パキスタン・イスラム共和国

出典:外務省HP 

1.パキスタンの歴史を簡単に教えてください

インドとともに1947年にイギリスから独立したパキスタンは、インドと違って、イスラム教徒の独立運動といった傾向がありました。パキスタン建国の父と呼ばれるムハンマド・ジンナー氏は、当初インド国民会議派に参加して、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒との連帯を推し進めましたが、圧倒的多数のヒンドゥー教徒の中でイスラム教徒の権利が侵食されることを恐れたジンナー氏は、次第に国民会議派のマハトマ・ガンディー氏と対立するようになります。ジンナー氏は、40年のムスリム連盟大会で演説。ヒンドゥー教徒とイスラム教徒は、あらゆる面で基本的に別個の存在であり、両者を同じ国民として統一するのは無理であること、よってヒンドゥー教徒とイスラム教徒がインドで別々の国家を持つべきであるという、いわゆる二民族論を主張。これが、後にパキスタン独立の思想的支柱になっていきます。

 さて、47年にインドと分離する形でイギリスから独立したパキスタンでしたが、「イスラム教徒を単位とする国家編成」というジンナー氏の基本理念が実る形で、パキスタンの領土は、イスラム教との割合が多い現在のインド北西部の領土(西パキスタン)と、それから1800Km東に離れた、現在のバングラデシュの領土(東パキスタン)という二つの領土を持つ、珍しい国となりました。

 しかしながら、イスラム教徒ということを除けば、東パキスタンの主要民族はベンガル族で、パンジャブ人、パシュトゥーン人等で構成される西パキスタンとは、まったく別個の世界ということができます。また、政治的な主導権を握った西パキスタンは、東パキスタンのベンガル語を廃止して西パキスタンのウルドゥー語を取り入れることを強要したり、経済的にも半植民地的政策を取り続けたりしたために東パキスタン住民の反感を買い、結局、第三次インド・パキスタン戦争で、インドの協力を得た東パキスタンは、71年、バングラデシュとして独立してしまいます。余談ですが、独立の後押しをしてもらったインドに対して、バングラデシュはいまだに頭が上がらず、外交政策などは、ほとんどインドと共同歩調をとり続けています。

 バングラデシュ独立後、パキスタンは一時穏健派のZ.A.ブット首相(パキスタン人民党創始者)が政権を取り、インドとバングラデシュとの関係正常化を目指しますが、77年のクーデターで倒れ、パキスタンは以後軍事政権化します。とくに77年から88年まで続いたジャウール・ハック政権は、軍中心の中央集権体制を確立。88年と93年にZ.A.ブット氏の娘、ベナジール・ブット女史率いるパキスタン人民党が政権をとった「事件」以外、パキスタンの政治体制は基本的に大統領と首相、それに陸軍参謀長が協議して政策を決定するという、いわゆるトロイカ体制が現在まで引き継がれています。

またパキスタンでは97年12月、軍寄りのシャリフ首相と、レガリ大統領の対立から、レガリ大統領が軍部の圧力で更迭され、これも軍寄りのターラル大統領が就任するなど、ますます陸軍参謀長の権限が高まっていたところでした。アメリカをはじめ、周囲の執拗な説得に一切耳を貸さず、核実験に踏切ったパキスタンのかたくなな姿勢は、実は強大な権力を持つこれら軍部の存在に大きく左右されていたということもできるでしょう。

2.カシミール問題とはどのようなものですか?

1947年のインド・パキスタン分離独立以後、両国は3度にわたって戦争を繰り広げますが、そのうち2回が直接カシミール問題にからんだものでした。また東パキスタン独立にからんだ第3回目の戦争でも、停戦協定の中にカシミール問題の関する取り決めの条項が盛り込まれましたから、実際には、直接戦争のほとんどの原因がカシミール問題といっても過言ではありません。

 さて、インド北西に位置し、パキスタンと国境を接するカシミール地方は、イギリス植民地時代にはヒンドゥー教徒の王様が統治する国でしたが、人口の6割はイスラム教徒で占められていました。この人口の微妙な差が後々の紛争に繋がっていきます。

 まず、1947年にインドとパキスタンがイギリスから分離独立した際、カシミールの王様はインドへの加入を選択しましたが、イスラム教徒が6割を占めるこの地域がインドに統合されることを、パキスタンが黙って見ているわけがありません。パキスタンは直ちに軍隊をカシミールに派遣。他方、インドも軍を送り込んでパキスタンと対立し、両者は約1年半にわたる戦争に突入します(第一次インド・パキスタン戦争)。

1949年には国連の仲介でインド・パキスタン停戦ラインが定められ、カシミールは暫定的にパキスタン側とインド側に分割されることになりました。カシミール地方は、ちょうど日本の本州程度の面積ですが、その土地の3分の2がインド(ジャンムー・カシミール州及びアクサイ・チン地方)に、3分の1がパキスタン(アーザード・カシミール及び北方地域)に分割されたと考えればよいでしょう。ただし、この暫定的な停戦ラインは、現地住民の住民投票で、初めて正式に国境として決定することになっていますが、現在までそのような住民投票は行なわれておらず、両国の国境線は正式に決定されないままです。

