ナイジェリア連邦共和国
出典:外務省HP
ナイジェリアにはきわめてわかりやすい特徴があります。それは、国土が民族によってきれいに3分割できるということです。この国は、この民族的性格と、軍事政権対民生化勢力という二つの軸で振り分けるときれいに整理することができます。以下に詳しく見ていきましょう。
1.ナイジェリアの特色
まず、ナイジェリアの特色として、国土が大まかに分けてハウサ族、フラニ族が多く居住する北部地域、イボ族が集中する東部地域、そして西部のヨルバ族中心の地域という3つの地域に分けられます。まず、北部のハウサ族ですが、彼らはアフロ・アジア系のハウサ語を話すイスラム系住民で、かつてはサハラ砂漠縦断通商路の出入口として栄えました。ハウサ語を話す人口は、アフリカ全体で2000万人以上もいるということで、アフリカの共通語としての特徴を持っているとされています。また、北部地域では清涼飲料水の原材料となるコーラの実が原生していることでも有名です。
ハウサ族はイスラム化した14世紀以降、7つの中央集権的な国家を建設しましたが、19世紀にはサハラ南部で起こったイスラム改革運動の影響を受けたフラニ族がハウサ族の国家を支配して、現在のカメルーンに及ぶ広大な領域を持つフラニ王国を建設しました。
ナイジェリア西部には、ヨルバ族の集中する地域が展開します。ヨルバ族は、ハウサ族とは言語体系が違う、ヨルバ語を話す民族で、1000万人ほどの人口を抱えています。もともと中心部に居住していたヨルバ族は、14世紀から18世紀にかけて隣国のベニンにまたがるベニン王国を建国して主にポルトガルとの奴隷貿易を仲介することで巨大な富を得ていましたが、圧政による内部崩壊で弱体化して、19世紀にはフラニ族の支配下に入った北部を嫌い南下して、現在の地にいたったものです。
最後に東部のイボ族は、別名ビアフラと呼ばれる地域に集中して住んでおり、イギリス植民地時代は官吏として重用されました。また、商人としての才覚にも長けていて、イギリス植民地時代には一番よい思いをした民族です。現在の人口は900万人程度だといわれています。
このように、言語も、歴史も、付き合いの深い西欧諸国もそれぞれ違う民族が合わさってできた国がナイジェリアですから、この国をまとめるのは大変です。それも、少数民族とはいえないほどの多くの人口を抱えた民族同士ですから、一度民族間のバランスが崩れると、大変なことになります。
2.ナイジェリアの歴史を簡単に教えてください。
さて、ナイジェリアには15世紀の後半にポルトガル人が渡航するようになり、19世紀まで奴隷貿易が盛んに行われていました。このために、ナイジェリアの沿岸地帯は、通称「奴隷海岸」と呼ばれるようになります。19世紀になると、イギリスがナイジェリアに注目しはじめます。注目したのはパーム油です。パーム油は、アブラヤシの果肉から取れる油です。イギリスではカカオバターの代用脂としてチョコレートに混入したり、マーガリンやショートニングなどの食用油として使用したりしますが、19世紀末からその需要が高まっていたのです。世界的に見ても、パーム油の原産地は、マレーシア、インドネシアと西アフリカでしたから、イギリスとしては、ナイジェリアのパーム油は、喉から手の出るほどほしいものだったわけです。そこで、イギリスは、「奴隷貿易を行うベニン王国はけしからん」と、ベニン王国にいちゃもんを付け、1851年にベニン王国の首都ラゴスを砲撃。1861年にはラゴスを直接の支配下におさめます。自分だって奴隷貿易をやっていたくせに、奴隷貿易はけしからんということで武力攻撃してしまうところが当時の西欧列強の押しのすごさですね。ちなみに、イギリスでは1834年に奴隷解放令が発令されていています。
ナイジェリア南部を実効支配したイギリスは、統一アフリカ会社(UAC)のもとで貿易を拡大していきますが、同時期、ナイジェリア北部に勢力を伸ばしてきたフランスとは商売敵でした。そこで、1884年から1年間かけて行われ、後に列強のアフリカ分割会議と呼ばれたベルリン会議で話し合いが持たれ、イギリスがニジェール川下流地域、つまり現在のナイジェリアを、フランスがニジェール川上流、現在のニジェールを管理することで決着がつきました。1886年には、ナイジェリアの貿易独占権を持つ、王立ニジェール会社(RNC)が新たに設立され、ナイジェリアに対するイギリスの関与は決定的になります。南部をおさえたイギリスは、次第に北部のフラニ王国の領土に勢力を伸ばし、1900年に保護領化。1914年にはついに北部も直接支配下に納めることになりました。
さて、第一次大戦後から第二次大戦にかけて、ナイジェリアでは民主運動が開花しましたが、政党も、それぞれの地域の利益を代表するものとなりました。すなわち、北部地域では、ハウサ族中心の北部人民会議(NPC)が、西部ではヨルバ族中心の行動等(AG)、そして東部ではイボ族中心で、隣国カメルーンにも勢力を伸ばしたナイジェリア・カメルーン国民会議(NCNC)が、それぞれ地域の利益を代表する政党として活動を開始したのです。この地域色が、後に重大な事件につながります。
3.ビアフラ内戦とはどのようなものだったのですか?
