ブラジル連邦共和国

出典:外務省HP

1.ブラジルってどんな国ですか?

 ブラジルというと、まずコーヒーと、限りなく広い台地を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。実際、ブラジルは世界有数の農業立国で、その中でもコーヒーの生産はダントツで世界第一位の実績があります。面積も南米最大、世界でも第5位。日本のなんと23倍もあります。

 すごいのは農業だけではありません。意外ですが、ブラジルは世界有数の産業国でもあり、GDPは最大26,140億ドル(2014年)で、先進7カ国のうちイタリアを上回る世界7位の座を占め、その経済力は南米産業全体の45%を占めるほどです。ちなみに自動車の生産は世界第9位、兵器輸出にいたっては第三世界で第一位の実績があります。石油を筆頭に天然資源も豊富にあります。つまり、ブラジルは、潜在的に非常に恵まれた国ということです。

 しかしながら、ブラジル経済は80年代から次第に雲行きが怪しくなり、90年代には累積債務問題が一気に表面化。現在は、他国の財政支援を受けつつ、やっとのことで生き長らえているといった状況です。一体どこでどうボタンをかけ間違ったのか、以下に見ていくことにしましょう。

2.ブラジルの歴史を簡単に説明してください。

 現在のブラジルにポルトガル人が最初に到達したのは1500年でした。それも、カブラルという人が、インドに行く途中に嵐に会って、漂流した先がブラジルだったわけです。当時インドとの交易を重視していたポルトガルは、それからもしばらくは、ブラジルを放置していました。当初から新大陸の植民地化を積極的に進めていたスペインとは好対照でした。

 ポルトガルが本格的に南米の植民地化に取り組むのは、1549年、ソウザ総督が派遣されてからです。提督といっても、たかだか1000人程度のポルトガル人が派遣されただけでしたから、「何かあったら、ラッキー」ぐらいの認識だったに違いありません。

 派遣されたポルトガル人は、当初、東北部でさとうきびを植えて、大規模な砂糖農園を経営し、ヒットさせます。ブラジルで生産された砂糖は、ポルトガルの砂糖需要の100%を供給したばかりでなく、後に導入された綿花とともに、ポルトガル輸出産業の主導的な役割を果たすようになりました。

 こういった「おいしい」ところを他国が黙ってみているはずはありません。1580年に、本国ポルトガルがスペインに併合されると、フランス、オランダが、次々と砂糖産業で潤うブラジル東北部の占領を目論み、1630年から24年間、同地域はオランダによって占領されてしまいます。ちなみに1654年にスペインによって同地域を奪い返されたオランダは、カリブ海に砂糖産業を普及し、ブラジル砂糖産業に大打撃を与えることになります。

 しかし、ブラジルはたぶん、幸運の星の下に生まれてきたのでしょう。1640年に本国ポルトガルがスペインの支配から逃れ、ブラジルが再びポルトガル領になったとき、頼みの砂糖産業は衰退していたのですが、17世紀末、なんと南部の内陸部で金山が発見されたのです。この金山発見によるゴールドラッシュで、南部内陸部に大規模な人口が集中し、金の輸出基地として、リオ・デ・ジャネイロ港が整備され、周辺の土地で、膨れ上がった人口の食欲を満たすための大規模農業が展開さるようになるのです。スペイン併合時代に金山が発見されていたら、多分、今日のブラジル人は、ポルトガル語を話していなかったかもしれません。

 さらに、18世紀にはいると、金を掘っていたところから、ダイヤモンドも出てきました。ブラジルでは、18世紀だけで300万カラットのダイヤが産出されたといわれており、19世紀末にアフリカ大陸やロシアでダイヤモンドが発見されるまで、世界のダイヤモンド生産の中心でした。

3.ブラジルとポルトガルの関係は?

