バーレーン王国
出典:外務省HP
ペルシャ湾に浮かぶ島国バーレーンは、アラビア語で「二つの海」という意味です。島を巡る海と、島に沸く湧き水を指すといわれていますが、バーレーンはインドからアラビア半島を経て紅海にいたる海上貿易ルートの中継地として、バビロニア、ギリシャ時代から栄えました。その影響か、バーレーンの人は結構商売上手で、産業の創造力もあります。特に15世紀までは、天然真珠の産地として栄えたことでも有名です。
ちなみに、バーレーンの人が日本人に会うと、よく口にするのが「ミキモト」です。「天然真珠のバーレーンが人口養殖のミキモトに負けた」という言い回しで、よく引き合いに出されますが、どっこいバーレーンも、石油資源が枯渇する前に産業の多角化と民主化を進め、石油がなくても堂々とした国家経営を進めています。2004年からはF1グランプリが開催される国としても有名ですね。
1.バーレーンの歴史を手短に教えて下さい
海洋貿易中継地としての栄えたバーレーンは、海洋国家の影響も強く受けました。特に1507年から約100年間は、ポルトガルの支配を受け、引き続きペルシャが180年間支配しましたが、1783年にカタール半島にいたハリーファという部族がバーレーン島を占領して、支配権を確立します。このハリーファ家が、現在の王家となっています。ちなみに、イランは180年支配したという歴史的な事実をもとに、1970年まで、バーレーンの領有権を主張していました。
1880年にイギリスの保護領となったバーレーンは、1932年、ペルシャ湾岸では初となる石油生産を開始。一時、石油収入で潤いますが、油田の規模が小さかったため、1970年をピークに石油生産が頭打ちとなり、新たな産業の確立を模索しなければなりませんでした。英国のスエズ運河以東からの撤退政策に伴って、1971年に独立を果たしたバーレーンは、中東屈指の石油精製所を筆頭に、製鉄、アルミ精錬、造船など、産業の多角化を推し進め、油田の枯渇に対応しました。また、1975年のレバノン内戦以降は、レバノンに替わって中東の金融センターとしての役割も果たしています。
2.ハマド国王の改革とは?
少数派のスンニー派が多数派のシーア派を統治している現在の政治形態と、カタールとの領土問題です。バーレーンでは、ハリーファ家ほか支配層がスンニー派イスラム教徒で、国民のほとんどがシーア派という、湾岸諸国独特の人口構成となっていますから、独立後は両者の対立が絶えませんでした。1992年以降は激しい民主化運動が発生。イサ首長は議会に代わる諮問評議会を設置することで妥協しようとしましたが収まらず、94年以降は反政府暴動が頻発しました。
そんな最中、1961年から首長を務めていたイサ・ハリーファ首長が99年に死去。長男のハマド・ハリーファ皇太子が即位しますが、ハマド首長は男女平等の参政権を認めた地方選挙の実施など民主化推進を公約。2002年からは政治制度を自ら改革して立憲君主制へ移行。二院制の議会を設置したり、司法の独立を進めたりして次々と民主化を進めています。
バーレーンは、バーレーン島を中心とする大小35の島々で構成されていますが、小島群の領有権をめぐって、隣国カタールと対立関係にあります。99年末にカタールのハマド・サーニー前首長がバーレーンを訪問して、領土問題の平和的解決を目指す合同委員会の設置と、初めての大使交換で合意したのですが、バーレーンは2000年に協議停止を表明。問題は国際司法裁判所に持ち込まれているところです。