バングラデシュ人民共和国

出典:外務省HP 

1.バングラデシュは、どのようにしてできたのですか?

 1947年にインドとパキスタンがイギリスから分離独立した際、東ベンガル地方(現在のバングラデシュ)はパキスタンの一部に組み込まれ、東パキスタンとなります。もともと、イギリスから独立をする際に、圧倒的多数のヒンドゥー教徒の中でイスラム教徒の権利を守ることに不安を覚えた人々がインドと分離することを目指したのがパキスタン誕生の理由ですから、パキスタンはイスラム教徒中心、インドはヒンドゥー教徒中心でまとまっていたということになります。このとき、人口の3分の2強がイスラム教徒だった東ベンガルも、イスラム教徒の権益を守るというパキスタンの主張に共感を覚えたわけです。

 しかし、分離後のパキスタンの中心は、なんといっても西パキスタン(現在のパキスタン)でした。東パキスタンは当時、インドからもパキスタンからも辺境として扱われており、実際西パキスタンからはインドを挟んで飛び地となっていましたから、当初からパキスタンとしての一体感はありませんでした。

 1948年、パキスタン独立を主導したムハンマド・ジンナー率いる西パキスタンの中央政府は、パキスタンの国語を、西パキスタンの日常語であるウルドゥー語に統一することを決定します。しかしながら、東パキスタンの人たちは日常会話でベンガル語を使っており、ウルドゥー語は全くわかりません。困った東パキスタンの住民、特に学生たちは、以後、ベンガル語を東パキスタンの国語とする運動を展開します。このベンガル語化運動は、東パキスタンの民主化運動と連動して、49年、アワミ・ムスリム連盟が結成され(55年、アワミ連盟に改称)、以後、東パキスタンの権益を守る運動を展開していきます。

 一方の西パキスタンは、この要求に聞く耳を持たず、特に58年から始まるアユーブ・ハーン軍事政権のもとでは、アワミ連盟の活動は禁止され、あからさまに西パキスタンに有利な経済政策が展開されました。当時、東パキスタンは「西パキスタンの植民地」と呼ばれるほど不公平な扱いを受けていたのです。このような状況を改善すべく、東パキスタンの自治を要求する声が高まる中、64年、アワミ連盟が復活。66年にはムジブル・ラーマン委員長が6項目の自治権拡大要求を開始して、国民の圧倒的支持を受けます。

2.インドの介入と第二の独立

 東パキスタンでは、この様にして自治権拡大と民主化要求の運動が広がり、反政府運動が展開されますが、同じ頃西パキスタン内でも、政権の汚職と経済停滞などを理由に反政府運動が高まっており、ついに69年、アユーブ・ハーン政権が崩壊。その後をヤヒヤ・ハーン戒厳令総司令官が受け継ぎます。ヤヒヤ・ハーン政権は、東パキスタンの安定化を図るために70年、東パキスタン総選挙を実施しますが、結果はアワミ連盟の圧倒的な勝利に終わり、議会の過半数の議席を獲得します。これに危機感を覚えたヤヒヤ・ハーン政権は、71年、アワミ連盟の弾圧を決断。対するアワミ連盟は直ちに独立宣言を行なって、両者の武力対立が始まります。

 武力も軍隊も無いに等しい東パキスタンに対する武力衝突ですから、戦局は当初、西パキスタンに圧倒的に有利に進みましたが、71年末、何とインドが東パキスタン独立を承認して軍事介入。これが、第三次インド・パキスタン戦争に発展します。結局、この戦争は西パキスタン側の無条件降伏で終わり、71年12月16日、バングラデシュ人民共和国が独立国として発足することになったわけです。これを第二の独立という人もいます。

3.独立後から90年代まで:政治的不安定と経済停滞

 1972年、初代首相に就任した、アワミ連盟のムジブル・ラーマン委員長は、民主憲法を制定し、翌年国会議員選挙を行なうなどして、着々と民主化に向けたステップを踏んでいました。しかし、植民地同様だったバングラデシュは、経済基盤が整っていないうえに、運悪く73年から始まる第一次オイルショックの影響もまともに受けたため、たちまち不況のどん底に転落してしまいました。74年末には国家非常事態宣言が出され、75年からはムジブル・ラーマン首相自らが大統領となって、中央集権的体制でこの苦境を乗り越えようとしますが、焼け石に水。ついにムジブル・ラーマン氏は、クーデターによって殺害されてしまいます。

 この後、数回のクーデターが起こり、指導者が次々と入れ替わりますが、結局その混沌とした状況を収拾したのがジヤウル・ラーマン氏でした。彼は76年末、戒厳令総司令官となって混乱した政局を建て直し、77年に自ら大統領に就任。翌年の大統領選挙で圧勝します。また、引き続いて行なわれた国会議員選挙では、ラーマン大統領の「バングラデシュ民族党(BNP)」が議席の3分の2を獲得して、建国以来、初めての安定が訪れました。

 しかし、安定も長くは続きませんでした。81年のクーデターでラーマン大統領が暗殺され、82年には再びクーデターでエルシャド政権が発足します。しかし、エルシャド政権はBNPとアワミ連盟の支持を得られず91年に崩壊。かわって91年の民主選挙で勝利した、BNPのハレダ・ジヤ女史(ジヤウル・ラーマン元大統領夫人)が政権をとって、16年ぶりに議員内閣制のもとで、バングラデシュの社会的、経済的安定を模索しました。

 その一方で経済の発展は思わしくなく、毎年のように起きる洪水や疫病の影響で、毎年100万トン以上の穀物を輸入せざるを得ない状態が続きました。そのような状況が社会の安定につながるはずもなく、96年2月の選挙はボイコットされ、6月の仕切りなおしの選挙ではBNPが敗れ、アワミ連盟が21年ぶりに政権をとりました。首相には、アワミ連盟党首のシェイク・ハシナ女史が就任。ハレダ・ジヤ女史以来、史上二人目の女性首相が誕生します。

 政変ーに次ぐ政変で、90年代まで政治的に安定した期間がまったくなかったバングラデシュでは、もとから悪い経済状況の改善にも妙案は無く、日本を筆頭とする海外からの援助で、なんとか食いつないでいたという状況でした。国民の疲弊は大きく、海外に職を求めて、大量の不法移民労働者が発生しました。政治の混乱が、国民の不幸につながる究極の例が、バングラデシュということができるかもしれません。

4.政権の安定と経済の発展

 こんな状況の下で2009年に再び政権に返り咲いたアワミ連盟のハシナ首相は、第二の独立50周年に当たる2021年までに中所得国になることを目指す「ビジョン21」を掲げて、特にITの全国展開を目指す政策を打ち出します。この経済振興政策によりバングラデシュは、2015年に低所得国の範疇を抜け出して低中所得国になり、2018年には国連の後発開発国の定義からも卒業しました。バングラデシュでは2018年、ハシナ政権が総選挙で史上初の3選を果たし、安定した政権運営の下で、2041年までに先進国入りを目指す新しい経済計画「ビジョン2041」を打ち出しています。安定した政権で、安定した経済発展が続くことを祈ります。

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