ヌエバ・グラナダ副王領グループ
コロンビア、エクアドル、ベネズエラ
シモン・ボリバルとサン・マルティンの銅像 cc Martin Zeise
コロンビア・エクアドル・ベネズエラ・パナマ4カ国は、もともと一つの国だった?
1492年、コロンブスがヨーロッパ人としてはじめて米大陸に到達して以来、新大陸の経営のためにスペイン人が次々と大西洋を渡り、1499年に現在のコロンビアに到達。1509年から、いよいよ南米大陸北部の占領を開始します。1538年にボゴタ市(現コロンビア)を建設したスペイン勢力は、そこを拠点として植民地を拡大し、1718年、ボゴタを首都とし、現在のコロンビア、パナマ、エクアドル、ベネズエラにまたがる広大な領土を持つ、ヌエバ・グラナダ副王領を建国します。
しかし、この植民地は長続きしませんでした。19世紀に入ると本国スペインの力が衰え始め、オランダやイギリスに制海権を握られるようになると、スペイン船も自由な航海が出来なくなり、海外植民地の経営も難しくなっていったのです。
18世紀末から単発的に起こっていた反植民地運動は、このように弱体化するスペイン植民地勢力に反比例するように勢いを増して行きます。特に1776年のアメリカ合衆国独立宣言、1789年のフランス革命、1808年のナポレオンによるスペイン侵攻は、南米の国々に強い影響を与え、19世紀の初頭の独立運動へと発展して行きます。
ヌエバ・グラナダ副王領で、最初に独立運動が始まったのが、現在のベネズエラでした。ベネズエラ独立運動の指導者シモン・ボリバルは、1808年末、ベネズエラの独立を一方的に宣言(ベネズエラ共和国)。アメリカ合衆国の影響を強く受けた独自の憲法を制定します。
ベネズエラの独立自体は、結局植民地支配者層の圧力で失敗したのですが、その後、独立を目指す運動は、現在のコロンビア、エクアドルなど、植民地の至るところで展開され、独立派は、1810年、とうとうヌエバ・グラナダ副王領から副王(スペインから派遣された植民地統治者)を追放することに成功。その後9年間続いたスペイン軍との戦争にも勝利を収めた植民地解放軍は、1821年、ヌエバ・グラナダの地にグラン・コロンビア共和国を建国。独立運動の指導者シモン・ボリバルが初代大統領に就任します。
しかし、偉大な指導者が亡くなると悲劇が訪れます。もともとスペインの植民地支配に抵抗する勢力は、一つにまとまっていたわけではありませんでした。実際には、ベネズエラではベネズエラで、エクアドルではエクアドルで、それぞれ別個に抵抗運動が展開されていたわけです。それでは効率が悪いということで、1819年、シモン・ボリバルが反植民地勢力の代表と話し合って、個々の独立運動を一つにまとめることに成功したわけです。
さて、「スペイン勢力打倒」という目的のために集まったそれぞれの地域の指導者たちは、当初の目的を達成すると、以後、些細なことで互いに反目しあうようになります。老齢のボリバルは、国の安定のために東奔西走しますが、力尽きて1830年に死去。同年グラン・コロンビアは解体して、ベネズエラ、ヌエバ・グラナダ、エクアドルという3国家に分かれ、また、ヌエバ・グラナダは、後に現在のコロンビアとパナマにわかれることになります。
以下に、ヌエバ・グラナダ副王領が分裂して出来た4つの国のうち、パナマを除く南米の3カ国のその後について見ていきましょう。