ネパール連邦民主共和国
出典:外務省HP
1.ネパールの歴史を教えてください
ネパールは、南はインド、北はチベットに、東はシッキム地方をはさんでブータンに接する山岳地帯に位置しており、特に登山家にとってはヒマラヤ登山の玄関として、なくてはならない国です。
さて、ネパールは山岳地帯にある内陸国という性格上、通商以外は産業発展の基盤もなく、強力な王朝ができる要素はありませんでした。考古学では、5世紀に王国の存在が確認されていますが、資料に乏しく、はっきりとした国の形態はわかっていません。
ネパールが初めてそれとわかる発展を遂げたのは、13世紀に始まって18世紀まで続くマッラ王朝の時代でした。この王朝のもとで、密教色の濃いネパール独特の仏教が開花して、同時に「ネワール文化」という独特の建築、芸術様式が生まれました。社会的にはインドの影響を強く受け、14世紀にはカースト制が法制化されています。
しかしながら、15世紀に王国が分裂してからは次第にその勢力も衰え、1769年には、西ネパールのゴルカに根拠地を置くゴルカ勢力の指導者プリトビ・ナラヤン・シャハ王によって首都カトマンドゥを征服され、滅びます。このシャハ王が、現在にまで至るネパール王国の初代の王となるのです。ネパール王国の別名がゴルカ王国と呼ばれるのは、このためです。
ゴルカ王朝は、カトマンドゥ攻略後、東西南北に領土を拡大しますが、当時、北のチベットは中国(清朝)が間接統治を行なっており、ゴルカ王朝の拡大政策に神経を尖らせていました。そこで、清朝は1790年に軍を派遣してゴルカ勢力を撃破。以後、ネパールは中国への朝貢国となります。19世紀にはいると、インド進出を展開していたイギリスがゴルカ王朝の拡大主義に歯止めをかけるため、1814年にネパールに侵攻。約3年間の戦い(グルカ戦争)はイギリス軍の勝利に終わり、16年、ゴルカ王朝は東のシッキム地方、西のインド国境地域を失い、さらにイギリスの間接統治を受け入れることになりました。ちなみに現在のネパールの領土は、このゴルカ戦争後の領土がもとになっています。
2.ネパールの民主化の歴史を教えてください
さて、ネパールの王政は、1769年から現在に至るまで脈々と続いているわけですが、250年にわたる長い歴史の中では、その権力が 強まった時代と、弱まった時代が交互に繰り返されています。まず、1846年には、ジャンガ・バハドゥル・ラナという高級官僚が武力によって実権を握り、国王の権力を剥奪して105年間ネパールを独裁的に統治します(ラナ時代)。この間、ラナ政権は親英政策を続け、当時イギリス領だったインドとの交易で経済的な基盤を築きあげました。1923年にイギリスの間接統治から独立したネパールは、47年のインド独立を機に民主化への道を模索。インドの協力もあって、51年、反ラナ勢力が結集してトリブバン王を擁立し、立権君主制を導入。59年には新憲法が導入されて総選挙が行なわれました。その結果、ネパール会議派創設者であるM.P.コイララの息子のB.P.コイララが首相となり、民主化への1歩を踏み出したかに思われました。
しかし、55年に死去したトリブバン王を継いだマヘンドラ王は、民主化で国王の権限が制限を受けることを恐れ、60年に軍を動かして全権を掌握。62年には新憲法を公布して、国王が首相を任命し、国、県、郡、町、村単位にパンチャーヤットと呼ばれる行政組織を置く、いわゆる「パンチャーヤット民主主義」を始めます。このとき弾圧されたネパール会議派を中心とする民主化勢力はインドに亡命。インドも彼らの活動を支援したため、ネパールとインドの関係が悪化。ネパールはついに中国に接近してインドを牽制する政策をとったために、両国間で緊張が走り、1989年にはとうとうインドとの貿易商業協定の更新が停止してしまいました。
この貿易商業協定というのは、インド、ネパール両国の国民に、それぞれの国に移動し、居住し、経済活動を行なえる権利を与えるばかりでなく、物品の移動に関しても、関税はかけないという取り決めで、両国の平和友好協定と共に1950年に締結されたものです。つまり、「国境の無いヨーロッパ」を標榜する現在のEUと同じシステムが、すでにインドとネパールの間で実現していたわけです。
さて、ネパールが貿易を行なう場合、北部のチベット経由で、いくつもの山と砂漠を越えて中国沿岸部に輸送するということは、ほとんど無意味に近いことですから、インドとの、この協定が停止するということはネパールを兵糧攻めにするということに等しいわけです。実際、出口をふさがれたネパール国民はたちまち経済的に困窮して、90年には大規模な反政府デモが起きます。結果、ビレンドラ国王(72~2001年)は国民の民主化要求を受け入れ、パンチャーヤット体制を放棄して、主権在民を謳う現在の新憲法を採択することになったのです。91年には59年以来32年ぶりに新憲法に基づく下院直接選挙が行なわれ、ネパール会議派が過半数の議席を獲得。首相には59年に初の首相となったB.P.コイララの弟であるG.P.コイララ氏が選出されました。
90年の新憲法では、議会が上下二院制となり、下院議員は直接選挙で選出され、内閣の権限が強化されるなど、国王の権限が縮小された形となりますが、枢密院議長である国王には、上院議員の一部を任命する権限と、非常事態宣言を出す権限が残されています。
さて、やっと民主化に成功したネパールではありましたが、91年のコイララ内閣発足以来、政権の不安定な時期が続きました。91年から99年までの内閣の平均寿命は約15カ月ですから、これではまともに国の運営に携わることは不可能です。さらには、96年にネパール共産党毛沢東派が、王制打破を目標とした「人民戦争」を開始して、2006年までの11年間にわたって内戦状態が続きました。
2001年にはビレンドラ国王が暗殺されるという事態が発生して、ギャネンドラ国王が即位します。ギャネンドラ国王は2002年に議会を停止して、国王の実権を回復。2005年には国王の権限をさらに強化した絶対君主制を導入しましたが、かえって混乱は深まりました。結局、反王政で結束した民主化の要求にこたえる形で2008年に憲法議内選挙が行われ、ギャネンドラ国王は退位。ゴルカ朝は終焉を迎えました。
2008年の選挙でラーム・ヤーダブ氏が、ネパール初代大統領に就任して、国名も「ネパール王国」から「ネパール連邦民主共和国」に変更しましたが、その後の政権も長続きせず、2008年から2019年現在までに12もの内閣が組閣と辞職を繰り返すという混乱を経験しています。この様な状況の下で2008年に始まった新憲法の草案作りは困難を極め、新憲法が発令されたのが7年後の2015年のことでした。この新憲法の下で、初の女性大統領となるビドヤ・バンダリ女史が就任。2017年に地方選挙と下院議会選挙が行われ、2018年にはシャルマ・オリ首相が組閣しています。
3.日本とネパールの関係は?
日本は、長くネパール最大の援助国で、民間でもさまざまな交流関係が続いています。1999年には仏教学者で探検家の河口慧海(えかい)氏が1899年にネパールを訪れたことを記念して、「日本とネパールの民間交流100年記念祭」などが開催されるなど、多岐にわたる民間交流が、両国間の関係の特徴になっています。