1960年にナイジェリア連邦として独立を果たしたナイジェリアでは、その後の国の運営に関して、北部、東部、西部それぞれの主張が対立し、地域的、民族的、宗教的亀裂が拡大する一方でした。そんな中、1964年末に行われた総選挙では、不正が蔓延し、指導者層に対する国民の不信が拡大。軍部は、その混乱の隙を突いてクーデターを敢行。東部イボ族出身のイロンシ将軍が北部出身の指導者を暗殺して、1966年、実権を握ります。これに対する報復として、北部では北部に在住するイボ族の大量虐殺が発生。イロンシ将軍もクーデターで暗殺され、ゴウォン中佐が実権を握る軍事政権が樹立されました。それでも北部のイボ族に対する虐殺の動きは止まず、100万といわれるイボ族住民が、東部に移住。独立分離を望む声が熱狂的な高まりを見せます。そして、翌67年、東部州の軍政長官だったオジュクはビアフラ共和国の独立を宣言。それを無効とする政府軍との間でナイジェリアは内戦(ビアフラ戦争)へと突入するのです。
ビアフラ共和国側は、緒戦で圧倒的な力を見せましたが、次第にナイジェリア政府軍が巻き返しを見せ、結局1970年にビアフラの臨時首都オウェリが陥落してオジュク氏はコートジボワールに逃亡。内戦は終焉を迎えます。多数の犠牲者を出したこの内戦でしたが、その後の民族宥和政策で国内はそれ以上の大規模な衝突もなく推移しています。
4.ナイジェリアの最近の動きを教えてください。
ビアフラ内戦の終わったナイジェリアは、「民政移管」対「軍事独裁」という対立構図で動いていきます。
内戦終了後、しばらくはゴウォン政権が軍事独裁政権を維持しますが、75年のクーデターでゴウォン政権が崩壊し、民政移管を訴えるモハメド将軍が実権を握ります。モハメド将軍は、5ヵ月後の翌76年に暗殺されますが、民政移管を訴える彼の意思は、オバサンジョ最高軍事評議会議長に引き継がれます。オバサンジョ氏は、77年に憲法を取りまとめるための議会選挙を実施。78年に新憲法をまとめます。それに基づき、79年には議会選挙と大統領選挙を行い、国民党のシャガリ党首が大統領に就任することになります。64年の不完全な総選挙以来、15年ぶりの総選挙で選出されたシャガリ政権は、83年の大統領選挙でも勝利し、長期安定政権が訪れるかに見えたその矢先、同年末、再びクーデターが起こり、ブハリ少将が実権を掌握します。
ブハリ少将は、悪化するナイジェリア経済の建て直しのため、国外の持ち出した現地通貨を無効とするなど、かなり無茶な政策を実行して国民の信頼を失いますが、これに対して反旗を翻したのが、モハメド将軍の流れを汲むババンギダ陸軍参謀長でした。85年、無血クーデターで実権を掌握したババンギダ氏は民生への復帰を表明。軍事政権下で投獄された政治犯を釈放して、上下二院制、二大政党制への移行を促し、政党活動も解禁しました。89年には新憲法が制定され、社会民主党(SDP)と全国協和会議(NRC)が発足。92年には総選挙が行われ、SDPが両院で第一党となりました。93年初頭には実業家のアーネスト・ショネカン委員長を筆頭に民生移管評議会が設立されました。しかし同年6月の大統領選挙でSDP党首のモショド・アビオラが勝利した際、ババンギダ大統領は不正を理由に選挙を無効とします。これを不満とする国民の間でゼネストや暴動が頻発し、結局ババンギダ大統領は同年8月に辞任。変わってアーネスト・ショネカン氏が暫定首相に就任しますが、その混乱に乗じる形で、93年11月、民生移管反対派の筆頭アバチャ国防大臣がクーデターで政権を掌握。議会や政党を解散して、民政派への弾圧を開始します。94年にはSDP党首アビオラ氏が自宅に軟禁され、一度逃亡を企てますが、またつかまって国家反逆罪で起訴。95年にはババンギダ元大統領派の幹部や、オバサンジョ元最高軍事評議会議長などの民生派が次々と投獄されました。96年には民主化運動の象徴的な存在だったアビオラの妻が暗殺されました。