 このように、ラッキー続きのブラジルではありましたが、一方、本国ポルトガルは、スペインに併合(1580―1640年)されたり、ナポレオンに侵略されたり(1807年)で、散々でした。そこでポルトガル王家は、ナポレオン侵攻時に意を決して、何と王室と中央政府丸ごとブラジルに移転することになるのです。

 こうして1808年、ポルトガルの首都はリスボンからリオ・デ・ジャネイロに移され、1815年にはブラジル王国が誕生しました。1821年、ポルトガル解放後に本国に帰った国王ジョアン6世は、その子ペドロをブラジルに残しましたが、翌年ペドロはブラジル王国の独立を宣言。王国は1889年まで続くことになります。

 ブラジルはこの時期、金とダイヤモンドの輸出で潤い、王国も長期にわたり安定しましたが、1865年に発生したパラグアイ戦争(「パラグアイ共和国」参照)後に軍部の力が強まり、それに民主化運動や奴隷解放運動などがからんで、1889年、ブラジル王政は終焉を迎えることになりますが、この政変も無血で行われ、その後のブラジルとポルトガルの関係も良好でした。

 王政崩壊後、ブラジルはしばらく直接選挙で選ばれた大統領を指導者とする民主主義の時代に入ります。産業も、このころからコーヒーが無敵の輸出産業として登場。一時はブラジル輸出品の7割近くがコーヒーで占められていたこともありました。コーヒー産業の飛躍的発展は、1888年の奴隷解放で得られた黒人労働力を吸収し、さらに不足分はヨーロッパその他からの移民でまかなわれました。移民に対する優遇措置は19世紀末から1930年まで続けられ、400万人とも言われる移民が流入。ブラジルが現在、多民族国家と呼ばれる土台はこの時期に形成されたものです。ちなみに1908年に始まった日本人の移民は、約191万人に上るそうです。

4.ブラジルは民主主義国家?

 ブラジルの政治は、世界恐慌時の経済的混乱を背景に登場した独裁的な政権の時代を除き、きわめて平穏でした。どちらかというと、経済的に潤っていた国ですから、政治体制にこだわらなくても良かったのかもしれません。また、個人主義が非常に強い国柄ですから、あまり政治に対する期待も無かったのでしょう。しかし、経済が行き詰まると状況は変わってきます。

 1960年代はじめの経済的停滞により、貧困者層の支持を得て、61年に選出されたゴラル大統領は、農地改革をはじめとする社会改革に乗り出したのですが、これを社会主義化への一歩と重く見た軍部がクーデターを起こし政権を掌握。以後ブラジルは、85年に民生復帰するまでの20年間、軍が政治を掌握する軍事政権が続きました。

 実際、直接選挙で大統領が選出されたのが、1989年でしたから、ブラジルの民主政治の歴史は意外と浅いということがわかります。

 しかしながら、ブラジルの軍事政権には、われわれの思い描く暗いイメージは無く、逆に彼らが主導した数次にわたる国家開発計画の中で、ブラジルは急速な工業化を成し遂げるのです。70年代初期までの高度成長期は「ブラジルの奇跡」とさえ呼ばれました。

5.ブラジル経済はいつ頃から悪くなったのですか?

 ブラジルは天然資源も豊富ですし、コーヒーを中心とする農業生産力も豊富です。また、軍事政権による計画的な工業化も成功していました。ということで、第二次世界大戦後は驚くほどの高度経済成長を遂げるのです。しかしながら、ブラジルはかつて日本と同様に石油のほとんど(8割近く)を、主に中東からの原油輸入に頼っていたため、石油価格が跳ね上がった73年、さらに79年の二度にわたるオイル・ショックの影響をもろに受けてしまったのです。

 80年代にはさらに、イラン・イラク戦争による石油価格の高騰が響いて、とうとうインフレ率が200%を超える事態にまで発展しました。また、石油価格が高騰して輸入が増えても、それに見合う分だけの輸出が伸びれば問題ないのですが、同時期、世界市場でコーヒーの価格が低下したり、石油価格の高騰で生産コストが上がって、輸出が伸び悩んだりしたおかげで、対外債務は膨れ上がり、ブラジルは累積する債務に悩まされることになります。

 そんなブラジルの救世主として登場したのがカルドーゾさんでした。カルドーゾさんは、1994年、蔵相として一連の経済改革を実施。特にレアルという新通貨を導入して、為替を1ドル1レアルと固定して、大胆なデノミ政策を行ったのです。これが功を奏して、93年に2700%もあったインフレ率が95年には22%、96年からは一桁に落ち着きます。

 さらに、対外債務に関しては94年、日米欧から救いの手が差し伸べられ、「ブレイディー構想」と呼ばれる、いわゆる借金返済の繰り延べと一部踏み倒しを認める政策が導入されて、こちらも一息つきました。

 95年には、アルゼンチン、パラグアイ、ウルグアイと共に、南部共同市場(メルコスール)という関税同盟が発足して、域内の貿易も再び活性化してきました。

 このように、思い切った経済改革を主導したカルドーゾ蔵相に対する国民の期待は大きく、折しも汚職疑惑でゆれるコロル大統領に代わって、94年に大統領に選出され、それから8年間政権を運営しますが、ようやく経済の回復が起動に乗ってきたと思ったのもつかの間、新たな難題がカルドーゾ政権に襲いかかります。

6.ブラジル経済の現状は?

