チュニジア共和国
出典:外務省HP
1.チュニジアの歴史を教えてください。
地図を見てわかる通り、イタリア半島からシチリア島を通ってチュニスに至るまでの距離は非常に短いことが見て取れます。ということは、必然的にイタリアの影響を受けやすい地であるということが分かります。歴史上、まずこの地の利を生かしたのが古代フェニキア人です。現在のレバノン共和国を拠点に地中海貿易で栄えたフェニキア人は、紀元前814年に地中海貿易の中継基地としてカルタゴを建国。以後、地中海貿易で繁栄したカルタゴは、一時期100万を超える人口を誇ったとされます。ちなみに現在のレバノンに国の象徴であるレバノン杉がないのは、この時代、交易船を建造する目的でレバノン杉が大量に伐採されたからだといわれています。
さて、カルタゴは紀元前264年、シチリア島の帰属をめぐってローマと数回にわたって戦争(ポエニ戦争)をしますが、ハンニバル将軍の活躍でローマ軍をあと一歩のところまで追い詰めながらも敗退。紀元前146年に滅亡します。その後、チュニジアと隣国リビアはローマ帝国の支配下に入ることになりますが、439年にはゲルマン系のヴァンダル族がカルタゴを占領。534年に東ローマ帝国に滅ぼされるまでの約100年間ヴァンダル王国の支配を受けます。
7世紀にはイスラム勢力の侵入があり、カルタゴの戦い(698年)に勝利したアラブ勢力は北アフリカをイスラム化してイベリア半島にまで版図を広げ、15世紀まで支配下におさめます。その間、チュニジアを含む北アフリカ地方は様々なイスラム王朝の支配が続きましたが、1229年にはチュニスにハフス朝が成立。1574年にオスマン帝国の支配下に入るまでの約350年間、西はアルジェリア、東はリビアのトリポリに至るまでの広い領土を統治しました。有名な歴史家イブン・ハルドゥーンは、このハフス朝の出身です。
1574年にハフス朝が崩壊し、オスマン領チュニスとして併合されたチュニジアは、しばらく帝国の直接統治を経験しますが、1705年、弱体化したオスマン帝国のすきをついてフサイン朝チュニス君侯国(ベイリク)として実質的な独立を果たします。1837年に即位したアフメド・ベイは西欧式の富国強兵策を推進して、1861年には憲法を制定。後継者のサドク・ベイは、アラブ世界では初めての立憲君主となりましたが、それもつかの間、反対派の抵抗で1864年には憲法が停止されてしまいました。
1878年のベルリン会議で列強のアフリカ分割が話し合われ、フランスはイギリスとイタリアの承認を得てチュニジアの宗主権を獲得しますが、当の本人はそんなことも知らず、フランスによる侵攻を撃退するために全力で戦います。フランスによるチュニジアの平定には時間がかかりましたが、1883年、最終的にフランス領チュニジアが成立しました。しかし、この頃の西欧列強って、びっくりするほど勝手ですよね。
さて、そんなフランスからの独立を求める動きは1907年の「青年チュニジア党」の創設から始まりますが、第二次世界大戦後にはブルギーバが主導する「新憲政党」が完全独立を要求。フランス政府は1956年、ムハンマド8世を国王とし、ブルギーバを初代首相とするチュニジア王国の独立を承認します。独立後の57年には王制を廃して大統領制を導入。ブルギーバが初代大統領に就任。「チュニジア共和国」が成立しました。
ブルギーバ大統領は就任以来30年間の長期政権を支えてきましたが、1987年に無血クーデターでベン・アリー首相が大統領に昇格。以後「ジャスミン革命」で退陣するまで長期政権を支えました。
2.ジャスミン革命とは何ですか?
ベン・アリー政権のチュニジアは、イスラム主義組織の武力抗争がもとで内戦が勃発した隣国のアルジェリアを反面教師として、イスラム組織に対しては厳しい制限が課せられて来ましたから、結果としてイスラム諸国の中では比較的穏健で安定的な国づくりが進められました。外資の導入も積極的に進められ、エアバス社やヒューレットパッカード社などの誘致にも成功して、2009年にはアフリカで最も競争力のある経済と位置付けられたこともありました。
しかしながらその一方で、若年人口の増大に伴う失業率の高さが際立っていて、2010年には若年層で30%もの失業率を抱えていました。そしてその国民の不満は1987年以来長期政権を担っていたベン・アリー大統領に向けられたのです。反政府抗議を行って来た一人の青年の焼身自殺をきっかけに反政府デモは全国に拡大。最終的には軍も巻き込んでベン・アリー大統領を国外追放することに成功した民主化運動は、チュニジアを代表する花をもじって「ジャスミン革命」と呼ばれ、「アラブの春」と呼ばれる民主化運動として他のアラブ諸国にも多大な影響を与えました。
さて、ベン・アリー大統領の後任も非常に民主的に行われました。2011年に行われたチュニジア初の自由選挙には、日本をはじめとした国際選挙監視団が参加。第一党となった「アンナハダ」の党首ジェバリが首相に、第二党代表のマルズーキが大統領に、第三党の党首のベンジャアファルが議会議長に就任するというすばらしいバランス感覚でした。
3.チュニジア・ナショナルダイアログ・カルテットとは?
しかし、2013年になると野党党首の暗殺事件が二度も繰り返され、国内で抗議行動が頻発。政府は崩壊の危機に陥りました。混乱の責任を取って辞任したジェバリ首相の後任にラライエド首相が就任しますが、ここで大きな助け舟が現れます。後にチュニジア国民対話四重奏(Tunisia National Dialogue Quartet)と呼ばれた国内主要4団体が対立する与野党の仲介役となって主要政治日程(ロードマップ)を提示。これに全政党が合意してチュニジアは混乱なく2014年の選挙を行うことができました。この件に関して、このチュニジア国民対話四重奏グループは2015年のノーベル平和賞を受賞しています。
さてこのカルテットによって提示されたロードマップに則って、まず2014年1月に就任したジョマア新首相のもとで新しい選挙への準備が進められ、2014年末に議会選挙と大統領選挙が無事行われました。選挙の結果エセブシ大統領とシェーヘド首相が選出され、チュニジアの内政はやっと安定を取り戻したのでした。2019年に行われた選挙ではサイード大統領が就任。2020年2月にはファフファーフ新内閣が発足しています。