フィリピン共和国
出典:外務省HP
1.フィリピンの成り立ちを簡単に説明してください
フィリピンの国名は、スペイン国王フェリペ二世の名に由来しています。このことからもわかるように、フィリピンは1571年にスペインの植民地に組み込まれ、以後20世紀初頭まで、スペインの直接支配下を経験しました。
民族主義が世界的に高揚する19世紀末、フィリピンでもフィリピン革命と呼ばれる、対スペイン独立運動が繰り広げられました。1896年には「カティプナン」という秘密結社を中心とした民衆蜂起が激化しますが、もともとスペイン植民地政府に向けられたこの独立運動を武力鎮圧したのは不思議にもスペインではなくアメリカでした。実は、アメリカは同時期、米西戦争(1898年)でスペインを破っており、その見返りとしてスペインからフィリピンの領有権を得ていたのです。もちろん、フィリピン人にはそのことを知る由もありませんでしたが。
というわけで、98年、フィリピンに軍事介入したアメリカは、革命を徹底的に弾圧し、1902年に革命政府側が降伏すると、同年スペインにかわって本格的なフィリピン統治を始めることになります。
41年に太平洋戦争が勃発すると、今度は日本軍がフィリピンを占領します。しかし42年にマニラで軍政を敷いた日本軍に対する抵抗運動はすさまじく、投入された日本兵26万人のうち19万人が戦没。一方のフィリピン側も民間人を含めて100万人以上の犠牲者が出たとされています。
太平洋戦争が終わった翌46年、フィリピンは真の意味での独立を達成。フィリピン共和国となりますが、以後も、政治・経済・軍事の面で、アメリカの強い影響下に置かれることになります。
さて、独立を達成したフィリピンは、その後、貧富の差がもとで起こる対内的な紛争の時代へと移っていきます。独立直後から9年間続いた「フクバラハップの反乱」も、貧富の差を不服とするルソン島中部の零細農民を中心とする民衆蜂起でした。また、65年から86年まで続いたマルコス政権のもとでは、大統領に権力が集中したため、腐敗が蔓延し、貧富の差が歴然としてきました。
そんな中、80年代初期から、経済再建、土地制度改革など、国民への利益分配を目標にした反マルコス運動が展開されることになります。特に83年に暗殺されたベニグノ・アキノ元上院議員の婦人、コラゾン・アキノ女史が政界に登場すると、反マルコス運動は急速に拡大し、アキノ女史は、国民の圧倒的支持を得て86年の大統領選に勝利。新政権を樹立することになりました。
アキノ大統領は、就任してすぐに経済改革や土地制度改革に取り組みますが、半世紀にわたって染み着いた権力構造を変革することは容易でありません。また、フリピンは7109の島々からなる国家です。使われている言語も100以上あるわけですから、それらをまとめていくのも並大抵のことではありません。
結局、アキノ政権は、国軍改革派の反乱や内部分裂に悩まされるかたちで、92年の選挙の後退陣。かわって元国防大臣のフィデル・ラモス氏がフィリピンの制度改革を引継ぎます。98年、任期切れに伴い政界を退いたラモス氏は、強力な指導力のもと、経済自由化を強行して海外投資の誘致を進め、フィリピン経済を5%台の高成長に導く立役者でした。
2.フィリピンの宗教紛争とは?
