トルコ共和国

出典:外務省HP 

 現在、中東では同盟関係の変化が起きています。まず、トルコはイスラエルと軍事面での協調を開始。真ん中にはさまったシリアを刺激していますし、シリアのほうも負けじと、仲の悪かったイラクと徐々に関係の修復を目指しているところです。また、シリア内戦でトルコ、シリア、イラクの国境地帯のバランスが大きく崩れ、クルド人問題と絡めて、シリア、イラクとの国境地帯の帰属問題に関しては決着がついていません。

 トルコ政府は自国をヨーロッパの国としており、普段は中東という範疇で議論することはないのですが、ここでは、あえてトルコ周辺の問題も中東という枠組みの中で見ていくことにしましょう。

1.トルコの現代史を簡単に説明してください。

 現在のトルコ共和国の前身は、1299年から1922年まで、アナトリア半島を中心に中東、北アフリカ及びバルカン半島を支配したオスマン・トルコ帝国です。同帝国は、19世紀になると「ヨーロッパの病人」とよばれるようになるまで衰退します。1830年には、ギリシャ独立戦争でギリシャが独立、1912年に起こったバルカン戦争では、バルカン半島を失ったオスマン・トルコは、第一次世界大戦でも、列強と組んだアラブ勢力にボロ負けし、その領土は、戦後分割縮小されることになりました。

 しかし、列強の分割案に最後まで抵抗し、武力闘争を始めた人物がいました。後にトルコ共和国初代大統領になる、ムスタファ・ケマル・アタチュルク氏です。トルコ独立戦争(1918~22年)とよばれるこの闘争で、ケマル氏率いる反乱軍は占領軍を駆逐。1923年、トルコ共和国を建国することに成功するのです。

 ちなみに、ケマル大統領の日本びいきは有名です。1904年の日露戦争で、当時の大国ロシアを破ったこの東洋の弱小国のことを、「西欧の帝国主義に果敢に挑戦した国」として賞賛していますが、彼の指導したトルコ独立戦争もまた、第二次世界大戦後の民族独立運動の指導者に、大きな影響を与えていくことになります。

 独立後のトルコは、従来のイスラム色を一掃。また、民族色も一掃して、「トルコにはトルコ人しかいない」という新たな国家の概念を打ち立てつつ、クルド人やアルメニア人など、少数民族色の排除を試みます。文字も、従来のアラビア文字をローマ字表記に変えたり、民主主義に基づく政治を展開したりして、西欧型の国づくりに励みました。

 しかしながら、宗教色や民族色は、簡単にはなくならないものです。ケマル氏の死後しばらくは、政局も安定していたトルコでしたが、50年代頃から再びイスラム勢力が台頭。またこういった宗教勢力とともに、クルド人、アルメニア人などを中心とした民族主義、国家主義を唱えるグループの政治活動も活発になり、70年代後半からは政党間で、武力衝突、クーデターも含む激しい抗争がくり広げられました。

2.1990年代のトルコの政局を簡単に解説してください。

 このように、1970年代後半には政局抗争に明け暮れたトルコでしたが、1980年代全般にかけて、強力な政治基盤を確立した祖国党のオザル党首のもと、「オザル王朝」と呼ばれるほどの、安定した政情が続きました。

 しかしながら長期政権はどこの国でも嫌がられるものです。1991年に行なわれた選挙では、オザル氏の祖国党に対する国民の不信感を現す形で、正道党が第一党に選出され、第三党の社会民主人民党と連立政権を組むことになります。

 93年、オザル大統領の死去によりデミレル正道党党首が大統領に就任しましたが、このとき首相に就任したのが、トルコ初の女性首相となったチルレル女史です。首相就任当時は、物珍しさも手伝って、人気が急上昇したチルレル首相でしたが、経済停滞、失業問題、対外債務問題、さらにはクルド問題 など、彼女をとりまく状況は、決して楽観できるものではありませんでした。とくに経済政策面で彼女の犯した失敗は大きく、大量の失業者は、次第にイスラム原理主義政党の福祉党支持にまわっていくのです。

