スーダン共和国
出典:外務省HP
1.スーダンの歴史を手短に教えて下さい
アフリカ最大の国スーダンには、エチオピアを源流とする青ナイルと、ビクトリア湖を源流に北上する白ナイルが流れ、北はサハラ砂漠、中央部はサバンナ、南は熱帯雨林を擁すという、気候のデパートのようなところです。人種的にも北部のハム語族系住民と、南部の黒人住民地域と、紅海を渡って定住したセム語系アラブ人との混合で、こちらも多種多様です。
スーダン北部のヌビア砂漠地方は、今はすっかり砂漠になっていますが、古代には砂漠化が進んでおらず、その上エジプトから紅海を経由してインドに至る貿易路の中継地に位置しているという、経済戦略上の重要な地点でしたから、古代エジプト王朝は、積極的にスーダンに進出して支配を続けてきました。しかしながら、スーダンは古代エジプトオ王朝の衰退と共に力を盛り返し、紀元前9世紀にはヌビアにクシュ王国が成立。紀元前8世紀にはエジプトを占領して第25王朝を起こしたことでも有名です。
このクシュ王国はその後乾燥期に入ったサハラを避けて南下し、メロエ王国を樹立。豊富な農林資源と鉄の産出とで、国際貿易の中心地として栄えました。
このメロエ王国は4世紀にエチオピアのアクスム王国というキリスト教国に滅ぼされ以後キリスト教化します。ですから、スーダンのキリスト教の歴史は非常に古いのです。彼らは、7世紀にエジプトがイスラム化されてもなかなかイスラム化せずにキリスト教の信仰を受け継ぎました。完全にイスラム化されるのは、エジプトのマムルーク朝の支配を受ける14世紀に入ってからです。以後、イスラム化した北部地域の集落が合同して16世紀にフンジ王国(1515~1821年)やダルフール王国(1596~1874年)というイスラム王国を建国して、19世紀、エジプトのムハンマド・アリーの征服を受けるまで存続します。
天然資源と労働資源の獲得のために行われたエジプトのスーダン支配は苛酷で、住民はイスラム神秘家(スーフィー)たちのもとに集いエジプトに対する抵抗を開始します、そのうちの一人ムハンマド・アフマドは自らマフディー(救世主)宣言をしてエジプトに対する反乱を始動します。このマフディーの反乱により、1885年、スーダンはエジプト支配から解放されましたが、それもつかの間、1898年にはイギリスとエジプトの連合軍に敗れ、翌年より両国の共同統治下に置かれます。
2.スーダン内戦のきっかけは?
どうやらイギリスの統治形態にその鍵がありそうです。1924年、スーダンはイギリスの直接統治となりますが、そのときキリスト教中心の南部はイスラム教中心の北部から分断され、アラブ的要素を一切否定されました。スーダン南部と北部の内戦の種は、実は、植民地支配期に撒かれていたわけです。
さて、第二次世界大戦後、エジプトでナセル氏率いる自由将校団によるクーデターが成功して、1953年から王制が共和制に移行するようになると、イギリスはエジプト及びスーダンを手放す決定を下し、スーダンは1956年に独立を達成するのですが、南部スーダンでは独立の前年から自治要求運動が広まり、北部と対立するようになります。1958年にクーデターによって権力を掌握したアブード将軍は、南部の自治運動を弾圧し、イスラム化を促す政策を断行したため、南部のキリスト教徒はスーダン・アフリカ人民族同盟という抵抗組織を結成して分離独立運動を展開します(第一次内戦)。
3.第二次内戦と南スーダンの独立
1965年に一時民生化したスーダンでしたが、69年に再び軍部のクーデターでヌメイリー政権が発足。85年までの長期政権を樹立します。ヌメイリー政権は南部との平和協定を72年に結んで、南部の自治を許可。74年にはイスラム系の反政府組織とも和解して、経済復興によるスーダンの再統一を目指した改革が続きました。