1571年にフィリピンを植民地化したスペインは、その後積極的にカトリックの布教を続け、原住民に改宗を促したため、現在では人口の85%がカトリック信徒。その他の宗派をあわせるとキリスト教徒の数は全体の93%という、アジアでは韓国と並ぶ、珍しいキリスト教国家になっています。
キリスト教以外ではイスラム教徒の数が多く、人口の5%を占めています。これらイスラム教徒は、ミンダナオ島南西部からスルー島にかけたフィリピン南部一帯に住んでいますが、昔からマラッカ半島やインドネシアの影響を強く受けていた地域だけに、イスラム教の影響が強いわけです。ちなみにホロ島では、15世紀にスルー王国というイスラム教国家が建国されたこともありました。
さて、1960年代になると、これらイスラム教徒がミンダナオ独立運動とからんで、活動を開始します。68年に始まったミンダナオ独立運動は、歴史的に見て、インドネシア、マレーシアなど南方のイスラム諸国との経済的つながりが強い南部フィリピンを、北部と切り放して独立しようという運動でした。
70年代に入ると、ヌル・ミスアリという人物を中心にイスラム教徒主体のモロ民族解放戦線(MNLF)が結成され、独立運動が激化していきます。72年にはフィリピン政府軍との直接衝突が始まり(ミンダナオ内戦)、紛争は長期化していきます。
そんな中、75年にはフィリピン中央政府と自治をめぐる交渉が始まり、76年には、なんとリビアの仲介で和平協定(トリポリ協定)が結ばれました。協定では南部14州(協定成立時点では13州)にイスラム教徒自治政府を樹立することで合意したのですが、戦闘は恒常的に続くことになります。
80年代にはモロ民族解放戦線が分裂。モロ民族解放戦線派(ミスアリ派)、同改革派(プンダトゥ派)、モロ・イスラーム解放戦線(MILF)が、それぞれの立場で闘争を継続する形となりました。
対するフィリピン政府は、88年、南部4州でイスラム教徒の自治を承認。ラモス政権になってからは、対立勢力との和解工作がさらに進み、76年の和平協定を一部変更する形で、96年9月、ついにモロ民族解放戦線との和平協定にこぎつけました。
一方、96年の和平合意に参加しなかったモロ・イスラーム解放戦線(MILF)は武装闘争を継続。1997年、2003年、2012年と政府との和平案を調印しますがいずれも破棄され、2014年には政府と新たな包括和平協定を結んで紛争の終結とイスラム教徒ミンダナオ自治地域の住民の生活向上に向けての努力が継続されました。2018年にはドゥテルテ大統領によって、イスラム地区の自治政府を認める「バンサモロ基本法」が制定され、高度の自治権を有するバンサモロ自治地域がスタートしました。
一方、フィリピンにはその他にアブ・サヤフという武装グループが存在します。1990年、東南アジア地域にイスラム国家の樹立を目指すグループとして活動を開始しますが、中東の「イスラム国」と連携して、インドネシアやマレーシアにも活動の拠点を広げるなど30年間にわたって破壊、暗殺、誘拐、身代金要求など様々なテロ活動を展開してきました。しかしながら、2016年にドゥテルテ大統領が就任すると、その徹底したテロ組織壊滅作戦によって2020年までには主だった指導者がフィリピン政府軍、およびその要請を受けたアメリカの特殊部隊によって排除され、その活動は急激に縮小しました。
3.フィリピンの現状は?
ラモス大統領に任期切れにともなって行なわれた大統領選で4割という高い得票率で当選したエストラダ氏は十項目の行動計画を掲げて、農地改革や社会福祉政策など、貧困層対策を進めます。1997年に拡大したアジア通貨危機は、周辺の東南アジア諸国の経済を混乱に陥れましたが、経済の発展度合が限定的だったフィリピンでは逆に通貨危機の影響が小さく、IMFによる介入などは回避できましたが、かといって大幅な景気回復を期待できるでもなくといった状況が続きました。不正蓄財疑惑で弾劾されたエストラダ大統領の後を継いだアロヨ大統領も、経済に関しては有効な打開策はありませんでしたが、2010年ごろからビジネス・プロセス・アウトソーシング分野の事業が急速に拡大。フィリピンの一人当たりのGDPは、現在までに年率8%台の成長を遂げています。
2016年にはドゥテルテ大統領が就任。歯にもの着せぬ言動で有名になりましたが、政権運営は非常に堅実で、特に経済発展の基盤となる治安の安定に力を注ぎます。特に人権を無視してでも麻薬を撲滅するといった強硬な姿勢が浸透し、フィリピンの麻薬産業は急激に排除されつつあります。