タイ王国

出典:外務省HP 

1.タイの歴史と現状を教えてください

 13世紀の前半に登場するスコータイ朝が、タイ族最初の王朝とされていますが、以後、現在に至るまで、タイは一度も外国の支配を受けたことのない、非常に安定した国です。例外としては、16世紀と18世紀の二度、タイはビルマの侵攻を受けて崩壊寸前にまで追い詰められたことがあります。実際二度目の侵攻によってアユタヤ朝は滅亡するわけですが、タイの人は今でも教科書でこのことを教えており、タイ人のビルマ不信につながっています。よほどショックが大きかったのでしょうが、逆にいえば、それだけ長期にわたって国家が安定していたということなのでしょう。

 豊穣なメナム川流域に位置するタイは、古くから農耕が栄え、またメナム川を中心とする内陸の河川交通、およびタイ湾を通じた海上交通が発達していたおかげで、次第にインドシナ半島最大の商業、貿易立国となっていきます。1351年、タイ南部の港町アユタヤを中心にアユタヤ朝ができると、その勢力は北方のスコータイ朝を取りこんで拡大。15世紀にはカンボジアのアンコール朝を滅ぼし、またマラッカ半島にも勢力を拡大しました。

 16世紀中ごろに、ビルマの攻撃を受けて一時衰退したアユタヤは、その後独立を回復し、17世紀にはオランダ、日本、中国、インド、ペルシャなどの国との海上貿易が活性化。王都アユタヤは、東アジア、東南アジア、ベンガル湾から遠くヨーロッパを結ぶ国際貿易の拠点としての地位を確立することになります。ベルサイユ宮殿を訪問した最初のアジア人が、アユタヤ朝の使節団だったことからもわかるように、当時のタイは、アジアの一等国として世界中で認識されるようになっていたのです。

 1767年、アユタヤ朝はビルマの侵攻を受けて崩壊。王都アユタヤも徹底的に破壊されますが、トンブリー朝のタークシン王が兵を率いてビルマ軍を撃退。自ら王位について版図を取り戻しますが、トンブリー朝は一代で終了。代わって1782年に王位についたラーマ1世は、王都を現在のバンコクに移転し、ラッタナコーシン朝を開きました。このラッタナコーシン朝は、以後脈々と続き、現在のタイ王室となっています。

 さて、タイではごく最近まで、国王が直接政治を行なう絶対王政がしかれていました。この制度は5代目までは非常にうまく機能して、特に5代目のチュラロンコン王の時代には、列強の東南アジア進出圧力に対抗し得るだけの外交力と、自由貿易を支える生産力、また機能的な地方行政制度の確立による集権力を兼ね備えた国家体制が確立し、タイは近代国家の体裁を整えるに至ったのです。

 しかしながら、王様のできの善し悪しに左右されるのが絶対王政の弱点です。6代目のワチラウット王は、放漫経営で財政危機を招き、7代目のプラチャーティポック王に大きな負の遺産を与えてしまいます。おまけに世界恐慌後のタイ経済の悪化という事態が重なり、財政再建に対処しきれなくなったプラチャーティポック王は官僚の減給を決定。これが官僚の反感を生んで、7代にわたって続いたタイの絶対王政は1932年、とうとう立憲革命によってつぶされてしまいました。

 タイを訪れたことのある人はわかると思いますが、基本的に争いごとを好まない、争っても後を引かないというのが、タイ人の性格のようです。よって、この立憲革命も無血のクーデターでした。実際、革命で絶対王政を終焉に追いやった人民党は、直ちに憲法を制定して、追いやった国王を元首とする民主国家の再建設を始めるのです。ちなみに国民主権、三権分立、上下二院からなる議会制といった、西欧的議会民主制を基本とする現在の政治構造は、この時に用意されたものです。

 しかしながら、立憲民主主義の体裁は整ったものの、実際には民主化への道のりは遠く、立憲革命から30年間に実に20回を超える憲法改正が行なわれるなど、まさに試行錯誤の連続でした。結局、1938年に選出されたピブン首相のもと、タイは中央集権的な政治体制のもとで、近代国家への道を模索しはじめることになります。

2.タイと日本との関係は良いのですか?

