チェチェン独立紛争
ロシア連邦内のチェチェン自治共和国は、人口の7割をチェチェン人が占める、きわめて民族性の高い地域ですが、歴史的に見ても、ロシアとは犬猿の仲で、いつ紛争が勃発してもおかしくはない雰囲気ではありました。
ロシアがカフカス(コーカサス)地方を支配下におさめるのは18世紀末のことですが、トルコやイランへとつながる道を確保し、ロシアの南下政策を実行するために、カスピ海と黒海の間に存在するカフカス地方は、無くてはならない地域でした。一方、カフカス地方に点在したのは、チェチェン人などのイスラム系の山岳民族で、古くから傭兵や用心棒などを生業とする、いわば由緒正しき山賊でした。彼らはロシアの侵入に対し、1820年代から約半世紀にわたる根強い抵抗運動(カフカス戦争)を展開します。カフカス地方は結局ロシアの大軍によって占領されてしまいますが、抵抗運動の火が消えたわけではなく、事あるごとに反乱が巻き起こっていました。ロシア革命で帝政ロシアが崩壊した1917年にも、カフカス地方は独立紛争を起こしていますので、ロシアとカフカス地方の仲の悪さは歴史的です。
チェチェン独立の動きはソ連崩壊の1か月前にあたる1991年11月に始まりました。当時、チェチェン大統領選挙で当選したドゥダエフ氏が、一方的なチェチェン独立宣言を発表。すぐに制圧できるというロシア側の思惑とは逆に、紛争は長期化。1994年にはロシアが大軍を率いて、一気に首都グロズヌイを制圧しますが、武装集団は隣のダゲスタン共和国などで再編成され、96年に停戦が成立するまで、双方ともにかなりの消耗戦が展開されました。96年8月には、レベジ・ロシア安全保障会議事務局長の外交手腕により、マスハドフ・チェチェン参謀長(97年1月の選挙で大統領)と全面停戦で合意。97年にはマスハドフ大統領とエリツィン大統領が和平条約に調印する形で、一応収まりがついたかに見えました。
しかし、99年8月、チェチェンの武装勢力が隣のダゲスタン共和国に侵入したことで、紛争の第二幕が切って落とされます。ロシアでは同月、プーチン首相が任命されていますが、プーチン首相はモスクワ市内のアパートに連続爆弾テロを加えるなどの強硬手段に出たチェチェンの武装勢力に対し徹底抗戦を主張。ことあるごとに独立派の動きを武力で封じ込めました。ちなみに、チェチェンの武装勢力に対して徹頭徹尾強硬姿勢で臨んだプーチン首相は、国民的人気を博して、翌2000年の大統領選挙で圧勝することになります。
カフカス地方は、帝政ロシアにとっては、南下政策のための回廊としての意義、ソ連時代には「石油の道」という性格が新たに加わりました。特にソ連崩壊後、中央アジア、特にカスピ海周辺国の新油田、新ガス田開発が急速に進められた結果、カフカス地方には「エネルギー生産」と「エネルギー運搬」という二つの重要な性格が加わり、ロシアにとっては最重要の戦略的な地域となりました。チェチェン紛争は、いわば、そんなロシアの喉にささった刺でしたが、ロシアが全力をあげてそれを取り除かなければならなかった訳が、これでお分かりになったでしょう。
チェチェンの独立派は、その後もテロ活動を継続しましたが、2009年にはテロ活動も沈静化。ロシア政府はチェチェン紛争にまつわる「反テロ特別治安体制」を終了すると宣言。チェチェン人の4分の一が死んだとされるチェチェン独立紛争は事実上終結しました。