しかし、1983年にヌメイリー政権が導入したイスラム法は、特に南部キリスト教徒の不評を買い、「ディンカ人」と呼ばれるキリスト教徒を主体とするスーダン人民解放軍(SPLA)が北部政府の一方的なイスラム化に反発するゲリラ闘争を開始。第二次内戦に突入します。
この第二次内戦は、諸外国の調停活動もあり、政府の一方的なイスラム化への動きを緩和する方向でまとまりかけたのですが、そんな中、バシール准将が民族イスラム戦線(NIF)と連携して1989年に無血クーデターを起こし、自らが国家元首、革命委議長、首相、国防相、軍最高司令官という地位に就任します。
バシール政権はNIFと連携して、さらに一方的なイスラム化を推進したため、キリスト教徒主体のスーダン人民解放軍(SPLA)との衝突が南部で激化しました。1995年になるとカーター米元大統領が内戦の仲介に乗り出し一時停戦が実現。96年に議会選挙を実施したのですが、主要野党は選挙をボイコット。逆にSPLAは隣国エリトリアを拠点に活動する国民民主同盟(NDA)と共闘を開始して内戦が拡大してしまいました。
1997年からは政府と反政府勢力の歩み寄りが再開して、SPLAを除く反政府勢力4派が政府と和平協定に調印。翌98年に政党結成の自由などを含む新憲法を国民投票で採択して、いよいよSPLAとの交渉も始まりましたが、バシール大統領はその後、反大統領派を排除するために非常事態を宣言して国民議会も解散。2001年には反大統領派の筆頭だったトラービー氏を逮捕して、権限の強化に努めました。
2005年、バシール大統領はSPLAとの和平交渉にも踏み切り、同年7月にSPLAのガラン最高司令官を第一副大統領とする暫定政権が発足。6年後の2011年に北部のイスラム教徒系政権と南部のキリスト教系政府が連立を組むかどうか、南部で住民投票を行うことで同意しました。
ところが、この同意が得られた直後、ガラン最高司令官がヘリコプター事故で事故死。これを受けた南部住民がアラブ系住民を攻撃するなどして、南部は再び混乱すると同時に北部政権に対する不信感を強め、2011年の住民投票で、南部住民は独立を選択。7月11日に南スーダン共和国として独立することになります。
4.周辺国への影響
スーダンの内戦は、周辺国の内政にも影響を与えています。特にスーダン南部と国境を接するウガンダは、人口の6割をキリスト教徒が占めるキリスト教国ですから、スーダン南部のキリスト教系反政府組織SPLAを支援していますが、この態度に業を煮やしたスーダン政府は、逆にウガンダの反政府勢力である「神の抵抗軍」(LRA)を支援していました。このような対立関係は、1998年に勃発したコンゴ民主共和国の内戦にも現れています。ウガンダとルワンダ政府軍がコンゴの反政府軍を支援する傍ら、スーダンはコンゴ政府軍を支援しました。この様に、スーダン内戦は、今までにない紛争の火種を周辺諸国に広げていたのです。
イスラム教徒を中心とする北部の勢力と、キリスト教徒中心の南部の勢力が28年間にわたり武力衝突した代価は決して安くはありませんでした。内戦と飢餓による死者は180万人から200万人に上るとされ、98年には飢餓で数カ月に5万人が死亡したと報道されています。さらには西部のダルフール地方では2003年以降アラブ系、非アラブ系の民族の紛争が激化して、北部政府軍が大量虐殺を行ったとされる「ダルフール紛争」が発生して、スーダンの情勢をさらに悪化させました。
さて、対立する団体や政治家、民族を武力で徹底的に粛清して、30年間にわたって独裁政権を続けてきたバシール大統領は、2018年末、パンの値上げをきっかけに起こった反政府運動に対処することができず、2014年に軍のクーデターで失脚。現在ハムドク暫定政権のもとで、2022年に民主選挙を行うことを目指しています。