 日本とタイとの通商関係は、15世紀の日本の文献にすでに登場していますから、かなり長い付き合いであることは確かなようです。17世紀にはアユタヤに人口1000人以上の日本人町が存在し、また山田長政などが傭兵として活躍したことは、ご存知のかたも多いと思います。さらには、チュラロンコン王の時代(1868-1910)、刑法、教育、養蚕などの分野で多数の日本人専門家がタイに御雇外国人として招待されたこともありますが、現在の日・タイ関係の基礎は、第二次世界大戦後に築かれました。

 立憲革命後に権力を握ったピブン首相は、国名を従来のシャムからタイ(自由の意)に改めるとともに、官僚制度を充実して、近代化を進めました。同氏はまた、第二次世界大戦中、日本の進駐軍を支持し、その後も日本と緊密な関係を築きあげたことでも有名です。日本敗戦後、ピブン首相は戦犯容疑に問われましたが、1951年には再び最高権力者として返り咲いています。結局、57年のクーデターによって、再び失脚した同氏でしたが、その時の亡命先も日本でした。

 さて、57~58年のクーデターで権力の座に就いたサリット首相もまた、日本とは切っても切れない関係にありました。サリット政権は、民間主導型の工業化を推進。ピブン政権以来の慣例となっていた企業の国営化を制限して、外国資本の導入を進めました。結果70年代初期には、タイの資本総額のうち、外国資本が占める割合は3割を超えるほどまでになりましたが、その4割が日本の資本でした。

 また日本は61年、戦後の二国間関係の清算として、96億円を無償でタイに供与。タイ側は、これを第一次経済開発5か年計画の柱となる発電所、鉄道車両、造船所などの建設にあて、対する日本側は、それらの建設や資材をタイ側から受注することで、戦後の経済復興に取り組みました。要するに、戦後しばらくは、互いに持ちつ持たれつの関係だったわけです。

 その関係が一時崩れた時がありました。70年代のはじめ、日本商品の氾濫によりタイの国際収支赤字の半分以上を対日貿易が占めるようになると、不況に喘ぐ国民の不満が爆発。学生を中心とする日本商品不買運動が展開されるようになったのです。日・タイ関係にとっては、不幸の70年代ともいえるでしょう。

 しかし、80年代に入ると円高と、国内の高い人件費の影響から、タイに製造と輸出の拠点を移す日系企業が増大。タイ政府も、日系企業の進出が輸出の増加につながるとの観点からこれを歓迎。日・タイ関係は、再び蜜月時代に入ります。タイは現在、海外に進出する日本企業の世界最大の受け入れ国となっており、タイに拠点を置く日系企業の数は1000社をはるかに超えています。

3.タイの通貨危機

 タイの国内総生産(GDP)は、1987年以来90年代前半まで、二桁前後の非常に高い実質成長率を達成しました。その高度成長に刺激されて、日本を始めとする世界の金融業界が、無尽蔵にタイに投資し出したのです。特に投資の多くは不動産に向けられ、土地の値段が急上昇。値上がりした土地を担保にさらに融資が膨らむといった状況でした。つまり、日本がバブル経済で浮かれていたちょうどその時、タイでも同様な過剰投資が進んでいたというわけです。

 しかしながら、人件費の急激な値上がり、ベトナムなど、新規投資先の出現などの条件が重なって、外国企業が新規投資先をタイ以外の周辺諸国へ求めはじめると、タイの景気は96年から急激に減退します。それまで実力に見合わない投資を続けた不動産業界の業績は極度に悪化。それに引きずられるように金融機関の不良債権が急増し、タイ経済は収拾のつかない困難な状況に追い込まれたわけです。日本でもタイでも、バブルの結末は同じようなものです。

 このバブル崩壊の影響でバンハーン首相は辞任。代わって96年末の選挙でチャワリット氏が首相に任命されます。チャワリット首相は、バブル崩壊後の経済の立て直しを政権の第一目標に掲げて、特にタイ通貨(バーツ)の安定化に必死に取り組みましたが、焼け石に水。結局バーツを安定させるための政策が裏目に出て、海外資金の流入が滞り、株式相場が急落。とうとう蔵相が辞任に追い込まれる事態に発展しました。

 結局97年7月、タイ中央銀行はバーツの防衛政策を断念。為替制度を、従来の対ドル固定制から変動相場制に移行しましたが、実力以上の公式レートを維持していたバーツは予想通り暴落。事態はタイ一国で収拾不可能な状態にまで発展してしまいました。この時点でIMFと日本輸出入銀行が協調介入。総額172億ドルに及ぶ財政支援を行なうことになりました。結局、チャワリット内閣は、通貨危機の責任を問われるかたちで総辞職に追い込まれました。

