ニジェール共和国

出典:外務省HP

1.96年のクーデター後、政治的混乱が続く

 ニジェールの地が国家として形成されるのは、19世紀末にイギリスとフランスがこの地域に進出して、それぞれの支配地域を確定してからです。1898年には、イギリスがナイジェリアを、フランスがニジェールの支配権を相互に確認して、1906年には双方の国境が引かれて、国家としての体裁が整いました。

 以後フランスは現地アフリカ人の激しい抵抗を鎮圧して1922年にフランス領西アフリカ連邦の一部としてニジェール植民地を組み入れることになりました。

 ニジェールの独立運動は1950年代末に、親仏派のニジェール進歩党(PPN)と、左派のニジェール民主同盟(UDN)が中心となって進められます。フランス政府は57年にニジェールの自治政府発足を認め、58年に、フランス共同体内にとどまるか否かを問う国民投票が行われました。結果はフランス共同体内にとどまることに賛成する票が78%を占め、同年末に行われた総選挙で親仏派のニジェール進歩党(PPN)が勝利を収め、ニジェールはPPNのディオリを首相とするランス共同体内の自治共和国となりました。

 二年後の60年に完全独立を果たしたニジェールは、ディオリ初代大統領のもと、次第に一党独裁の強権的支配体制をしくようになります。また、ディオリ政権は腐敗と非効率のため、67年から7年間連続して起こった旱魃に対応することができず、クンチェ参謀総長による74年のクーデターを喚起することになります。クンチェ議長は、そのころ発見されたウラン鉱石の輸出で政権を維持。87年に病死するまで、徐々に民政移管への体制づくりを図りました。クンチェ議長の病死後は、いとこのアリー・セブ参謀長が後任を勤め、89年12月の選挙で大統領に就任します。

 セブ政権は90年に複数政党制を導入。91年には国民各界の代表で構成される国民会議を開催。新憲法に基づく初の複数政党制総選挙を93年に実施するなど、民主化への手続きを矢継ぎ早にこなしていきます。しかし、93年の選挙で民主社会主義党(CDS)のマハマネ・ウスマン氏が大統領に就任したあたりから雲行きが怪しくなります。95年の総選挙で、野党連合に勝利を許したウスマン政権は、野党・発展社会国民運動(MNSD)アマドゥを首相に任命しましたが、大統領と首相の対立が続いて政局が混乱。この隙に乗じて96年には軍のクーデターが発生して、イブラヒーム・マイナサラ参謀総長率いる救国委員会が全権を掌握。同年7月には大統領選挙が実施され、マイナサラ新大統領が誕生します。しかし、マイナサラ大統領は99年、首都ニアメの空港で暗殺され、軍部は、国家和解評議会議長のワンケ少佐を暫定国家元首に任命。同年11月に大統領選挙を実施した結果、発展社会国民運動(MNSD)のママドゥ・タンジャ氏が当選。ママドゥ大統領の下、2000年1月にハマ・アマドゥ新内閣が発足しましたが、国内の安定は続かず、経済的にも疲弊の一途をたどりました。また90年代初期から北部で自治を求めるトゥアレグ族が反政府ゲリラ活動を繰り返し、特に2007年から2年間、トゥアレグ抵抗運動として表面化しました。

 ニジェールでは大統領の3選は禁止されていましたが、2010年、ママドゥ大統領は3選を目指して強引に旧憲法を改正。このことが国内の緊張を高めました。軍はクーデターを起こして民主主義の復興を宣言。翌2011年に改めて選挙を行い、ニジェール民主社会主義党のマハマドゥ・イスフを選出。イスフ大統領は2016年の大統領選挙で再選。現在に至っています。

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