覚ます起爆剤になってしまいました。ツチ族に対するフツ族の報復は、死者5万、難民50万を生みましたが、以後執拗に続けられた「ツチ族狩り」は、ツチ族主体の軍部を刺激し、96年のクーデターにつながって行くことになります。ルワンダ内戦前夜のブルンジ国内も、ルワンダと同様に非常に不安定な状態だったわけです。

 さて、暗殺されたンダダエ大統領の後継者には、同じフツ族のンタリャミラ氏が選ばれますが、同氏の乗った飛行機は94年、同乗していたルワンダのハビャリマナ大統領と共に撃墜されてしまいます。このハビャリマナ大統領の死が、ルワンダ内戦の口火を切るわけですが、一方のブルンジでは後継者のヌティバンツンガニャ大統領(フツ族)のもと、しばらくは平静を保っていました。しかしながらルワンダにツチ族政権が成立し、難を逃れた大量のフツ族難民がブルンジに流れ込むという情勢の下、ブルンジでも次第にフツ族対ツチ族の小競り合いが発生するようになってきました。

 そのような状況のもと、96年7月にツチ族中心の軍部がクーデターを起こし、ブヨヤ元大統領を元首に据える新政権を樹立しますが、国際的に承認されるまでには時間がかかりました。98年にはニエレン元タンザニア大統領の仲介で和平交渉が始まり、それがマンデラ前南アフリカ大統領の調停に引き継がれる形で、2000年8月にはアルーシャ和平合意が達成されました。これに基づき、2001年11月には民族融和的な暫定政権が成立。2003年にはブヨヤ大統領が権限を委譲する形でフツ族のンクルンジザ大統領が就任するのですが、同じフツ族の民族解放軍(FNL)が武装闘争を継続。混乱が続きました。

 和平交渉は、ブルンジ政府とFNL側が権力を分担するということで2006年に合意となり、2009年に内戦は終結。ンクルンジザ大統領のもとで、しばらくは安定した政権運営が続いたのですが、ンクルンジザ大統領が調子に乗って憲法で禁じられている大統領3選に向かって出馬を表明したあたりから雲行きが怪しくなりました。2015年、ンクルンジザ大統領の外遊中にンクルンジザ大統領 の追放を求める軍事クーデターが起こり、市街戦が勃発。これにより10万人を超える難民が国外に脱出しました。結局、クーデターは鎮圧され、ンクルンジザ大統領は3選を果たしたのですが、それに飽き足らず、さらに2018年には国民投票による憲法改正を行って、2034年まで任期を延長できる体制を整えて現在に至っています。とにもかくにも国内はンクルンジザ大統領のもと安定しており、この安定の下で世界最貧国の経済状態(190か国中189位)から少しでも早く抜け出せるといいのですが。

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