 このように、 通貨危機が直接の引き金となって辞職を余儀なくされたチャワリット首相ですが、政治手腕は高く、特に歴史始まって以来の民衆による新憲法を成立させたという点は、現在でも評価が高いようです。97年9月に可決された新憲法は、国民が直接政治に関与する道を開き、第三者が政権の監視を行なうシステムを導入して、悪質な政治家の排除に道を開いた点や、閣僚と政治家の兼務を排除して、権力の集中を防いだ点など、民主化の総決算といわれるほどの内容が盛り込まれました。

 さて、11月のチャワリット首相辞任を受けて新首相に任命されたチュアン氏のもと、タイはIMFの指導を受けつつ経済再建に取り組みました。98年1月には日本輸出入銀行を通じて輸出支援のために5億ドルが融資されたほか、3月にはIMFによる第3弾の融資として2.7億ドル、日本輸出入銀行の現地企業向けの融資として6億ドルの融資が決定。4月には、17カ国・地域から64の金融機関が協調して総額10億ドルの融資を行なうことが決まりました。さらに、98年7月にはタイに対するIMFの融資枠が従来の15億ドルから21億ドルにまで引き上げられ、そのうち7億ドルの融資が決定し、ここにきてタイ経済への国際的な信頼度も回復に向かいました。

4.タイの現状

 アジア通貨危機を乗り越えたタイ経済は再び急成長しますが、2001年ごろから雲行きが怪しくなってきます。タイの政治は、従来軍主導型で、政党の設立そのものも制限されてきました。そのような状態を打破して民主化を推進しようとする動きが1970年代に学生の間で巻き起こり、軍との間で衝突を繰り返すようになります。1992年には「暗黒の5月事件」と呼ばれる衝突事件が起こり、多数の犠牲者が発生するまでに至りました。この反省から1997年の憲法ではより民意が政治に反映されるように選挙制度を改革したり、汚職を撲滅する制度を作ったりして、従来「半分の民主主義」と呼ばれていた軍主導型の政治形態の変革が盛り込まれました。

 こうして行われた2001年の選挙で、国民の圧倒的な支持を受けて当選したタクシン首相が誕生。2005年の選挙では、実に議席の3分の2を占める第一党の党首として再選されます。しかしながら、支持率の高い政権にはおごりがつきものです。この頃から政権内部では汚職や縁故主義が広がっていると非難する民衆の反政府デモが展開されるようになります。これらの民衆は選挙で大敗した軍と結びつき、王室のシンブルカラーである黄色のシャツを着てデモを繰り返すようになりました。これを反タクシン勢力と呼びます。それに対してタクシン首相擁護派は赤いシャツで対抗。2006年にはタクシンはと反タクシン派の大規模集会が衝突を繰り返す事態に発展します。これを機に、タクシン首相は議会を解散。総選挙で国民の信を問う戦略に打って出ます。ところが選挙では圧倒的に不利と見た反タクシン派は選挙をボイコット。結局混とんとした政治に終止符を打つべく軍がクーデターで介入して議会を停止。2007年に新憲法を公布して12月に選挙を行いましたが、結果は再びタクシン派の勝利。タクシン派のサマック政権が発足しましたが、軍の影響を受けた司法の介入で失職。ついで就任したタクシン前首相の義弟ソムチャーイ氏も司法の介入で失職するという政変がありました。

 2008年、選挙を経ずに反タクシン派のアビシット政権が組閣する事態に至って、タクシン元首相派の民衆が蜂起。赤シャツの民衆が総選挙を求めて大規模なデモを行い、それに対してアビシット政権側は徹底的にデモを弾圧。多数の犠牲者を出す事件が相次ぎました。

 こうした中で行われた2011年の総選挙では、再びタクシン派が勝利。インラック首相が組閣しますが、2013年に反タクシン派のデモが急増。2014年にはインラック首相がまた司法の介入というお決まりのパターンで失職。次いで軍事クーデターが起こり、議会は停止されて、プラユット軍事政権が発足します。

 この政治的混乱の中、2016年10月13日、即位以来70年間にわたって国民の尊敬と敬愛の対象であり続けたプミポン国王が崩御。同年末にワチラロンコン皇太子が即位して、ラーマ10世として即位されます。タイ国民は死を悼んで1年間の喪に服しますが、これによってタイ国内の混乱は収まってしまいます。日本の皇室と同様に、タイ国民にとってタイ王室の存在はそれほどまでに大きいのですね。2017年には国王の権限が強化された新憲法が公布され、新憲法の中で行われた2019年の選挙ではプラユット新政権が発足しています。これによって軍主導の暫定政権「国家平和秩序維持評議会(NCPO)」は解散され、民政が復帰しましたが、上院議員250名全員がNCPO出身者で占められるなど軍の影響力は健在です。

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