ナゴルノ・カラバフ紛争

cc Aivazovsky

 アゼルバイジャン共和国の、ちょうど中ほどにナゴルノ・カラバフ自治州がありますが、ここが紛争の舞台です。紛争は、ナゴルノ・カラバフ自治州のアルメニア人が、アルメニア共和国への帰属を要求したことが発端となりますが、その前に、アルメニア人とはどのような民族であるか、簡単に押さえておきましょう。

1.アルメニア人の歴史

 アルメニア人というのは、アルメニア語を話し、アルメニア正教という、単一論のキリスト教を信仰する民族です。旧ソ連邦の独立国家共同体(CIS)の構成国であるアルメニア共和国は、アルメニア人がその人口のほとんどを占める共和国です。

 ただし、アルメニア人の人口は、アルメニア共和国内より、国外のほうが多いのです。なぜかというと、アルメニア人は、度重なる弾圧を受け、その人口の多くが国外に逃亡してしまったか、旧ソ連内で、強制的に移住させられたかしたためです。この点で、アルメニア人は、ユダヤ人と境遇が似ています。

 アルメニア人がアルメニア人たる所以は、宗教的な信条にあります。4世紀のはじめにキリスト教化したアルメニアは、世界でも最も早いキリスト教受け入れ国となりますが、6世紀にキリストの単性論*を受け入れたことが運の尽き。ローマ帝国は単性論を異端としていたため、アルメニア教会はローマ教会と対立。結局、独自の典礼をもつアルメニア教会がローマ教会から独立して現在に至っていますが、ローマ帝国から始まって、アルメニアの歴史は迫害につぐ迫害の連続でした。

 まず、ローマ帝国の宗教公会議で異端とされた単性論を教義とするアルメニア教会は、東ローマ帝国の中で孤立します。7世紀にイスラム化が進む東地中海で取り残されたアルメニア人は、11世紀のセルジュークトルコ帝国時代に、アナトリア半島東部の山岳地帯、俗にアルメニア高原と呼ばれる地域に移動。1080年に、キリキア・アルメニア王国を建国します。

 アルメニア高原は、当時の東西交易の中継地点として栄えましたが、戦略上の要地でもあったため、後にオスマントルコ帝国、サファビー朝イランと帝政ロシアがアルメニアの領有権を互いに争うことになり、アルメニアは分裂、弱体化します。1828年にロシアとイランとの間で交わされたトルコマンチャーイ条約では、アルメニア東部が帝政ロシアの領土となり、1917年の共産革命以後は、そのままソ連の領土となりました。

 ということで、アルメニアはソ連の支配下にある東アルメニアと、トルコの支配下にある西アルメニアとに分断されることになりますが、ソ連は、アルメニア人をソ連領内に強制的に分散移住させることでアルメニアの民族色を薄めていった反面、アルメニアの民族運動を利用して、トルコ領アルメニアを併合しようとします。対するトルコは度重なる弾圧と虐殺でそれに対応したため、トルコ領内のアルメニア人の人口は激減。さらに海外の逃亡するアルメニア人も多数現れ、現在は、レバノン、シリアのほか、アメリカ、特にカリフォルニア州に多くのアルメニア移民が見受けられます。海外のアルメニア人口は、推定650万人と言われ、これはアルメニア共和国の人口約300万人より多い数字となっています。

キリスト単性論

5世紀前半に現れた神学説で、キリストをあくまでも神と考える解釈。キリストは、受肉前は神性と人性の両性を有するが,受肉後は神の本性しかもたないとの立場をとる。 


2.ナゴルノ・カラバフ自治州とアルメニア人

 カスピ海とイランに面するアゼルバイジャン共和国は、構成人口のほとんどがトルコ系のアゼルバイジャン人ですが、人口の5%をアルメニア人が占めています。そのアルメニア人は、ナゴルノ・カラバフ自治州に集中して住んでおり、同自治州の中の8割はアルメニア人で占められています。これらアルメニア人が1988年にアルメニア共和国への帰属を要求したことが、事件の発端です。

 アゼルバイジャンは、ナゴルノ・カラバフを自治州から直轄領に変更して、独立志向のアルメニア人をけん制しますが、その一方で、アルメニア共和国のほうは同州の独立を大歓迎。この頃からアルメニア共和国内にいるアゼルバイジャン人に対する襲撃や強姦事件が多発してきます。さらにはナゴルノ・カラバフにいるアルメニア人を受け入れるためにクルド人住居が襲撃され、多数のクルド人が難民なって国外に逃れるというクルド人にとってはとばっちりの様な事件も起きました。

 一方、アゼルバイジャン共和国内でもアルメニア人に対する憎悪が高まり、1990年にはアルメニア人虐殺事件(バクー事件)が発生したり、両派の民兵同士の襲撃事件が頻発したりするようになりました。

 1992年、ナゴルノ・カラバフで住民投票が行われ、独立を宣言するに至りますが、アルメニア共和国はいち早くその独立を承認。ナゴルノ・カラバフに至る、アゼルバイジャンのラチン地区に侵攻して同地区を占領したものですから大変。同州を巡るアルメニア共和国とアゼルバイジャン共和国の対立はエスカレートし、ついに1万8千人と言われる多数の死者を出す紛争にまで発展しました。

 この紛争は、ロシアの調停で94年に停戦が成立しましたが、その後の対応については、なかなか話し合いが決着しませんでした。1997年には欧州安全保障協力機構(OSCE)の仲介で和平調停が始まり、アルメニア共和国のテル=ペトロシャン初代大統領が、ナゴルノ・カラバフの一部をアゼルバイジャンに譲渡するという和平案を打ち上げますが、これはアルメニア国内で評判が悪く、テル=ペトロシャン大統領は失脚。強硬派のコチャリン大統領が就任。これで対話路線は頓挫します。

 現在、ナゴルノ・カラバフは、アルメニア共和国の自治州として独立。アルメニア側は、ナゴルノ・カラバフのほかにアゼルバイジャン領土の14%を占領した状態で現在に至っていますが、この状態が国際的に認可されているわけでもなく、問題の最終決着にはまだ時間がかかりそうです。

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