タジキスタン共和国
出典:外務省HP
国土の大部分が世界の屋根と呼ばれるパミール高原と周辺の山岳地帯で覆われているタジキスタンは、比較的雨量が多く、南方からアラル海にそそぐアムダリヤ川の水源になっています。ソ連時代には、その水源を利用した水力発電所と灌漑用水路が建設され、綿花や穀物が栽培されるようになりましたが、耕地は国土の6%に過ぎません。他方、牧草地は広く、国土の約4分の1を占めています。石炭や石油、天然ガスが多少出るほかは、特に目立った産業もなく、旧ソ連諸国の中では最貧国のステータスに甘んじています。
中央アジア諸国の民族中で、唯一トルコ系ではなく、イラン系なのがタジキスタンの特徴です。また、ソ連崩壊前後に独立した中央アジアの国の中で、現在重大な問題を抱えている唯一の国がタジキスタンです。以下ではタジキスタンの歴史を簡単に見ていきましょう。
1.中央アジアで、タジク人だけイラン系なのはなぜですか?
タジク人の祖先は、紀元前から中央アジアに住んでいたイラン系の遊牧民族でした。主にサマルカンド周辺とアムダリヤ川のまわり、それからフェルガナ盆地に点在するオアシスを中心に活動していましたが、その頃にはまだタジク人としてのまとまりはありませんでした。「タジク」という名称が登場するのは9世紀、中央アジアにトルコ系の遊牧民が定住するようになってからです。彼らトルコ系住民は、ペルシャ語を話す人を「タジク」と呼んで区別したのです。
9世紀から10世紀にかけて、タジク人はブハラを首都とするサーマーン朝を建設してアラブ人の支配を退けますが、13世紀にはモンゴル帝国の、14世紀からはティムール帝国の支配をそれぞれ受けることになります。特に16世紀以降に勢力が著しく拡大するウズベク人がブハラ・ハーン国を起こすと、タジク人は南東部の山岳地帯に移動。ブハラに残ったタジク人は、次第にウズベク人と同化していくことになります。
さて、中央アジアがソ連の影響下に入る1920年、この地域一帯はブハラ共和国として統治されますが、24年の境界線画定でウズベク共和国ができ、この中にタジク自治共和国ができます。29年にはこれがウズベク共和国から切り離され、やっと現在のタジキスタンの前身となるタジク共和国が成立したというわけです。
2.タジキスタンでは何が問題になっているのですか?
ことのきっかけは、1990年に起こったドゥシャンベ事件でした。ドゥシャンベ事件とは、ソ連の移民政策の一環としてタジク共和国が受け入れることになったアルメニア人数千人に対して地元青年の抗議行動が激化。死者22人を含む大暴動に発展した事件ですが、これは二つの意味でタジキスタンのその後を占う重要な事件でした。
まず、アルメニア人ですが、19世紀にオスマン・トルコの迫害を受け、ソ連内に流れ込んだ彼らは、主にアルメニア共和国とアゼルバイジャンを活動の中心としますが、中央アジアへの進出の糸口を見出したいロシアはその後、アルメニア人の中央アジア進出を奨励するようになります。中央アジアに進出したアルメニア人は、そこで地下資源の開発や漁業、建設業、サービス業など、幅広い経済活動を展開するようになり、急速に上流階級へとのしあがっていきます。また、ソ連の中央アジア進出に手を貸したのもアルメニア人でした。反ソ連の立場から独立を宣言したトルキスタン自治政府を武力制圧したソ連軍の先鋒隊として活躍したのが、他でもないアルメニア人だったのです。
また、キリスト教徒であるアルメニア人は、イスラム主体の中央アジア諸民族とはウマが合わず、居酒屋や売春宿を経営するアルメニア人に対するイスラム教徒の嫌悪感は、長く両者の間に溝をつくってきました。
1990年に起こったドゥシャンベ事件も、こういった反アルメニア人感情が噴出した結果起こった事件であるという見方ができます。しかし、タジキスタンの内戦は、ドゥシャンベ事件以降、現在まで続いているのです。これはどうしたことでしょうか。
