パラグアイ共和国
出典:外務省HP
1.内陸国パラグアイの悲願とは?
パラグアイは、ボリビアとともに、国境線のどこをとっても、海と接していない内陸国です。航空機の発達した現在ならまだしも、海運が経済に大きな影響を及ぼす時代、海への出口がないということは、決定的なハンディキャップです。現在、世界の国々を見ても、内陸国で経済がうまく行っているところは、ほとんどありません。また、どこに行くにも隣国を通って行かねばならない内陸国は、政治的にも、周辺国の影響を受けやすいのです。
内陸国にとって、海への進出は、国を挙げての悲願なのでしょう。硝石鉱山の所有権争いでチリと戦ったボリビアは、敗戦後太平洋への出口をチリに奪われ、その後、大西洋への出口を求めてパラグアイと戦うことになりますが、これなど、海を求める国の良い例でしょう。
一方のパラグアイのほうも、19世紀、あわよくば大西洋への出口を得ようとウルグアイ内戦の隙を突いて軍事介入しますが、結局ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイの三国同盟に蹴散らされて、大統領以下人口の半分が戦死してしまうという、大きなしっぺ返しを受けました。
2.独立後のパラグアイの歴史を教えてください。
1810年のアルゼンチンの独立宣言に刺激されて、パラグアイも1811年に独立を宣言しました。その後パラグアイは一種の鎖国政策を取り、独裁者フランシアが約30年間の恐怖政治を行いましたが、彼の死後三権分立の憲法が指定されて、1844年にはカルロス・ロペス大統領が初代大統領に任命されました。
この時代、パラグアイは開かれた外交と、社会資本の整備などに力を注ぎ、南米で最も進んだ国といわれたこともあったのですが、彼の死後、62年に後を継いだソラノ・ロペス大統領がいけません。「パラグアイは、旧リオ・デ・ラ・プラタ領すべての調停者であるべき」という高邁な理想を掲げた彼は、アルゼンチンとブラジルが奪い合う形で内戦状態になっていたウルグアイの調停者に自ら名乗りをあげ、軍事介入をはじめます。
調停というのは難しいもので、行きつく先は感謝されるか、ボコボコにされるかです。プロレスラーみたいに強い人が仲介に入れば、感謝されたりしますが、パラグアイの場合は後者でした。アルゼンチン、ブラジル、ウルグアイの三国は急に仲良くなって、65年に同盟を結び、逆にパラグアイを徹底的にたたくのです。
1870年まで続いたこの「パラグアイ戦争」は、ロペス大統領自身の戦死で幕を閉じ、アメリカの仲介によりパラグアイの主権が回復するまでに、さらに76年までの占領期を経験しなければなりませんでした。
このパラグアイ戦争で、国土は甚大な被害を受け、アルゼンチンとブラジルには領土の一部を削られ、国土も人口も半分に減ったといわれ、その後の国の発展に大きな影響を及ぼしました。
3.チャコ戦争ってなんですか?
パラグアイ戦争で受けた損害は、その後少しずつ回復して行きます。特に第一次世界大戦時の戦争景気で、農産品の輸出が大幅に伸びたパラグアイは、ほっと一息。しかし、それもつかの間、今度は隣国ボリビアがちょっかいをが始めます。
ボリビアとパラグアイの国境地方はチャコ地方と呼ばれ、両国の独立以来、明確な国境が引かれないままになっていました。1883年の太平洋戦争(「ボリビア多民族国」参照)で、太平洋への出口をふさがれたボリビアは、今度は大西洋への出口を探してチャコ地方に進出するのです。そこで、運が良いのか悪いのか、油田を発見してしまったから大変。1928年、チャコ地方を死守したいパラグアイとボリビアとの間で軍事衝突が起き、全面戦争へと発展します。結局このチャコ戦争は1935年まで続き、双方合計10万といわれる死者を出しつつもパラグアイが勝利。チャコ地方とボリビア南部の領土を獲得しました。
しかしながら、どう見てもこの戦争は弱いもの同士の戦争でした。以後、ボリビアはボリビアで、パラグアイはパラグアイで、それぞれ政変が起こり、政局は混迷を増して行くのです。
パラグアイでは、チャコ戦争で被った経済的打撃が尾を引き、内乱につぐ内乱で混沌とした状況が長く続くのですが、1954年のクーデターで実権を握ったストロエスネル将軍が1989年までの長期にわたる独裁体制を敷くことになりました。1989年には、クーデターでストロエスネル独裁政権を破ったロドリゲス将軍が大統領に就任。同氏が約束した民主憲法も92年に施行され、そのもとで行われた93年の選挙では、実に39年ぶりの文民政権となるカルロス・ワスモシ大統領が選出されました。
しかし、ワスモシ政権では、どうも腐敗が蔓延していたらしく、1996年にはオビエド陸軍司令官によるクーデター未遂事件が発生。また、ワスモシ大統領の任期満了によって行われた1998年の選挙では、アルゼンチンに亡命中のオビエド氏の影響を受けるクバス氏が大統領に選出されました。このとき、オビエド元司令官の処遇を巡って政府と議会・裁判所が対立して政治危機に陥り、1999年、クバス大統領はブラジルに亡命。替わってマキ大統領が執務を行いますが、2000年5月にも、オビエド氏の支持者によるクーデターが発生。以後パラグアイの政情は不安定のまま2018年よりベニテス大統領が難しい政権運営を担っています。
ちなみに、パラグアイは南米で唯一、台湾を国家として認める国となっています。