ソマリア連邦共和国
出典:外務省HP
ソマリアの状況は、現在、すでに国として機能しているのかどうかもわからないくらい混乱を極めています。第一、ソマリア民主共和国には、ソマリランド、プントランドという、互いに独立を認め合っていない2つの独立した自治区または「独立国」があるのです。それらの「国家」の紙幣も、カナダやインドネシアで偽造した紙幣を空輸して使っているような状態ですから、早い話が無政府状態。また95年以降外国人部隊も、NGO活動の拠点もすべて撤退しているような状態ですから、テロ組織の温床になったとしても不思議ではありません。
また無政府状態のソマリア沖では海賊の活動が活発になり、2009年からは多国籍の合同任務部隊(CTF)がこれら海賊の取り締まりに当たっています。参加国はアメリカ、カナダ、デンマーク、フランス、オランダ、パキスタン、イギリス、オーストラリア、日本など17か国で、2015年から2020年にかけては4人の日本人の司令官(伊藤弘、福田達也、梶尾大介、石巻義康)が多国籍部隊を統率して任務にあたっておられます。
1.独立から紛争へ
アフリカにおける紛争や内戦は、独立の際の権力闘争がきっかけとなって起こるという傾向があります。「1960年代はアフリカの年」と言われるように、アフリカ諸国は60年代に次々と独立を達成するわけですが、独立後に誰が権力を担うかといった問題で、今日までゴタゴタが続いている国が少なくありません。ソマリアも60年代以来の権力闘争が、対立の根底をなしている国の一つです。
ソマリアは、18世紀初頭から19世紀末までオマーン(アラビア半島東北部)の支配下に組み込まれていました。ちなみに、このオマーンがおこなった奴隷貿易で、ソマリア人は労働者として中東に広く浸透していくことになります。現在、アラビア半島で見かける肌の黒い人々は、この時ソマリアから連れてこられた人々の末裔だと言われています。そんなソマリアの最初に目を付けたのがイギリスです。19世紀、インドの植民地化計画を実行しつつあったイギリスは、インド航路の中継地をアデン(イエメン海岸)に置きますが、当時はアデン以外のイエメンはイギリスの影響外にあったので、食糧の確保のために、どうしても対岸のソマリアを抑える必要があったのです。
ということで、1887年、イギリスはソマリア北部を保護領化し、「イギリス領ソマリランド」を設立します。同時期、現在のジブチ共和国にはフランスが「フランス領ソマリランド」を設立。またソマリア南部に進出していたイタリア勢力は、1894年に南部地域を支配。1908年には「イタリア領ソマリランド」を設立します。こうしてソマリアは、北部、南部を、それぞれイギリス、フランス、イタリアに支配された状態で第二次世界大戦の終結を迎えるのです。
第二次世界大戦の戦後処理で、敗戦国のイタリアが支配するソマリア南部の処遇が問題になりましたが、国連は60年にソマリア南部を返還することをイタリアに義務づけました。これをきっかけにソマリア内ではソマリ青年同盟(SYL)という民族組織が結成され、全ソマリアの独立を目指して運動を開始します。こうした民族運動の広がりを見たイギリスも、次第にソマリアの独立を支持するようになり、イタリアが領土の返還をおこなう60年にあわせて、北部支配地域を返還。ソマリア全土は、「ソマリア共和国」として完全独立を達成する事になります。それから今日まで、ソマリアの歴史は国境紛争、内部対立、飢餓、分裂など、ありとあらゆる苦難に彩られていくことを、この時、誰が想像したでしょうか。
(注)フランス領ソマリランドは、1977年ジブチ共和国として独立。
2.大ソマリア主義の代償
独立を果たしたソマリアは、それからしばらく国境の画定に奔走します。ソマリアは、西のエチオピアと、南のケニアに国境を接していますが、エチオピアとの国境問題は、1900年のエチオピア進入以来あやふやになっていましたし、現在ケニア領土の3分の1を構成する「北部国境地帯」の帰属についても決着を付けなければなりませんでした。
最初の難関は63年に訪れました。1895年以来、「東アフリカ保護領」としてケニアを統治してきたイギリスは、63年末にケニアの独立を承認するのですが、その際イギリスは、ソマリ族主体の北部国境地帯を、うっかりケニアに編入してしまったのです。この事が結果的にソマリア対ケニアの国境紛争の引き金になってしまいました。
ソマリアは、北部国境地帯に住む住民の大半がソマリ族であるという理由から、その併合を主張。ケニア内部のソマリ族の分離独立運動を刺激しますが、ケニア側はこの動きを力で制圧。ケニア国境周辺の紛争は、それ以後81年まで断続的に続く事になります。