3.中国が引き金となったインド・パキスタンの核開発

 ところで、カシミール問題はただ単にインドとパキスタンだけの問題ではありません。50年代に入ると、北方で国境を接する中国の動きも活発になってきます。49年の停戦ラインでインド側に編入されたジャンムー・カシミール州(JK州)のうち、ラダック山脈北東部に位置するアクサイ・チン地方は、50年代に中国軍の占領を受け、62年の中印国境紛争でも中国側が勝利して実質上中国の実効支配地となりますが、このことがきっかけとなって、インドと中国の対立が表面化。インドは中国に対抗する意味で、独自の核開発に着手するようになるわけです。また、インドの核開発を見たパキスタンが、「敵の敵」である中国の技術支援を受けつつ核開発に踏切ったのもこの頃でした。つまり、結果的にインド、パキスタン両国の核開発は、インドと中国の関係悪化が引き金になったということです。

 さて、インド領ジャンムー・カシミール州の特徴は、北部のカシミール地域にはイスラム教徒が圧倒的に多く、南部のジャンムー地域にはヒンドゥー教徒が多いという点です。ということは、停戦ライン設定後も、インドの国内問題として、カシミール地域の分離独立運動が起こる条件は整っていたということができましょう。実際、カシミール地方の分離独立運動は、80年代後半になって急激に活発化することになるのです。

 第二次インド・パキスタン戦争は、65年、停戦ラインを超えてインド領内に侵入したパキスタン側のゲリラをインド軍が攻撃。パンジャブ地方に越境侵攻したことから始まります。しかしながら、この戦闘は約1カ月で停戦となり、結局両国とも停戦ラインを遵守して、軍隊を撤退することで同意するという小規模な戦争だったわけですが、重要なのは、ソ連のコスイギン首相(当時)が調停役に選ばれたという点です。つまり、冷戦期にソ連とインドとの結びつきが強化される一方で、南アジア地域におけるソ連の影響拡大を恐れたアメリカは、ソ連封じのためにパキスタンを支援するという相互の二国間関係ができあがるのが、大体この時期だったということができましょう。

 さて、71年末に起こった第三次インド・パキスタン戦争は、東パキスタンの独立をインドがサポートしたことが直接の契機となったわけですが、この東パキスタン・インド連合軍対西パキスタン軍という図式がカシミール地方に飛び火しないはずがありません。結局72年の停戦協定(シムラ協定)では、東パキスタン(バングラデシュ)の独立が承認されたほか、カシミール地方では49年に引かれた停戦ラインにかわる「実効管理ライン」が設定されるなど、インドとパキスタンの境界線の問題も一段落がついたというわけです。

4.インドのカシミール問題とパキスタン

 カシミールをめぐるインドとパキスタンの直接対決は、前述の3回にわたる戦争で、一応の決着を見たのですが、インド側に編入されたカシミール地方の問題は、インドの国内問題として現在まで尾を引いています。それにまつわるインド・パキスタンの対立もエスカレートしていますから、以下ではインドの国内問題としてのカシミール問題も併せて見て行きましょう。

 そもそも、1950年に制定されたインド憲法では、ジャンムー・カシミール州(JK州)に対して、独自の憲法制定を含む大きな自治権が付与されていたのですが、51年に行われたJK州の憲法制定議会選挙で第一党となったヒンドゥー教徒主体のナショナル・コンフェレンス党(NC党)は、86年のガンディー・ファルーク合意などを通じて、次々とJK州の特権を縮小して、インドと同化する方針を採ったのです。これはヒンドゥー教徒が大部分を占めるジャンムー州の住民には受け入れられましたが、イスラム教徒が圧倒的多数を占めるカシミール地方では反感を買いました。

 その結果、カシミール地方では89年頃からインドからの分離独立を求める過激派の活動が活性化します。主なグループは、JK州の独立を目指す「ジャンムー・カシミール解放戦線(JKLF)」、パキスタンとの統合を目指す「ムジャーヒディーン党」等がありますが、それらのテロ活動によって2020年現在までに数万人の犠牲者が報告されています。インド政府はこれらのテロ活動に対して軍を派遣して、徹底抗戦の構えを崩していませんが、99年5月には、カシミールに進入したパキスタンゲリラに対して、インドが空爆をしかけ、それがもとでインド、パキスタン正規軍の間で2カ月に及ぶ爆撃戦が展開される事態が発生しました。

 2019年にはイスラム過激派による自爆テロが発生。報復としてインド空軍がパキスタン領内への空爆を実行するなどして両国間の緊張が高まりましたが、堪忍袋の緒が切れたインド政府は今までJK州に与えられて来た自治権をはく奪。2019年10月31日、ジャンムー・カシミール州は、ラダック連邦直轄領とジャンムー・カシミール直轄領に分割されて連邦政府の直轄領となりました。このことでカシミール問題が沈静化に向かうのかどうか、予断を許さない状況が続いています。

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