実はドゥシャンベ事件で明らかになったことがもう一つあります。暴動に加わったタジク人の大半は失業中の労働者で、彼らは「タジク人のためのタジキスタン」というスローガンを掲げて政権の交代を訴えたのです。つまり、独立前後のタジキスタンでは、少数のロシア人が経済を握り、大半のタジク人が食うのに困るような状況でしたから、アルメニア人を含めて、これ以上我々の仕事を奪う人が入ってきてもらっては困るという切実な訴えだったのです。つまり、タジキスタンが内戦に突入する社会的背景は、独立前に、すでに整っていたというわけです。
3.タジキスタン内戦の状況を教えてください。
さて、ドゥシャンベ事件以来、タジキスタンは富の再分配と、タジク人優遇政策を求める民衆の暴動が絶えず、危険を感じたロシア人の多くは国外に退去。ますます経済状況が悪化するという悪循環に陥ります。その一方で、1991年に独立はしたものの、独立後もロシア共産党の勢力はタジキスタンの政治の中枢を握り続けます。91年11月、非常事態宣言の中で行なわれた大統領選挙で、旧ソ連タジク共和国共産党第一書記のナビエフ大統領が選出されてからは、タジク人の政党組織が結束して反対派をつくり、政権に圧力をかけます。と、ここまでは民主的にやっていたのですが、これら反対派の集会に、体制派のグループが押し寄せて銃撃戦になったところから、タジキスタン内戦の悲劇が始まります。
92年6月、暴動は地方に飛び火し、武力衝突に発展。9月にナビエフ大統領が辞任し、同年末にラフモノフ最高会議議長が共産党政権を強化します。ラフモノフ議長は、政権支持派の軍事組織「人民戦線」を動かして93年3月にはイスラム武力勢力を戦闘で封じ込め、全土を掌握することに成功しました。94年9月、政府軍と反政府イスラム勢力は停戦に合意。それを受けて国連タジキスタン監視団(UNMOT)が同年12月に派遣されることになりました。
しかし、同年11月の大統領選でラフモノフ議長が当選し、共産党独裁体制が継続されたため国内の対立が再燃。95年にはアフガニスタンに集結した反政府イスラム勢力と、駐留ロシア軍との間で戦闘が再開されますが、96年12月にラフモノフ大統領と反政府勢力「タジク反対派連合(UTO)」の代表ヌリ氏が停戦交渉を開始。モスクワでの和平協定および「民族和解委員会に関する議定署」を署名して、97年6月には最終和平合意となる「一般協定」が締結されました。
1998年7月21日、国連タジキスタン監視団に日本から派遣されていた秋野豊政務官(前筑波大学助教授)が、何者かによって射殺されるという事件が起こりました。地域研究者は日本外交の宝であり、その若すぎる死は残念以外の何物でもありません。非常に残念な出来事でした。
4.タジキスタンの現状は?
タジキスタンは現在、ラフモン大統領(2004年にラフモノフから改名)が1992年以来の長期政権を担っています。
国連タジキスタン監視団(UNMOT)は2000年に国連タジキスタン和平構築事務所(UNTOP)に引き継がれて戦後の復興支援を行っています。特に上海協力機構を通じて中国との結びつきが強く、2006年には大規模な借款を中国から受けますが、その返済が経済運営を圧迫するようになってきました。2011年には中国との国境を、中国に有利な形で確定。パミール高原の1,000平方キロの土地が中国に割譲され、中国軍が駐留するようになりました。
タジキスタンの一人当たりのGDPは800ドル台で推移しており、2018年現在世界192カ国中173位。中央アジア5カ国の中でも最下位です。さらには国民の大多数が年収350ドル未満の生活を送っているといわれます。世界銀行の定義では一日当たりの収入が1.9ドルを貧困ラインとしていますから、タジキスタンの国民の貧困率はかなり高いことが分かります。
タジキスタンでは、2007年に公務員の名前をペルシャ風に改名したり、2009年にはロシア語を公用語から排除したりするなどして国民の民族意識と愛国心を盛り上げる活動を行ってきました。ちなみに改名後のラフモノフ大統領の名前はラフモンです。