さすがにこれだけの弾圧をして、国内がまとまるはずがありません。アバチャ議長は、高まる批判に応えるように、98年10月からの民政移管を宣言した後死去。軍部は後継者にアブバカル少将を任命します。アブバカル氏は民政化への約束をきちんと守り、アビオラ氏や、オバサンジョ元議長などの民政派の政治犯を釈放して、99年の大統領選挙を公正に行いました。残念ながら、アビオラ氏は釈放1ヶ月後、心臓発作で死去しましたから、かわって国民の人気を独占した国民民主党のオバサンジョ元議長が大統領選挙で圧勝。16年ぶりに民政が復帰しました。
5.ナイジェリアは石油輸出国なのですか?
ナイジェリアでは1956年の石油発掘以来、70年代を通じて従来の農産物輸出を主体とする産業構造から、石油輸出をほとんど唯一の外貨獲得手段とする構造への変換が急速に進められました。石油はニジェール川のデルタ地帯とその沖合で産出され、推定の埋蔵量は200億バレルとされています。ニジェール川デルタ地帯にはその他に、2兆8000億m3の天然ガスが埋蔵されているといわれ、現在西欧資本による開発が進められています。
ナイジェリアの石油は、現在中東産原油に対する依存度を低くしようと考えている西欧諸国や米国によって開発されてきましたが、80年代の世界石油市場の悪化と、何よりもその潤沢な石油収入が国民に還元されない腐敗した政治体制によりナイジェリア経済は行き詰まり、対外債務が拡大しています。特に、食料の自給率が低いナイジェリアでは、通貨の安定と対外債務の削減が最大の政策案件となっています。
6.ナイジェリアの現状は?
1999年、新しい憲法のもとで行われた初めての民主選挙で選出されたオバサンジョ大統領は、2000年に1月に憲法改正を行いましたが、その中でイスラム教徒の多い北部では、住民の合意を条件にイスラム教裁判所の設置を認めました。この憲法改正後、北部のザンファラ州がイスラム法を導入。他州もこれにならう動きが活発化しますが、これに反発するキリスト教徒とイスラム教徒の衝突が絶えず、2月にはカドゥナ州で、キリスト教徒とイスラム教徒が衝突し、数百人が死亡する事件が発生しました。2007年まで、比較的安定した政権を維持したオバサンジョ大統領でしたが、その反面汚職が横行し、次第に国民の支持を失っていきます。2007年の大統領選挙では国民民主党のウマル・ヤラドゥアが政権を取りますが、その選挙に不正投票があったとして当初から国民の支持は低く、また、2009年にはテロ組織ボコ・ハラムの蜂起が発生して混乱が広がります。2010年にヤラドゥア大統領が病死すると、副大統領のグッドラック・ジョナサンが政権を継承。2011年の大統領選挙でも再選を果たしましたが、この選挙結果が北部のイスラム教徒の反感を買って、イスラム教徒の暴動やキリスト教施設への襲撃などが多発しました。
2015年の大統領選挙でジョナサンを破ったムハンマド・ブハリ氏が第15代大統領として現在まで政権を運営しています。