 94年に行なわれた地方選挙では、かろうじて第一党の座を保ったものの、福祉党の躍進を許したチルレル首相は、その政治責任問題を問われる形で95年9月に総辞職を決意します。しかしデミレル大統領に再任を要請され、正道党の単独で新内閣をつくりますが、その新内閣も不信任となり、再び共和人民党と連立内閣を組閣。やっと信任されるという苦難の道でした。

 一方、政権内でそんなゴタゴタが続いている中、福祉党は、着実に勢力を拡大。95年12月に行なわれた総選挙では、とうとう第一党に選出されました。それ以後、どこの党がどこと連立を組むかで、トルコの政局は大混乱。96年3月には、第二党の正道党と第三党の祖国党が、「反イスラム」の名のもとで連立を組み、祖国党のイルマズ党首が首相に選出されましたが、これも長続きせず、連立内閣は6月に総辞職。こうなったら最後の手段と、チルレル首相が打ち出したのが、福祉党との連立でした。

 結局96年6月に発足した新政権では、エルバカン福祉党党首が首相に就任。これによって1923年の建国以来、かたくなに守られてきた政教分離政策が、はじめて破られることになったわけです。しかしながら多数派工作に失敗したエルバカン首相は、1年後の97年6月に辞表を提出。それを受けたデミレル大統領は、祖国党党首のイルマズ氏を首相に指名しますが、これも98年、不信任決議を受け、99年からは民主左派党のエジェビット党首の3党連立新内閣が発足。2000年には前憲法裁判所長官のセゼル氏が新大統領に選出されます。

 トルコ政局の混乱はその後も続きますが、2007年には公正発展党のギュル氏がトルコ初のイスラム系大統領として選出されます。2009年にもイスラム系の公正発展党が勝利。2010年には政治に対する軍の介入を抑える憲法改正が国民投票で成立して、トルコ政局はやっと安定期を迎えます。2014年には同じ公正発展党のエルドアン大統領が就任。現在二期目の政権を運営しています。2018年には大統領権限のさらなる強化を盛り込んだ憲法改正案が可決して、同年、首相職は廃止されました。

 さて、混乱を重ねたトルコ政局は2010年以降安定期を迎えるのですが、ここで厄介な問題が浮上してきました。クルド問題にからむシリア、その他との関係悪化と、イスラエルとの接近によるアラブ諸国の批判です。

3.トルコとシリアの関係悪化は、何が原因なのですか?

 「クルド人問題」でも触れたとおり、クルド人独立派に対するトルコの執拗な弾圧は、周辺諸国にも様々な影響を与えています。特にクルド労働者党(PKK)封じのために1996年以来イラク北部に駐留するようになったトルコ軍に対する警戒心が、シリア、イラン、イラクの三国から出てきていました。

 トルコと同様に、クルド人の独立運動を阻止しようと躍起になっているイラク政府は、自分のかわりにイラク北部で「クルド人狩り」をしてくれるトルコに対し、今まで見て見ぬふりをしてきましたが、あまり自国領内に居座ってもらっても困ります。また、イラクと境界線を接するイランにとっても、強力なトルコ軍の駐留は、けむたい存在です。特にシリアは国内のクルド人組織に対して支援を行ってきたとされていますから、トルコ軍の駐留は邪魔以外のなにものでもありません。

 そんな中、クルド労働者党(PKK)にとって大きな問題が1999年に起こります。最高指導者のアブドゥッラー・オジャラン党首がトルコ当局に逮捕され、死刑判決を受けたのです。オジャラン氏は裁判の不当を主張して欧州人権裁判所に訴えたため、EUへの加盟を表明していたトルコは死刑執行を保留しましたが、PKK勢力はこれで勢いを失い、99年に一方的に休戦を宣言します。

 ところがこの休戦はトルコ軍によって一方的に破られ、2004年にトルコ軍がクルド人支配地域に進軍。クルド人は再び武装闘争へと駆り出されます。

 さて、2011年に始まったシリア内戦で、トルコはシリアのアサド大統領の勢力を打倒するために自由シリア軍というシリア国内の反政府勢力を支援しますが失敗。一方、アメリカ軍を中心とする有志連合は、シリア政府打倒からイスラム国打倒へと方向転換します。そこで、シリアのクルド人組織であるシリア・クルド民主統一党(PYD)とイラクのクルド人組織であるペシュメルガを軍事支援して、クルド人の手でイスラム国の打倒を目指すのです。