一方、69年のクーデターで、バーレ大統領率いる軍事政権が誕生すると、ソマリアは身の程知らずの夢を追いかけるようになります。ケニアのソマリ族と、エチオピアのソマリ族を武力で統合して、ソマリ族による国家作りをするという、いわゆる「大ソマリア主義」です。よせばいいのに、それを本当に実行してしまったのが運の尽きです。バーレ大統領は、国力に似合わない大軍を動かしながら独裁を強化すると共に、77年から78年にかけて、エチオピアに戦争を仕掛けるのです(オガデン紛争)。結果はソマリアの完敗。「大ソマリア主義」は頓挫してしまいました。
当然の事ながら、多大な戦争費用と軍隊の拡張計画は、もともと豊かだとは言えないソマリア経済を圧迫しだします。それに加えて主要輸出品であるバナナの国有化政策も失敗に終わり、さらにバナナと並ぶ輸出品目であった畜産品に至っては、83年、最大の輸出先だったサウジアラビアが輸入停止をした影響をまともに受け、80年代後半は、とうとう外貨がほとんど入って来ない状況が続きました。まさに泣きっ面にハチの状態です。
ここに来て、国民の不満は一挙に爆発。21年間に渡る独裁をほしいままにしていたバーレ大統領を打倒する動きが各地で展開されます。反バーレ派は、統一ソマリア会議(USC)を結成して首都モガディシオの攻略を開始。一方、軍を掌握するバーレ大統領は、反政府組織に対する徹底的な弾圧でそれに応え、1990年、ソマリアは内戦に突入します。
結局91年にバーレ大統領が失脚し、内戦の第一回戦は幕を閉じるわけですが、北部では反政府勢力が結集して一方的に「ソマリランド共和国」の独立を宣言します。このソマリランド共和国は、国際的に承認を受けた国ではありませんが、現在でもイサック氏族が安定的に支配。独自の「大統領」と行政システムを持っており、EUの開発プロジェクトを受けるなど、実質上ソマリア国内の「国家」としての機能を保持しています。
3.抜け道のない紛争
バーレ大統領を失脚に追いやったUSC内では内部分裂が起こり、アリ・マハデイ・モハメド暫定大統領の承認を、同国最大の武装勢力であるアイディード将軍一派が拒否したため、内戦第二回戦の火蓋が切って落とされます。国内最大の混乱を引き起こしたこの内戦第二回戦は、あいにく天候にも恵まれず、干ばつ続きの中で行われたため、ソマリア国内で200万人といわれる餓死者と、30万人を越す難民を計上する結果となりました。
見かねた国連は、92年の暮れ、ソマリア介入を決意(第一次国連ソマリア活動-UNOSOM1)。アメリカ軍を中心に食糧の供給、秩序の回復、民兵組織の武装解除を目指しましたが、アイディード将軍派による執拗なゲリラ攻撃に会い、死傷者を出すに至って、1年後の撤退を余儀なくされました。国連平和維持軍撤退後、マハディ・モハメド暫定大統領対アイディード将軍派の抗争は再燃。治安悪化を理由に、民間団体のほとんどがソマリアを後にしました。
アイディード派はその後、武装勢力4派でソマリア国民同盟(SNA)を結成。対するモハメド派も武装勢力11派を傘下に入れ内戦が激化しました。見かねた国連は、再びソマリアに対する多国籍軍派遣を決定。93年5月、平和執行部隊(UNOSOM2)が展開を開始しましたが、アイディード派との戦闘が多発。主力の米海兵隊部隊にも死傷者が続出して、94年末、国連安保理はUNOSOM2の完全撤退を決議。95年には外国部隊はすべてソマリアから撤退することになりました。ソマリアPKOでは部隊展開以来130名以上が犠牲になりました。
国連平和執行部隊撤退後のソマリアでは内戦が続けられ、95年にはアイディード派のアリ・アトがSNAから分裂してアイディード派との戦闘に突入。96年には、アイディード将軍が戦死したにもかかわらず、三男のフセイン・アイディードが後継者となり、モハメド派、アト派との三つ巴の戦闘が続きました。97年にはエチオピアで武装26派が会議を開き、無条件停戦などを定めた和平協定に調印したのですが、まったく機能せず、戦闘状態は現在まで続いています。98年には、北西部の氏族の一部であるダロッド氏族が一方的に自治を宣言し、「プントランド」という独自の地方行政組織を設立して現在にいたっています。
その後ソマリアでは、2000年5月にシブチで行われた和平会議に基づいて暫定議会が発足。暫定政府大統領にはアブディカシム・サラド・ハッサン元内相が選出され、91年のバーレ政権崩壊後、約10年ぶりに政府が発足したわけですが、アイディード派やアト派、独立を宣言しているソマリランド、プントランドなどは暫定政権を認めておらず、内戦状態の改善には期待が持てません。