パレスチナ国
出典:外務省HP
1993年のオスロ―合意によりパレスチナ自治政府が1994年に設立されました。2013年、自治政府は一方的にパレスチナ国の呼称を宣言。現在136の国がこれを承認しています。イスラエルとの和平の動きに関しては以下を参照してください。ここでは、パレスチナ自治政府成立後の内政の動きについてみていきましょう。(なお、2012年、国連はパレスチナを「オブザーバー国」として承認していますので、ここではパレスチナ自治区を「パレスチナ国」としています。)
1.パレスチナの範囲はどこからどこまで?
現在、パレスチナ自治区は統制権によって3つのゾーンに分かれていて、まず、自治政府が安全保障と文民統制を管理するエリアAという地域ですが、自治政府があるラマッラやエリコ、ナブルスといった都市を中心とした、全土の18%を閉める地域です。次に文民統制はパレスチナ自治政府が担当する一方で安全保障はイスラエルが行うゾーンBという地区があります。これらに加えて安全保障も文民統制もイスラエルが行うゾーンCがあります。全体の6割を占めるゾーンCには、イスラエル人入植地も含まれ、幹線道路もゾーンCに含まれます。また、ゾーンCは、ゾーンAやBを取り囲むように存在することから、幹線道路を隔てて道路の両脇にオリーブ畑を持つパレスチナ人の農民は、数メートル先にある自分の畑を横切るために何キロも先にあるイスラエルの検問まで歩いていかなければなりません。また新規の井戸掘りや上下水道などの設備投資も、学校建設もすべてイスラエル当局の許認可制ですから、そもそも認可が下りないばかりか建設許可が下りていないという理由で取り壊しに会う既存の家屋も数多くあります。
その一方で、特にネタニヤフ政権はゾーンCに対するユダヤ人の入植を強力に推し進めており、2019年には新たに6000棟の入植者用住宅の建設を承認するなど、和平の動きとは逆行する政策を進めています。
さらには、パレスチナ自治区は、ヨルダン川西岸地区と、地中海に面したガザ地区とに分断されており、またそれらを結ぶバイパス道路もイスラエルの支配下にあるため、どうしても中央政府の影響範囲がヨルダン川西岸地区に限られるといった傾向があります。実際、現在のパレスチナは自治政府側と、抵抗勢力であるハマースが実効支配するガザ地区に分断されているといった現実があります。
2.オスロ合意以後のパレスチナの動きは?
1994年、パレスチナ自治政府発足当初は、PLOのアラファト議長が率いるファタハが圧倒的第一党の座を確保して政権運営にあたりましたが、2004年にアラファト議長が死去すると求心力を失い、2006年に行われた第二回総選挙では強硬派のハマースが躍進して第一党になりました。このハマースとアラファト議長の後を継いだアッバース議長はしばしば対立し、2006年にはハマースがガザ地区を武力制圧するという内部分裂が起こりました。
この様に、パレスチナはファタハが支配するヨルダン川西岸地区と、ハマースが支配するガザ地区に分裂して以来、ハマースはイスラエルに対する武力攻撃を再開。それに対してイスラエルも2008年からガザ地区に対して執拗な空爆を続け、結果ハマースの幹部2名が死亡。2010年には軍事部門の創設者だったマブフーフが、UAEのドバイのホテルでイスラエルのモサドによって暗殺される事件も起き、力を失ったハマースは2011年にファタハと和解して連立政権を作る方向に転換。2014年に分裂後初となる連立政権が誕生。引き続きアッバース氏を大統領、ハムダッラーを首相とする暫定統一内閣が発足しました。
2012年にパレスチナ自治区はオブザーバー組織からオブザーバー国に格上げとなり、国連内では国家として承認されることになりました。