 ところがトルコ政府は面白くありません。シリア・クルド民主統一党(PYD)はトルコのクルド人組織であるPKKと強い協力関係にあったからです。2015年にイスラム国を撃退したPYDは、シリアとトルコの国境地域を統合してクルド人の自治区を作ろうとしますが、これにトルコが強く反発。PYD支配地域に対する空爆を決行します。ところが、PYDはアメリカにもロシアにも支援を受けている勢力であったため、トルコと両国との外交関係は悪化。特にロシアはトルコが支援するシリア内の反政府勢力の拠点を空爆したり、PYDとの関係を強化してトルコ政府に圧力をかけたりします。

 結局2016年にエルドアン大統領がロシアのプーチン大統領に謝罪をする形でロシアとの関係修復が進みますが、同年、クーデター未遂事件が発生。エルドアン大統領は、国内の反対派を粛清して支配体制を強化しましたが、国内のクルド人の問題を解決しようとしたトルコが、シリア内戦中、ロシア、アメリカという超大国と新たな緊張関係を生んでしまいました。現在は両国との関係修復も進み、アメリカもロシアも、2018年にトルコが行ったPYDに対する軍事作戦には口を挟まなくなりました。トルコ軍はさらに2019年、ユーフラテス川東岸地域のPYDに対して軍事作戦を展開。同地域におけるクルド人独立の芽を摘んでいます。

4.クルド人以外の対立点は?

 クルド問題以外でもトルコとシリアは対立関係にあります。ユーフラテス河上流に位置するトルコは、その水利権を一手に収めており、その下流に位置するシリアとは永く水の管理の問題で対立してきたのです。また、トルコ共和国の独立と同時にトルコの領土として編入されたシリア北部のヘタイ(シリア名アレクサンドレッタ)地方は、もともとフランスの委任統治領時代のシリア領でしたから、シリアは今でもこの土地の返還を主張しており、この領土問題の決着はいまだについていません。

 さらには、96年以来、トルコは、シリアの宿敵であるイスラエルとの関係を強化して来ており、98年1月には地中海で共同軍事演習を行なうなどしてシリアの神経を逆なでしてきました。2000年にはイスラエルのバラク首相がトルコを訪問して、エジェビット首相と軍事技術のトルコ供与について意見を交換。両国の軍事同盟は今後ますます強化されるのと思われますから、そうなるとシリアとしては挟み撃ちです。

 ということで、97年9月以降、シリアはトルコ国境付近に約5000人規模の部隊を展開してトルコ軍とにらみあう格好となっていました。またシリアは、70年代後半から反目しあってきたイラクとヨリを戻し、97年には18年間断絶してきた経済交流を再開。98年には16年ぶりにイラクとシリアを結ぶ原油パイプラインを再開することで合意しています。これも、イスラエル・トルコという新しい二国間関係に対抗する動きとしてとらえることができます。

5.「宿敵」ギリシャとの関係は?

 トルコにとって「宿敵」となるギリシャとの関係は、現在非常に好転しています。きっかけは99年に起きたトルコ北西部大地震。このときギリシャの援助隊がトルコ内で活動し、好印象を与えました。その1ヵ月後にアテネで震災が起こった際、今度はトルコの救援隊が活動を展開して、関係が大幅に改善したのです。まさに地震が取り持つ仲。

 ギリシャのパパンドレウ外相は2000年にトルコを62年ぶりに公式訪問。両国は観光や環境、投資相互促進・保護、テロ・組織犯罪などの対策に関する4協定に調印。ギリシャはトルコのEU加盟反対も撤回しました。また2017年にはトルコのエルドアン大統領が、国家元首としては65年ぶりにギリシャを訪問。今後、キプロス問題も、国境線の問題も話し合いで穏便に解決していけそうな雰囲気になってきています。

6.最近リビアの反政府勢力に肩入れしている様ですが?

 はい。リビア内戦の一角を形成するハフタル将軍派に軍事協力しています。詳しくは「最近のトピック」の「リビアの内戦はなぜ止まないのですか?」をご覧ください。

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