 ブラジルのような、巨額な財政赤字に悩む国では、投資家も、おっかなびっくり仕事をしていますから、たとえば他の国で経済的破綻や金融危機が訪れた場合には、その波及を恐れて真っ先に撤退を考えざるを得ません。特に、タイ、インドネシア、韓国が連鎖的に陥った97年のアジア金融危機の場合、実際の経済状況はブラジルのほうが悪かったわけですから、当然のごとく投資家は、ブラジル市場からの撤退を考えたわけです。

 また、ブラジル市場に投資する投資家は、さまざまな国の資金を運用して活動しています。たとえば、超低金利の日本から円を借りて、高金利のブラジルで短期的に運用し、さや金を稼ぐといったことは、日常的に行われているわけです。しかし、このような運用の仕方はリスクが大きいため、どこかの国で金融破綻が起こった場合には、早いとこ換金してしまおうという動きが出てきます。これも、不安定なブラジル経済から、外資が流出する原因の一つとなりました。

 よって、97年のアジア通貨危機の場合、香港市場の株式暴落がニューヨーク市場に飛び火した時点で、サンパウロの証券価格指数(ボヴェスパ)は一気に15%も暴落してしまいました。

 さらに98年にはロシアの通貨危機の影響をまともに受け、投資が一気に撤退。98年度初頭に700億ドルを超える外貨準備があったブラジルも、98年7、8月のたった二ヶ月で250億ドルといわれる巨額な外貨が国外に流出してしまいました。結局98年末段階での外貨準備高は369億ドルと、一年間で約半分に目減りしてしまったのです。

 こうなったら、以後は、どんなに小さな経済的、政策的な変化にも市場は反応してしまいます。98年11月、IMFがブラジル支援の財政パッケージを発表。総計410億ドル以上に上るこの支援策によって、ブラジルの経済混乱の懸念は一応遠ざかったように見えたのですが、このIMFの財政調整プログラムの内容が、大幅な増税、歳出削減、高金利政策など、国民に非常な負担を強いるものであったがために国会の審議が遅れ、これがきっかけとなって株式が下落。外貨も再び流出を始めました。

 また、ブラジル政府は、通貨レアルを、米ドルに一定幅で固定させて、通貨の安定を保ってきましたが、99年1月14日、結局高金利による経済政策の行き詰まりと内政混乱を背景に、カルドゾ大統領は通貨レアルの切り下げを発表。事実上、固定相場制を放棄して、変動相場制に移行することになりました。

 このような経済政策のおかげで、ブラジル経済に明るいきざしが見えて来ます。通貨の切り下げに伴って農産品が安くなり、輸出が急速に増えたことと、海外からの投資がやりやすくなり、99年には300億ドルもの直接投資がありました。これにともなって、経済成長率は11.12%(99年実績)と2桁台に伸び、2003年に選出されたルーラ大統領の下で、ブラジルは景気を取り戻すのです。

 ブラジルの好景気は2010年の選挙でブラジル史上初の女性大統領となったジルマ・ルセフ大統領時代にも引き継がれましたが、再び経済が低迷し、それによる社会的混乱の末に2016年、リオ・オリンピックが閉幕した直後にルセフ大統領は汚職容疑で職務停止のうえ弾劾裁判を受けることになりました。その後を引き継いだテメル大統領代行も汚職罪で起訴されるなど、ブラジルは政治的にも、経済的にも大混乱の状態です。

 2019年に就任したボルソナーロ大統領は、従来の経済政策とは正反対の緊縮財政を進めていますが、経済は一向に良くならず、新型コロナウイルス対策に対して消極的な大統領の求心力は低下しており、予断を許さない状況です。第二の「ブラジルの奇跡」が起きることを祈りましょう。

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